その夜、昌浩の部屋を訪れた彰子は、昌浩が床に狩衣を広げているのを見て目を丸くした。
「どうしたの? もしかして、どこか破れてしまったの?」
昌浩の正面に膝をつき、慌てて狩衣を持ちあげようとする彰子を物の怪が止めた。
「いや違う彰子。何でも、これでいいんだと」
「?」
わけがわからず、彰子は広げられた狩衣に視線を落とす。
闇にまぎれる暗い色が多い昌浩の衣のなかではめずらしく、明るい水浅葱に染められた狩衣だ。色が明るすぎて夜警に着ていけないためか、傷みも少なく、真新しい感じがする。
それを昌浩は床いっぱいに、可能な限り大きく広げている。
顔をあげると、昌浩は少し照れくさそうに笑った。―――ああ、昌浩の笑顔だ。そう思うだけで、とくんと鼓動が大きく跳ねる。
「彰子、ちょっと後ろ向いててくれる?」
「え? ええ………?」
急に言われ戸惑いはしたものの、彰子は素直にその言にしたがった。
背後で昌浩が何かの包みをほどく音がする。ちゃりちゃりと固い何かが触れあう音がして、続いて布の上に何か置かれる鈍い物音。いったい何をしているのだろうと気になったが、その様子を見ているはずの物の怪は昌浩の意を汲んでいるのか、何も言わない。
しばらく灯芯が燃える音だけが響き、ようやく昌浩が彰子の名を呼んだ。
「彰子、いいよ。こっち向いて」
そうっとふり向いて、すぐに彰子は目をみはった。
二人のあいだに、海ができていた。
水浅葱の衣の上に一面に色とりどりの貝が置かれて、まるで磯のようだった。灯台の炎の揺らめきに、衣の皺から生まれた影が波のように貝にうちよせている。
何てたくさんの貝だろう。
貝合わせに使う蛤のような形の貝は、外側が白くて、内側が瑪瑙のような赤と茶に染まっていた。青い水の波紋のような模様の貝もある。宝珠のようにずんぐりと渦をまいた貝もあれば、こよりのように細長く巻いた貝もある。
碁石のような丸い貝に、五方に足を伸ばしたような不思議な形をした貝。白と茶で三重襷文を染め抜いたような、ぽってりした楕円の貝。爪の先ほどの小さな小さな貝は、手のひらいっぱいほども量があって、淡い桜色。
どの貝からも、彰子がいままで嗅いだことのない少し生臭い、甘苦い匂いがした。―――本物の、潮の香。
彰子が見たこともない海がここにある。
夢中になって眺めていた彰子は手にとったごつごつした平たい貝を何気なく裏返して息を呑んだ。
「なんて綺麗なのかしら………!」
内側全体が、虹色の輝きを帯びて光っていた。しばらく見蕩れた後で、ようやくそれが螺鈿細工の輝きとよく似ていることに気づく。そういえば、螺鈿のあの小さな虹の欠片は貝からとれるのだと聞いたことがある。
角度を変えて灯火の光を弾かせ、子どものように魅入っていた彰子は、ふと我に返って昌浩のほうを見た。
昌浩は呆然と彰子のほうを見つめている。
目があって、なぜか二人とも慌てた。
「ご、ごめんなさい! 夢中になってしまって………!」
「えっ、あっ、いや!」
焦って意味もなく腰を浮かせかけた昌浩だったが、立ちあがってどうなると気づいたのか、あたふたとまた座りなおしたところに、絶妙な間で物の怪の声が割って入る。
「しかし、こんなに夢中になってくれるとは拾ってきたかいがあったなあ、昌浩や」
「………もっくん、それシャレ?」
半眼になった昌浩にかまわず、彰子は貝を衣の上に置きなおし、彼のほうを見た。
「すごいわ。これみんな、昌浩が磯からとってきてくれたの………!? 」
頬を紅潮させ、瞳もきらきらと輝かせている彰子の姿は、気を抜くと見つめたまま硬直してしまいそうになる。昌浩は慌てて貝のほうに視線をそらした。
「全部じゃないよ。俺ともっくんが拾ったのはほんのちょっとだけ。あとは、ちょうど浜で貝を拾ってた女の子に行き会って、交渉して譲ってもらったんだ。彰子、こういうの見たことないと思って」
「うん、見たことなかったわ。すごい。磯にはこんなものがたくさん落ちているのね………」
「すごいよ。一面砂で、あとはどこまでも海の水が広がってるんだ。波が寄せてきて、その波にのって、貝が海から浜に打ちあげられる」
二人とも、視線は青い衣の上へと向けられていた。彰子は肩から滑り落ちてくる髪を押さえてまで、昌浩が思いついた即席の海に見入っている。
「この五行図みたいなのは海紅葉という名前だって言ってた。碁石みたいなのは、栄螺の蓋なんだってさ。俺もよくわからないけど」
「栄螺の?」
びっくりして彰子はその丸いものを拾いあげた。すべすべしていて、片面が平たく、渦巻きの模様がある。もう片面がふっくらと丸くなっていて、ほんのりと白かった。
「栄螺はお父さまのところに荘園から届けられたものを見たことあるわ。でも、蓋があるなんて知らなかった」
「俺も知らなかった」
彰子が顔をあげて昌浩を見る。二人して同時に吹きだした。栄螺と言えば、いままで食べ物だとしか思っていなかったのだ。
ぎこちなさがほどけ、彰子はいつものように昌浩に笑いかけた。
「ねえ、昌浩ともっくんが拾ったのはどれ?」
「えっとね、これとこれが俺で、この鮑はもっくんのお手柄」
「おう、普通は中味があるうちに採られて、殻も高値で売られるからな。まず見つからないぞ。偉いだろ、もっと誉めろや」
「うん、偉い偉い」
昌浩が物の怪の頭をわしわしと撫でる。
そんな二人を横目に見ながら、彰子は先ほどまで手にとっていた虹色に光る貝をしげしげと見なおした。
「これが鮑なの? 食べたことはあるけど………」
その言葉がおかしかったのか、昌浩が盛大に吹きだした。
「昌浩?」
「ご、ごめん。何かおかしくって………彰子らしいけど」
「私、そんなに変なこと言ったかしら?」
彰子が顔を赤らめ、助けを求めるように物の怪を見た。
―――うーん、いつも通りのやりとりに落ち着きつつあるなあ。
半分安堵とともに落胆しながら、物の怪はそ知らぬ顔で首を傾げる。
「まあ、ちいっと変わってたのはたしかかもしれん」
彰子は少し膨れっ面になったが、それも長くは続かず、昌浩が拾ってきた貝の説明をするのを熱心に聞きはじめた。
「この小さいのは、桜の花びらみたいだわ」
「こっちは女の子がいっぱい拾い集めてたのを、扇と交換に譲ってもらったんだ」
「扇と………?」
昌浩は苦笑した。
「うん。どうしても持って帰って彰子に見せたかったし」
胸が苦しくなってきて、彰子はぎゅっと目を閉じた。眩暈がするほどの幸福感に息が詰まりそうになる。
昌浩はいつも、いつも、こうやって、本当に無造作に彰子の心を幸福で満たす。
「ありがとう、昌浩。すごく嬉しい―――」
宝珠のような形の貝を両手でそっと包みこんで持ちあげ、灯火にかざす。彰子はしばらくうっとりとそれを眺めた。
「どうしよう私、どんなに嬉しいか昌浩に伝えられないわ。昌浩は、海を持って帰ってきてくれたのね」
彰子の手のなかで、貝がそれこそ宝珠のごとく輝きを放った。それに魅入り、ふと昌浩が黙りこんだままであることに気づいて、彰子は顔を向け―――息を呑んだ。
昌浩が彰子を見ていた。真摯な、強い視線。
貝を持つ彰子の手が微かに震えた。恐れではなく、別の何かで。
「あきこ―――」
名前を呼ばれた、次の瞬間。
妻戸の向こう側に神気が出現し、間をおかずに戸が叩かれた。
驚いた彰子の手から貝が落ちる。その音で、場を支配していた何かが確実に瓦解した。
「昌浩、晴明が呼んでいるのだが―――」
そう告げながら妻戸を開けた玄武は、なぜだかずいぶんと離れたところにいる物の怪の痛烈な視線を受け、軽く眉を動かした。
さりげなく視線をそらし、昌浩のほうを見る。
「昌浩、晴明が呼んでいる。播磨での報告を詳しく聞きたいそうだ」
「えっ、あっ、うん! いま行く!」
昌浩は慌てて立ちあがると、あたふたと妻戸から出て行った。
残された彰子はしばらく戸惑った顔で昌浩が座っていたところを眺めていたが、やがてそっと息をついた。どこかほっとしたような、それでいてほのかな溜息のような、そんな吐息だった。
眉間に皺を寄せて、物の怪が部屋の隅から立ちあがる。
「俺も晴明のところに行ってくる。彰子よ、すまんがしばらくここで待っていろ」
廊に出て妻戸を閉めた物の怪は、途端に玄武に殺気すらこもった視線を向けた。
「………やってくれたな、玄武よ」
地を這うがごとき物の怪の声に、普段は無表情で動じない玄武が冷や汗混じりに視線をそらす。
「もしかしなくとも、我はとんだ邪魔をしたようだ」
「まったくもってその通りだ。この先そうそうあるとも思えない千載一遇の好機だったというのに………!」
「すまん。今度からは部屋の中をうかがってから声をかけることとしよう」
重々しく玄武は謝罪したが、物の怪は逃した魚は大きいとばかりになおもぶつぶつ呟いている。
真剣に憤っている物の怪には悪いのだが、何やら怒りどころが間違っているような気がしてしまう玄武だった。そもそも物の怪が怒るようなことなのだろうか。たしかに昌浩の迂遠さにはいささか問題があると思われるが、物の怪の気の回し方にも疑問が残る。
怖くて、そんなことは一言たりとて口には出せないが。
「………くそう、仕方ない。俺も晴明のところまで行ってくる。ここは頼んだ。時間がかかるようだったら天一を呼んで、彰子を部屋に帰しておいてくれ」
「了解した」
生真面目に玄武は承諾し、物の怪を見送った。
入れかわるようにして室内に入ってきた玄武を見て、彰子が不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「どうもしないが、番を頼まれた」
「ねえ、玄武」
彰子がためらいがちに呼びかけ、手元にあった貝をそっと両手で包みこんだ。
「昌浩………どうしたのか、知らない?」
「どう、とは?」
質問の意図がわからず玄武が問い返すと、彰子は困惑した風情で呟いた。
「何か、帰ってきてから、様子が変な気がするの………疲れているだけなのかしら?」
どう答えていいものかわからず玄武は沈黙した。
彰子はしばらく答えを待っている様子だったが、やがて何ごとかを考えはじめたのか、玄武がいることなど忘れてしまったかのように脇息に寄りかかって溜息をついた。
黒髪が肩をこぼれて頬にふりかかり、横顔は灯台の明かりを受けて物憂げな陰影がついている。
どうにも居たたまれなくなってきた玄武はしばらく我慢して端座していたが、昌浩と物の怪が帰ってくる気配がないことに焦れて立ちあがった。
「どれほどかかるのか晴明に聞いてこよう。あまり姫を待たせるようなら、今宵はもう休んだほうがいい」
「待って、玄武。晴明様がお話されているのなら、邪魔をしてはいけないわ。私はもう戻るから」
彰子は立ちあがり、微笑しながら即席の海を指さした。
「これをお願いできる?」
「どうすればよいのだ? 姫の部屋に運ぶのか?」
「ううん、ひとりで楽しむなんてつまらないもの。残念だけど、今日はもう片づけてしまいたいの」
「了解した。手伝おう」
彰子を手伝い二人で貝を小櫃に収め、狩衣をたたんでひとまず几帳にかけた。
「ありがとう」
目を細めて彰子が礼を言う。昌浩もだが、彰子もこういうところはしっかりしている。かしずかれることを当たり前として育った藤原氏の姫にもかかわらず、神将たちにもきっちりと礼を言う。
とてもよく似た二人だ。
本当に、これでいままで少しも進展しないのだから、物の怪が焦れるのも無理はない。一緒にいるのが当たり前になってしまうと、そこに留まってしまうのだろうか。
「ううむ、難題だ………」
玄武は難しい顔をしながら、天一を呼ぶために部屋を出た。