香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――荷葉の巻〈一〉

 時は平安。
 夏はこれでもかとばかりに暑く、冬もまたここぞとばかりに冷えこむ地に都をかまえたため、涼しい邸宅にこれ以上はなく厚着をして人々が暮らしていた時代のお話。
 さて、それはいずれの御時なのやら。




 布に縮み皺がよったような雲が、薄く空に広がっている。
 この季節にしては珍しい薄曇りの空だった。しかし、薄い雲で日射しが弱められているわりには空気が熱を持っている。
 現に今も、これから帰るところらしい一人の公達きんだちが暑さに耐えかねたのか、空を見上げて顔をしかめていた。
 その背後にからかうような声がかかる。
「退出するのか、薫侍従かおるのじじゅう
「…………」
 公達は無言でふり返ると、袖の下に持っていた蝙蝠扇かわほりおうぎ(紙扇)を即座に相手に向かって投げ放った。
 扇が開いていれば優雅に宙を舞うところなのだろうが、ソレはきっちりと閉じられて御丁寧にスピンまでかけられている。あたればそれなりに痛いだろう。
 しかし、扇を投げつけられた相手も慣れたもので、回転しながらすっ飛んできた扇をほうの袖でからめ取るようにして受け止めた。
「その呼び方、音の座りが悪いぞ」
「確かにそうだな。なら薫君に訂正しよう」
 そう言った途端、今度はしゃくがすっ飛んできた。
 これは拾い上げた扇で迎え撃つ。
「オレはそんな名前じゃない」
 源氏物語の薫中将にちなまれているのだが、彼の今現在の官位では中将ではなく、侍従。上に薫を付けると、どうにも音の座りが悪い。
 かといって、薫君と呼ばれるのも願い下げだった。
 からかうつもりでそう呼んだ相手は、手にした扇を軽く広げて表情を動かした。
「扇もすごい薫りだな。オレにはさっぱりだが、素晴らしい出来の荷葉なんだってな。女房(侍女)たちが騒いでたぞ」
「オレは頭痛がする」
 扇と笏を手渡された公達は渋面でそう言った。
 荷葉は夏の定番とされる薫物たきものである。
 薫物―――合香あわせこうは作り手ごとに微妙に薫りが違うのが常。調合の秘伝の継承者や合香の名人と言われる者もいるほどに、薫物は貴族の典雅なたしなみとして定着している。
 衣にも扇にも紙にも空間にも、ありとあらゆるものにたきこめられて、何も薫らないほうが珍しい。
 薫りのなかで貴族たちは生活を送るもの。
 ゆえに薫りがきつすぎて頭痛がするという公達は、珍しい存在だった。
 眉間に縦皺を寄せた彼を見て、相手は思わせぶりに笑った。
「どうせ邸に帰ればもっとすごいんだろ?」
「アタリだ」
 言って、公達は閉じた扇でグイと相手の首を引き寄せて、ニヤリと笑った。
「ちょうどいい。桐耶とうや、お前遊びに来い。今日は宿直とのいじゃないだろ? 知ってるか? 薫物は寝かせに失敗すると強烈な匂いになるんだぞ。ちょうど半年前に埋めた荷葉を今日掘り出すと言っていたから、たっぷりと聞かせてやる」
「か、香澄かすみ………」
「ちょうどいい。客が来れば桔梗ききょうも喜ぶ」
「ちょ、ちょっと待てッ。オレが悪かったッ」
「待たん。勝手に人を坊主中将呼ばわりしやがって」
 宇治十帖の主人公、薫中将をつかまえて坊主呼ばわりとは、紫式部が聞いたら怒りそうだが、香澄と呼ばれた公達はよっぽど薫中将が嫌いなのか、言いなおす気配はない。
 引き寄せられた首をそのまま絞められて、桐耶と呼ばれた公達がもがく。
「ま、待てよ。お前、自分がそう呼ばれていることを、まさか知らないのか?」
「そう呼ばれる予定になっていることなら知ってるぞ?」
 ぎりぎりと親友の首をしめあげながら、香澄はニッコリ笑ってそう言った。
 中将になれば、ぜひ薫中将と呼ぼうではないか、と宮中で言われているのは知っている。
 これも全部、去年の春に結婚した内大臣家の二の姫―――香澄と桐耶にとって筒井筒おさななじみの仲である桔梗が、薫物作りを趣味としているのが原因。
 これでもかとばかりに、香澄のありとあらゆる持ち物に香をたきしめてくれるのだ。しかも彼女自身が開発したオリジナルなものを。
 おかげで、どこに行っても一発で身元がバレる。出仕すれば、調合法を聞き出そうと後宮の女房たちに群がられる。からかい混じりに源氏物語の薫中将、匂宮のようだと言われる。
 中性的なその容貌と相まって、宮中ではアイドル扱いされているのだが、本人としはイイ加減にしてくれという気分である。
 それでも香澄が我慢しているのは、ひとえに桔梗のためだった。
 彼女のみやこでの評判が上がるのなら。
 鬼の姫よ、とささやかれることがなくなるのなら。
 この桐耶は、桔梗をそう見ることのない数少ない人物の一人だ。香澄としても気軽に邸へ誘うことができる。
「とりあえず、ウチへ寄れ。盛大にもてなしてやる」
「待て。待て。桔梗のところには白檀びゃくだんでも持ってそのうち顔出すから。今日は勘弁してくれッ」
「そうか。わかった」
 あっさりと手が離れていく。
 それを意外に思った桐耶が顔をあげると、香澄は女房たちが騒ぎ立てるほどのその麗しい顔でニッコリと微笑んだ。
「なら、桂皮(シナモン)と鬱金(ターメリック)と丁子(クローブ)も頼んだ」
「げっ」
 どれも薫物の材料となるものだが、入手が簡単だとは言い難い。右大臣である父親に献上されるものをちょろまかしてくるしかない。
「持ってくれば、それはそれは桔梗が喜ぶ」
「………努力する」
 観念して呻いた桐耶にひらひらと手をふって、香澄は門の方へと歩いていった。
 後に残された桐耶は口をへの字に曲げてそれを見送った後、空を見上げた。
 東の空で遠雷がなっている。
「………桔梗、か」
 親友の妻であり、幼い頃は桐耶も共に遊んだかの姫が、鬼よ、狐よ、と揶揄される理由はただひとつ。
 その髪が黒ではなく、蒸した栗のような色を帯びるがゆえに。
 赤子が持つ色の薄い柔らかな髪のような、陽を透かせばちがやのように輝く髪。
 彼女は八年ほど前に流行り病で両親を亡くし、伯父の内大臣家に引き取られ、養女となった。乳母めのと同士が姉妹だという香澄は、その以前から彼女を知っていたが、桐耶はそのときからのつきあいになる。
 初めて一緒に遊んだ時、照れ隠しに変な髪だと言ったら桔梗本人ではなく、香澄に池に突き落とされたことは、今でもよく覚えている。
 内大臣家が桔梗を引き取ったとき、無責任な噂が京を飛び交った。
 ―――鬼の子が親をたたった。
 ―――引き取られた内大臣さまも物好きな。いつ祟られて死ぬとも限らぬぞ。
 ―――滅多なことを言うでない。あれでも母親は宮腹の姫ぞ。
 勝手に言ってろクソじじいども、と桐耶は毒づく。
 あんな澄んだ目をした鬼がいるものか。
 あれほどに優しげな目をする人物を、彼は他に知らない。
「香澄と似合いだよな」
 くすりと笑って、桐耶は身をひるがえした。
 遠雷は徐々にその音を大きくしている。
 親友が邸に帰り着く前に、降り出すやもしれなかった。



 かすかに聞こえた遠雷の音に、香澄はわずかに牛車の前簾まえすだれを押し上げて空を見上げた。
 遠雷が聞こえるのは季節柄かまわない。しかし、夏ももうすぐ終わりとはいえ、この季節にぼんやりとした薄曇りの空というのは、どことなく居心地が悪い。
 閉じた蝙蝠扇を眉間にあてて、香澄は長い溜息を吐いた。
(やはり気持ちよく晴れてないと)
 晴れていても曇っていても暑いのなら、どうせなら気持ちよく青空が見える方が香澄としてはいい。
 香澄の真名(漢字)は本当は『夏澄』と書く。といっても、『夏澄かすみ』のほうは幼名。香澄のほうは元服と同時に与えられた正式な名で、本当は香澄たかすみと呼ぶ。しかし、誰もそうは呼ばない。もともと本名を呼ばうのは礼を失した行為だからやらないのは当然としても、本名とは違う真名の読みもまた、結婚して出仕しはじめてからの副産物だ。
 それはともかくとして、名前の通り、夏は澄んでいる方が気持ちがいい。
 やがて牛車は四条大路にある香澄の邸へと到着した。
 ぺたぺたと冷たい床を踏んで東の対(建物の東棟)へ近づくにつれて、だんだんと薫りが強くなる。
「あ、香澄だ」
 不意に幼い声がして、女童めのわらわが行く先の御簾みす(すだれ)の中から走り出てきた。
 香澄はぴたりと立ち止まり、女童の到着を待ち受けた。
 案の定―――

  びたばったんッ

 香澄の元にたどりつく寸前、女童ははかまの裾を踏んづけて盛大にすっ転んだ。
「やっぱりコケるか」
「痛し」
 床の上に起きあがった女童は鼻の頭を押さえながら、あまり痛くなさそうにそう言った。
「香澄ひどい。わかってたなら柚葉ゆずはを助けるべし」
「やだね」
 にべもなくそう言ってから、香澄は柚葉を抱え上げた。またすっ転ばれるとうるさくてかなわない。この側仕え(のわりには態度がでかい)女童は本当によく転ぶのである。
 抱きかかえられてさっそく香澄の冠をいじりだした柚葉に悪態をつきながら、ひさしの間にさしかかったところで、先程、柚葉が飛び出してきた御簾うちから、するりと鮮やかな装束が滑り出た。
 この暑さのなかで小袖の上からきっちりとうちきを二枚ほど重ねて着ている、小柄な姫。
 一番上に重ねた檜皮ひわだ色の衣よりもさらに薄い色の髪が肩にさらりとかかる。
「お帰りなさい、香澄ちゃん」
「お前、なあ」
 柚葉を抱いたまま、がっくりと香澄は脱力した。
「どこの姫が簀子すのこ(濡れ縁)まで扇も持たずに出てくるんだよ」
「いいじゃない、いまさら気にしないの」
「うむ、気にするべからず」
 腕の中で柚葉が重々しく頷いた。
 忌々しいのでさっさと降ろすと、柚葉は御簾の中に潜りこんでいく。
「まあ、いいけど。―――何してたんだ?」
「ん、手習い………だったんだけど」
「だけど?」
 怪訝に思いながら、香澄は御簾を持ち上げて桔梗を中に誘った。その後に続いて中に入って、唖然する。
「………手習いじゃなくて、染め物か?」
「墨をねぇ、こぼしちゃって」
 香澄は真っ黒に染まった料紙りょうしを、墨の池から硯蓋すずりぶたの上に拾い上げる。墨の具合からして、どうやら墨がこぼれた直後に柚葉が香澄を見つけて走ってきたようだ。
「柚葉だな?」
「ううん、あたし」
「はあ?」
「えいってひっくり返しちゃったの」
 のんびりと桔梗が笑う。
「えいって、お前なあ………」
「それでね、とりあえず汚れると困るから袿を脱ごうかなと思ったところで、香澄ちゃんが帰ってきたの。ありがとう」
「…………どういたしまして」
 何やら文句を言う気も失せて、香澄は墨で汚れた指を懐紙で拭った。
「とりあえず着替える」
「うん、わかった。手伝う。柚葉、おいで」
 桔梗が柚葉を手招いた。
 とある事情により、香澄の着替えは迂闊に他人の手を借りるわけにはいかない。
 白いあこめを来た柚葉が二人を先導するように先に立って歩き出した。
「香澄も、女装束(俗に言う十二単)着るべし」
「裳に唐衣か?」
 香澄が顔をしかめる。反撃を予想した柚葉がきゃらきゃら笑いながら衵の裾を引きずって渡殿わたどの(渡り廊下)を走り抜けた。
「そうだねぇ、香澄ちゃんにはきっと似合うよ。美人だし」
 背後でくすくすと桔梗が笑う。
「でもダメだねぇ。もうあたしと結婚しちゃったんだから、女の子には戻れないね」
「…………」
 香澄は扇の影で、気づかれないように溜息をついた。
 着替えを人任せにできない理由はただひとつ。
 香澄の性別は、女。
 まごうことなき姫君なのである。

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

公達……きんだち。貴族のなかでも家柄のいい青年。貴公子。香澄の位では公達に入るのかが実はビミョーなところ。

……ほう。正装の上着。基本的に直衣と形が同じなので、パッと見、白黒の漫画だと区別がつけがたし。実は細かく違うのだが。

……しゃく。雛人形のお内裏様が持ってるヤツです。カンペとして使っていたらしい。

宿直……とのい。読みは違うけど同じ単語が現在にも残ってます。泊まりがけの夜勤。

檜皮色……こんな色。おそらく裏はで、桔梗は蝉の羽の重ねを着ていたと思われます。

袿・衵……うちき・あこめ。袿は極端な話、ばかでっかい羽織。ただし袖はかぱっと大きく下まで開いてます。衵はおなじ形の子供服。

料紙・懐紙(畳紙)……りょうし・かいし。料紙は書き物用の紙。懐紙はメモ帳からポケットティッシュまで幅広く。畳紙は懐紙の別名。

裳・唐衣……も・からぎぬ。正装用の衣裳。説明しがたい怪奇な形状をしています。国語便覧や古語辞典を見てくれたほうが手っ取り早いかも(待て)