理まといて吹く風の 〈上〉

 つかさどる属性のごとく、それこそ烈火のように怒っている物の怪を前に、太陰は蒼白な顔で立ちすくんでいた。
 この頃ようやく―――物の怪の姿をとっているときだけ、という限定付きだが―――それほど臆することなく彼と相対できるようになっていたというのに、この一件で以前の状態に逆戻りするのは間違いない。
 物の怪から離れたところには、やはり凍てつくような視線を向けてくる青龍の姿があり、普段から頭のあがらない白虎はもとより、いつもは慰め役にまわってくれる天后までもが険しい顔で太陰を見つめている。
「ご、ごめんなさい………」
 泣きそうになりながら、太陰は何度目かわからない謝罪の言葉をくり返した。
 腕を組んだ白虎が厳しい顔になる。
「そう単純に謝っただけですむような問題ではないぞ」
「そうだけど………っ!」
 謝る以外に何ができるというのだ。
 太陰をとり囲む神将たちから少し離れたところで様子を見守っていた昌浩が、何か言いたげに口を開きかけ、物の怪と青龍の表情を見て、結局そのまま閉じる。
 困ったように頭に手をやり、ひとつ溜息をついた。わしわしと手で掻きまわされるその頭髪は不自然に短い。―――太陰が現在窮地(きゅうち)に陥っている原因がこれだった。
 勘が鈍ったのか手元が狂ったのか、先刻の戦闘中に太陰が放ったかまいたちは危ういところで昌浩をかすめ、いつものように彼がうなじでひとくくりにしていた髪をなかばから切り落とした。
 結果、物の怪と青龍が揃って激怒するという、昌浩でも正面切って相手にしたくない事態となってしまっている。
 二人の怒りはわからないでもないのだが、いくら何でもこれでは太陰が可哀想である。さっきから物の怪が発する気配に怯えて、謝罪の言葉もうまく出てこない様子なのだ。
 困り果てた昌浩は、すぐ近くにいた勾陳にちらりと視線をやった。
 主の意を受け、闘将たちの紅一点が軽く息を吐いて前に進みでる。
「謄蛇、そう太陰を脅しつけるな」
「何だと?」
 剣呑に瞳をきらめかせてふり返った物の怪に、勾陳は薄く笑った。
「お前は太陰に反省と謝罪を求めているのであって、闘気で威嚇(いかく)して怯えさせたいわけではあるまい?」
「ずいぶんと寛大なことだな、勾よ」
 背をふくらませ、唸るように返した物の怪に、勾陳は涼しい顔で肩をすくめてみせる。
「それとこれとは話が別だというだけのことだ。私とて怒っていないわけではないぞ。今回ばかりは少々度が過ぎているからな」
 勾陳はすっと目を細めて太陰を見た。小柄な神将がますます身を縮こまらせるようにして下を向く。
「ただ、お前が前面に出るとそれどころではなくなるから、きちんと自分のしたことを反省させたいのなら控えていろと言っているのさ」
 大局を見据えて公正を心がける勾陳の言い分はもっともなもので、不満げな様子ながらも、物の怪はその言を入れて後退した。だが視線は相変わらず険しいままだ。青龍に至っては控える様子すらなく、腕を組んで太陰から視線を外そうとしない。
 どうにも殺気立っている神将たちを見ながら、何もそんなに怒らなくてもと当の昌浩はいささか寛大すぎるほど呑気に考えていた。
 自分がこんな調子だから、ますます周囲の神将たちが怒るのだということはわかっているのだが、自分が怒るよりも先に周囲が怒りはじめると、本人は怒る気をなくしてしまうものだ。
 まして、これまでの事件の数々をかえりみるだに、祖父、孫揃って寛大さにかけては折り紙付きである。
 ―――もっとも、物の怪がこうまで怒っているのは、昌浩大事ということもあるだろうが、太陰が自分のように危うく主を傷つけるところだったからというのも大きいだろう。
 他の神将たちまでこの咎を背負ってほしくないと、決して口には出さないが、物の怪が強く思っていることを昌浩は知っている。
 そろそろ頃合いだろうと昌浩は口を開いた。
「もういいんじゃないかな。太陰も反省してるみたいだし」
 途端に物の怪と青龍がギッと険しい視線を向けてくる。まるでこちらが怒られているかのような容赦のないまなざしだ。犬猿の仲のくせに、こういうところだけは息が合うのだから困る。
 白虎も渋面で昌浩を見た。
「昌浩、だめだ。こういうところで甘やかしてはこいつの為にならん。いつまでたっても同じ失敗をしてしまうだろう。充分な自覚と反省をうながす必要があるぞ」
「でもほら、俺とくに怪我もしてないし。髪ならまた伸びるから。別にこの長さでも何とか(まげ)は結えると思うし―――」
「そういう問題ではない」
 にべもなく言い切った青龍に、物の怪が賛同の意を示した。
「そうだ。あと一寸でも左にずれていたら、髪ですむどころ話じゃなかったんだぞ!」
 昌浩はうーんと唸った。
 たしかに二人の言うことももっともなのだが、泣きだす寸前の太陰をこれ以上責めたてるのもはばかられる。
 正面切って太陰に怒りを表しているのは、青龍と物の怪、いつも叱責を加えている白虎の三人だけなのだが、天后や玄武、勾陳も庇いだてすることなく暗黙のうちに太陰を非難しているので、半数以上の同朋から責められているのと同じことだった。
 天一は回収した昌浩の髪を手にしたままおろおろと事態を見守っており、傍らの朱雀は難しい顔で腕を組んでいる。六合は沈黙したまま静観の構えだし、太裳はさっきまでは顕現していたが、いまは天空とともに常のごとく異界だ。
 まあ、たしかにあの瞬間は空気が凍った。玄武や天一、天后は顔面蒼白。朱雀と白虎は硬直し、異界にいた太裳ですら一時(いっとき)とはいえ、慌てて顕現(けんげん)してきたほどである。
 もちろん当の昌浩も仰天した。仰天したが、昌浩が叱りつけるより前に残敵を一掃した紅蓮と青龍の怒号が炸裂しては、このうえ重ねては怒れない。
 昌浩が唸って思案しているあいだにも、闘将二人が睨みつけ、白虎からは諄々(じゅんじゅん)と説教をくらい、太陰は肩をふるわせてうなだれている。
「あ、そうだ。ならさ―――」
 唐突に昌浩が口を開き、神将たちは一斉にそちらを向いた。うつむいていた太陰もわずかに顔をあげて昌浩のほうを見る。
 彼はいいことを思いついたという顔で太陰を見た。
「なら、俺が太陰に名前をあげるというのでどう?」
「はっ?」
 言われた当の太陰はおろか、他の神将たちまで呆気にとられた顔になった。
 少々胡乱(うろん)な顔で勾陳が代表して問い返す。
「昌浩、言っている意味がよくわからないのだが」
「だからさ、太陰が無茶な風の使い方をしなくなるように反省をうながす意味も込めて、俺が太陰に名前をあげようか、って………」
 言いながら昌浩は軽く首をかしげた。自分を見つめ返してくる神将たちの唖然とした様子に、それほど変なことを言っただろうかと、不思議そうな表情をしている。
 神将たちの沈黙は長かった。
 やがて。
「………………孫だな」
 思わずといった物の怪の呟きに、一同は揃って大きくうなずいた。
「このようなところで晴明の孫たるを再確認できてしまうとは………」
「孫言うなっ!」
 思わずといった玄武の独白を聞きとがめ、昌浩がくわりと噛みついた。これはもはや条件反射だ。
 その様子を見つめながら、勾陳はわずかに目を細めた。
 現在、名を与えられている神将は四人。
 時として自身すら引きずられかねない苛烈な気を宿す闘将たちの身を案じて、先代の主である晴明が彼らに与えた、願いであり、祈りでもある呪縛。与えられた神将にとってそれは形なき至宝であり、晴明なきいま、かけがえのない遺言でもある。
 祖父から受け継ぐ形で十二神将を式に下した昌浩だが、彼なりに神将たちの想いを()んでのことなのか、名について何か尋ねてくることもなかったし、新たに名をつけることもなかった。結果、彼が名を知るのは騰蛇と青龍の二名だけであり、名を呼ぶのは現在でも騰蛇ただ一人。
 そのため、昌浩は祖父が名付けた名をそのままに、新しく自分たち神将に名をつけるつもりなどないのだろうと思いこんでいた。
 その彼が、太陰に名を与えようかという。
 神将たちが呆気にとられるのも無理はなかった。
 当の太陰といえば、絶句したきり顔を赤くしたり青くしたりと、いまにも卒倒しそうだった。
 名をもらわないほうがいいということもわかっている。だがそれをうらやましく思う気持ちがないわけではない。それは以前、勾陳にうちあけたことのある本音だ。
 さらにいうならば、仕える主から名をもらうというのは、このうえなく晴れがましいことで嬉しくもあるが、それが呪であることもまた事実。力の暴走っぷりが闘将に匹敵すると暗に言われているも同じことであり、そういう意味では不名誉きわまりない。
 反省をうながすという意味では、たしかにこのうえない罰である。名を与えられた経緯を思いだすたびに、それこそ落ちこむではないか。
「まさしく(あめ)(むち)だな………」
 ひとり感心しながら勾陳は呟いた。
「ええと、何かまずいならやめるけど………」
 神将たちのうろたえぶりに、昌浩が困惑気味に眉をひそめる。
「いや、まずいと言っているわけではない。むしろ我は、的確すぎてどうしていいのかわからんぐらいには感心している」
「いやそれ、どういう意味なのかさっぱりわからないんだけど………」
 ますます眉根を寄せた昌浩に、玄武は重々しくうなずいてみせた。
「よい案ではないか? むしろ、これで太陰の暴走がおさまるなら、いくらでも名を与えるべきだと我は考えるが」
 どうやら、これまでさんざん彼女に振りまわされてきた過去を思いだしているらしい。しみじみとした口調だった。
「ちょ、玄武………!」
 声をあげた太陰をよそに、どんな罰が下るのかとおろおろしていた天一がほっとした表情で嬉しそうに賛同し、当然のごとく朱雀がそれにならう。
「ええと、天后?」
 黙りこくったままの天后に昌浩が声をかけると、彼女は小さく息を吐き、苦笑した。
「太陰がそれで反省するのならば」
「するだろうよ。それはもう」
 くつくつと喉の奥で勾陳が笑う。すっかりおもしろがっていた。
「実にお前たち(・・・・)らしいやり方だよ」
「………勾陳?」
 首をかしげる昌浩には答えず、勾陳は憮然とした顔で黙りこんでいる青龍と物の怪に問いかけた。
「さて、お前たちはどうする? 昌浩の仕置きを()とするか、否か」
「甘い」
 一言の下に青龍が切って捨てた。太陰がびくりとふるえる。
 その様子を忌々しげに一瞥(いちべつ)して、青龍は背を向けた。
「だがお前がどうしてもそうするというのならば勝手にしろ。いくら言ったところで無駄だ」
 青龍の思わぬ妥協に昌浩はちょっと目を(みは)ったが、すぐに笑ってうなずいた。
「ありがとう」
 舌打ちして青龍はそのまま隠形した。
「―――謄蛇よ。お前はどうする」
「いいんじゃないか」
 おそろしくあっさりした物の怪の答えに、太陰だけでなく他の神将も軽く目を瞠る。
 昌浩の提案で毒気を抜かれてしまったらしく、物の怪は太陰を見ながら、憮然と尾をひとふりした。
「これで反省するなら別にかまわん」
「えっ、だっ、ちょ、みんな………!?」
 自分の頭上で勝手にまとまりつつある話に太陰が真っ青な顔で反論しかけたとき、無言で腕を組んでいた白虎が口を開いた。
「これで決まりだ。昌浩から名をもらい、己のしでかしたことを記憶にとどめて反省するか、俺と(おきな)から言い(さと)されて自覚と反省を新たにするか。自分でどちらかを選べ」
「…………ッ」
 白虎と翁の説教………!
 謄蛇は怖いし、青龍は苦手だし、白虎に頭があがらないしと不得意だらけの太陰だが、そのなかでも天空の翁だけは別格だった。謄蛇と勾陳ですら翁を苦手とするだけあって、何もしていなくても無条件で気後れする。
 その畏れおおい翁と理詰めの白虎の説教―――。
 一瞬、気が遠くなりかけ、太陰は一も二もなく即答していた。
「名をもらうほうにする………ッ!」
 思考経路が手に取るようにわかったのか、白虎が深々と嘆息した。