あまりにも少しずつの変化だったから、ずっと傍にいたせいで気づかなかった。
だからこうして、少し顔をあわせずにいただけで、あらためて思い知らされる。
傍らで咲いている藤の花の色と香が、どれほどのものなのか。
「てか昌浩、お前今年で幾つになったよ」
「十八………」
十八でそれか。
思いはしたが口には出さず、物の怪は着替えるなり文台に突っ伏した昌浩の懊悩に、そのままつきあってやることにした。
彰子は十七。
この邸に来たのが、数え十二のときだから、かれこれ五年近くはここにいることになる。彼女はあっという間にこの家に馴染み、いつしかその居心地の良さが当たり前になっていた。
毎日顔を合わせるから、その変化すら気づけずにいたほどに。
日々というのは連続だ。変化というものはその積み重ね。ひとつひとつはあまりに微細で見過ごされてしまい、降り積もって目にあきらかになったとき、人はそれに驚く。
まあようするに。
(惚れ直したんだろうが。そのぐらい自分で気づけや、孫………)
悶々としている昌浩の横で、物の怪は深々と嘆息した。
「昌浩、お前彰子に渡すものがあるんだろうが。とっとと渡して、播磨でのみやげ話でもしてこい」
「ええっ !?」
何やらうろたえた声をあげた昌浩は、文台の上に置かれた包みを手にとったものの、そのままの姿勢で固まってしまった。そして半眼になる。
「………て、もっくん。播磨でのみやげ話って、会う陰陽法師ことごとくに『おぬしがあの晴明の孫か! いざ尋常に勝負ッ!』とか言われまくったことぐらいしかないんだけど !?」
「おう、あれはすごかったな。全部蹴散らしただろう。武勇伝、武勇伝」
播磨はもともと陰陽師をよく輩出する土地で、在野の陰陽師や陰陽法師が数多くいる。そして束縛されぬことを由とする彼らにとって、天地陰陽の理の知識を国と貴族のために用いる宮廷陰陽師は目の敵なのだ。特にその筆頭、安倍晴明。そしてその孫。
「そんなこと話してどうするんだよ。勝負したなんて言ったらまた心配かけるし!」
「それ以外にもあるだろうが。もともと針は頼まれものでみやげじゃないだろう」
「あ、そうだった」
昌浩が呟いたところで、妻戸が叩かれ彰子の声がした。
「昌浩、いる?」
途端に昌浩の背筋が伸びる。今更何をしゃちほこばっているのやら。五年近くも一緒に暮らしておいて、本当に今更である。
仕方がないので物の怪が返事をすると、妻戸が開き、彰子がちょこんと顔を出した。
「昌浩、露樹様がね、お腹すいていませんかって。朝餉の残りでよければ何か用意しましょうかって」
時刻は未の刻あたりか。中途半端な時間である。
昌浩は首を横にふった。
「いや、夕餉まで待つよ」
「そう? じゃあね、これ」
彰子は微笑して、懐から包みを取りだした。部屋に入ってくると、昌浩の正面で膝を折り、包みを置く。
「もしお腹すいたらこれを食べててね。干し杏と胡桃」
ここで昌浩は礼を言うべきだった。普通に「ありがとう」と一言、笑って言えばすむことだった。
膝を折った彰子の肩から黒髪が滑り落ちる。
ふわりと動いた空気に、自分のものではない伽羅の香が薫った。匂い袋の香を合わせるときに出るほんの少しの余りを練って、彰子が自分用の薫き物にしていることを昌浩は知っている。練るために蜜を加えるから、そのせいでわずかに香りが違う。
少し甘さのある香。
伏せがちな目元の、その睫毛の長さ。
思わず息を呑んでしまったその微かな気配をとらえたのか、彰子が顔をあげる。
―――時が止まった。
頭が真っ白になり、硬直してしまったらしい昌浩の気配を察し、物の怪は嘆息しながら今回だけは助け船を出すことにした。ここまで来たら進むにまかせて放っておきたい気分なのだが、放っておいても後退するだけのような気がしたのだ。
端近にあった几帳を思いきり倒す。派手な音とともに部屋の雰囲気があとかたもなく壊れた。
憑き物が落ちたように、昌浩と彰子がこちらを見やる。
「悪い、倒した」
倒したではなく、蹴倒したの間違いではないだろうか。
昌浩が幾度か口を開閉したが、物の怪が憮然とした表情で尻尾をふっているのを見て、無言のまま立ちあがり、倒れた几帳を元通りに起こした。
それから戻ってきて円座に腰を下ろすと、彰子が置いた包みを手にとった。
「ありがとう。荷の整理をしながら食べるよ。彰子は厨で母上の手伝いをしてたんだろ?」
袴が先ほどとは違う対丈の切袴になっているのを見てとっての言葉に、彰子は戸惑ったようにうなずいた。さっきの一瞬の空白をまだ理解しきれていないような顔だった。
「そうだ、これ」
有無を言わさず昌浩の手が文台にあった油紙の包みを彰子の手に押しつける。
「頼まれてた、針」
播磨は質の良い縫い針を産するらしいので、買ってきてほしいと頼まれていたのだ。
「おみやげは別にあるから、また後で渡すよ。いまは夕餉前だし、彰子も厨を抜けてきたんだろ?」
話は終わりとばかりに昌浩に笑まれ、彰子は目をしばたたいたが、やがて納得したのか微笑してうなずいた。
「じゃあ私、露樹さまのお手伝いをしてくるわね。昌浩の好きな鰯ですって」
「うん、楽しみにしてる」
昌浩がそう言うと、彰子は立ちあがり妻戸に手をかけたが、出ていく寸前、わずかに部屋のほうをふり向いた。
一瞬、何か言いたげな気色が双眸に宿ったが、すぐに微笑んで廊へと出ていく。
妻戸が閉じられ、遠ざかる足音を聞きながら昌浩はしばらく微動だにしなかった。
硬直したままのその背に、物の怪は冷ややかな声を投げかける。
「次は助けんぞ」
「…………」
もともと俺が出しゃばるようなことでもないしな、と物の怪は独り言のように呟いて簀子近くで丸まっていたが、やがて何の音沙汰もないことを不審に思い、顔をあげた。
彰子を見送ったままの姿勢で固まっていた昌浩が、物の怪の視線に気づいて、ようやっと手にした包みを開け、中の干し杏を指でひとつ摘む。
しかし摘んだまま、また固まる。
事実と現実と自覚の齟齬にいまだ混乱を来しているらしい少年を見て、物の怪は何度目かの溜息をついた。
「―――っ」
厨で菜を切っていた彰子は、じわりと赤く滲みだした指先を慌てて唇で吸った。
気づいた露樹が、軽く目を瞠る。
「まあ、彰子さん」
「だいじょうぶです」
露樹が何か言う前に彰子は慌てて手をふってみせ、無事な右手で水瓶から柄杓をとった。
「ちょっと洗ってきますね」
厨から裏庭に出ると、すぐに傍らにふわりと神気が降りたつ。
「姫、怪我をされたのですか」
心配げに眉をひそめて問うたのは十二神将がひとり、天一。
彼女が持つ力のなかで、他のどの神将も有しない力は、諸々の傷や穢れを自身の身に遷すことで対象を浄める移し身の力だ。
天一の意を察した彰子は、慌てて傷ついた手を握りこむ。
「だいじょうぶよ。血止草でも巻いてればすぐに治るわ」
庭に出てきたのもそのためだ。安倍邸に来て数年になる。すっかり庭に生えている草の名前とその用法まで憶えてしまっていた。
「ですが、包丁を扱うには不便でしょう。まだ夕餉の支度の途中だったのではないのですか」
重ねて言われ、彰子は言葉に詰まった。
たしかに調理はまだ途中だ。羮の具材は彰子に任されており、露樹のほうは鰯を調理している。―――実はいまだに魚がうまく調理できないのだ。天日でかちこちになった魚はかなりの強敵だった。
彰子が魚を調理できない以上、露樹に羮まで任せてしまうわけにはいかない。しかし、傷を治してもらうということは、天一が傷を負うということだ。
躊躇する彰子に、天一はやわらかく微笑した。
「どうぞお気になさいますな。姫の言う通り、血止草でも巻いていればすぐに治りますから」
めずらしい天一の冗談に彰子は吹きだし、それから罰が悪そうな顔で握った手を開くと、おずおずと差しだした。
「………ごめんなさい。いいのかしら」
「お気になさらず、どうぞ姫は夕餉の支度を続けてくださいませ。今日からは久しぶりに昌浩様もお揃いですから」
彰子の瞳がかすかに揺らいだ。
移し身を行い、先ほどの彰子のように指先を唇に持っていった天一がその表情を見咎める。
「………どうなさいました?」
「うん。昌浩………なんか様子が変だったような気がして………」
彰子に向けるその表情が妙にぎこちなかった。話は終わりとばかりに笑まれてしまって、正直なところ、その笑顔に呑まれてしまった。
昌浩に微笑まれてしまうと、もうその時点で彰子は何も言えなくなるのだ。
これは出逢った頃からの癖というか反射のようなもので、向こうから話してくれるまで待つという、待ちの姿勢ができあがってしまっている。
以前は、あまりにも聞くに聞けないことが多すぎたから―――。
おまけに、ここ二、三年で目をみはるほどに変わってしまったその容貌。たしかに昌浩には違いないのだけれど、背なんかあっという間に伸びてしまって。かつて御簾越しに合わせた手は、彰子の手よりもずっと大きくなってしまった。
顔だちも子どもっぽさがなくなって。すっとした線の輪郭が凛々しくて。
それでも彰子に向けられる眼差しだけは変わらないから、ときどき息が止まるような思いがする。
………だから、微笑まれてしまうと、もう本当にお手上げなのだ。
指を切ってしまったのも、さっきの昌浩とのことが気になって、ぼんやりしていたせいだ。安倍邸に来てから毎日のように露樹を手伝っていた彰子の包丁づかいは、もはやうっかり指を切るような技倆ではない。
驚いたように彰子を見ていた昌浩の表情―――。
「………帰ってきたばかりで、疲れているだけなのかもしれないわ」
胸のざわめきを押さえつけるように彰子はそう言った。
「おみやげも後でって言われたし、歩き通しで帰ってきたんですものね」
ことさらに彰子がそう言うと、天一は何やら困ったように微笑したものの、控えめに相づちをうった。
「昌浩様、おみやげは何だと仰っていましたか」
「まだ教えてもらってないの。何かしら」
嬉しそうに笑うと、彰子は天一に移し身の礼を言い、厨に戻っていった。
その後ろ姿を見送り、天一は屋根の上に視線を移す。渋い顔した朱雀とおのれの指先を交互に見つめ、わずかに苦笑すると天一はそのまま隠形した。