香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――荷葉の巻〈二〉

 すべての元凶、事の発端は、香澄かすみの父親である今は亡き権大納言ごんだいなごんが、己の賭けの勝ちたさに生まれてきた香澄の性別を男と偽ったことだった。
 小心者のくせに負けず嫌いで見栄っ張りの父親だった。
 子どもを賭けの対象にするとは何事かと、後でさんざん北の方に叱りとばされたらしいのだが、問題はそのせいで香澄の性別が世間的には男君と認識されてしまったことである。
 おかげで香澄は小さい頃から、人の前では男の恰好、そうではない場所では女の恰好と、さんざんな目に遭わされてきたが、結局、彼女は権大納言家の次郎君(次男)であることを選んだ。
 そうでなくとも蹴鞠けまりをやっても小弓をしても香澄がいちばん上手なのでは、誰も姫だと思うわけがない。
 今でも、子ども時代から仲のいい桐耶とうやなどは、香澄の性別を男だと信じて疑っていない。
 ただひとつ、香澄―――夏澄という名前だけがなよやかだが、これはせめてもの親心というものである。
 しかし、うまくあざむいてきたとしても、こういうことはいつまでも隠し通せるものではない。
 香澄の兄や母たちは、『夏澄』を表向き死んだことにし、遠縁を引き取ったと偽って香澄を本来の姫としての迎えるつもりだった。
 もちろん、元服して出仕など問題外である。権大納言家の次男である『夏澄』は、わらわの時に病を得て死ぬ『予定』だったのだ。
 その予定がこうも綺麗に壊れたのは、右大臣家の由紀ゆき姫と関係がある。
 右大臣家は幼なじみである桐耶の実家で、由紀姫は桐耶の二つ年上の同腹の姉にあたる。
 二年前、この由紀姫が結婚するなら香澄とでなければイヤだと大騒ぎを起こした。
 十三歳で裳着もぎ(成人式)を行って以来、縁談を嫌がって断り続け、結婚をせっつかれる十六歳になってから突然言い出したワガママだった。
 そのとき、香澄はまだ元服していなかった。
 そろそろ『病死』を偽らなければならなかったのだが香澄はまだその決心がつかず、親がせっつくのをかわしながら、ずるずると童姿でいたのだ。
 そこにいきなり由紀姫のワガママである。
 実は由紀姫は、桐耶のところに遊びに来ていた香澄に一目惚れして元服を待っていたのだが、なかなか香澄が元服せず(それはそうだ)周囲からは結婚をせっつかれ、とうとう大っぴらに駄々をこねだしたのだ。
 当たり前だが、権大納言家は上を下への大騒ぎになった。
 そこに、右大臣家から香澄を元服させて由紀姫と結婚してほしいと正式に申し入れがきた。
 ―――できるわけがない。
 むすめを婿入りさせるなど逆立ちしてもできるわけがない。かといって、香澄は姫なのですと今更言い出すこともできない。  しかも相手は天下の右大臣家だ。
 まさに進退きわまった。
 賭け勝ちたさについた嘘の仏罰が今頃下ったかと、権大納言は寝こんでしまった。
 香澄も悩んだ。
 両親や兄からは、もっと早く死んだことにすればよかったなどと縁起でもない文句を言われ、先に元服していた桐耶からはウチの姉貴のことはともかく元服して一緒に出仕しようと言われ、これ以上はなく悩んだ。
 そんなところに、桔梗から「そちらに行く」との文が来たのだ。
 桔梗は幼い頃から妙に勘が鋭く、二人の乳母めのとが姉妹同士ということもあって最初から香澄の性別を知っていた。
 このぽやんとしたところのある姫君は、葬式でも出したかのような雰囲気の権大納言邸に来るなり、
「あたしと結婚しようよ」
 と、のたまったのである。
 香澄たちが絶句していると、桔梗はにっこり笑って続けた。
「あたしと筒井筒つついづつの仲ということにすればいいじゃない?」
 伊勢物語に、『キミに会わないあいだに、オレってばカッコよくなっただろ?』と歌を詠んだ幼なじみの男に、女が『アナタ以外の誰のために私がオトナの女になるっていうの、イヤン』と返歌をする話がある。
 幼なじみの恋人たちの仲睦まじさを語った話だが、それにちなんで互いの行く末を契った幼なじみの男女のことを、筒井筒の仲という。
「桔梗、お前、脳の病でもえたか?」
 思わずそう言った香澄の額に、桔梗の檜扇ひおうぎが炸裂した。
「よく考えてね」
 呆気にとられている香澄の家族の前で、桔梗はそのおっとりした表情のまま告げた。
「当然ながら、香澄ちゃんは由紀姫さまとの縁談、お断りするつもりでしょう?」
「当たり前だろ。女同士で結婚できるか」
「でも、断る理由が思いつかなくて、困ってるのよね?」
 違う? と桔梗が首を傾げる。
 全然違わない。
「香澄ちゃんが姫君だってことをバラすのも、当然ナシなんでしょう?」
 その場の全員がうなずいた。
 姫君を若君として育てていたということが知れれば、みやこ中の笑い者である。
「つまり、香澄ちゃんは若君のフリをしたままで、由紀姫さまとの縁談を断ってしまいたいわけでしょ?」
「………まあな。女に戻ってもいいけれど、ムリだろ?」
「うん。いまそんなことしたら、香澄ちゃんが実は姫君だったってバレちゃうよね」
 理路整然と話されて、香澄の両親は互いの顔を見合わせてしまった。
 この姫が鬼の姫と言われるのには、この聡明さと普通の姫君の枠を外れた独特の雰囲気も関係しているのではなかろうか。
 そう思ってしまったのである。
 その桔梗はと言えば、香澄相手に説明を続けていた。
「香澄ちゃんが若君のままで、縁談を断る方法は二つ」
「二つもあるのか?」
 香澄の兄である靖名やすなが驚いた表情で訊ね返した。彼は、摂津のかみとして任国に下っていたのを、家の一大事と呼び戻されてここにいた。
「うんとね、ひとつは出家」
「ちょっと待て桔梗ッ !?」
 香澄が悲鳴のような声を上げた。
「オレに坊主になれと !? 絶対イヤだぞッ」
「そうだ。だいたい香澄の場合だと坊主なのか尼なのか………」
 靖名の顔に、香澄がぶん投げた円座わろうだ(座布団)が直撃した。
 微笑ましい兄妹喧嘩を横目に、桔梗はにこにこと話を続けた。
「うん。さすがにあたしも香澄ちゃんがお坊さんになっちゃうのはイヤだな。それに、これだと由紀姫さまへ当てつけがましいよね」
 アナタと結婚するくらいなら出家するほうがマシです、と言ってそれを実行したことになる。右大臣家の面目を潰すことになり、権大納言家への心象が悪くなる。
「だからね、もうひとつの方。他に意中の姫君がいることにするしかないでしょ? こっちのほうも、ちょっと向こうはイイ顔しないと思うけど、出家よりはずっとマシだと思うし」
 桔梗が、扇を開いてにっこりと笑った。香澄と同じく成人前なので、表が白、裏が紅の雪の下のあこめに、枯らしたおぎのような髪の毛が降りかかって、散っている。
「春になったら、あたしの裳着をするの。雅人まさと兄さんがそう言ってた。だから、ついでに一緒の日に香澄ちゃんも初冠ういこうぶりの儀(元服)をやって、あたしと結婚しちゃえばいいのよ。向こうは曲がりなりにも右大臣のお家柄だもの。由紀姫さまを正室じゃない身分にはおいておきたくないはずだよ。由紀姫さまには可哀想だけれど、右大臣さまたちはそれで結婚を諦めてくれると思うな」
 邪気のない顔つきでそう言うと、桔梗は思い出したように饗された干し杏を頬張った。
 とりあえず、言いたいことは言ったので香澄たちの反応を待つという風情である。
 これ以上の案はないように思われた。
 しかし、一番重要なところが抜けているような気がする。
 香澄が恐る恐ると言った様子で尋ねる。
「桔梗、それでお前はどうするんだ?」
「どうって、香澄ちゃんと結婚するの」
 結婚というものが何なのか、実は全然わかってないのではないかと疑いたくなるような無邪気さで桔梗がそうくり返す。
「………お前、オレが女だとわかってて結婚するのか?」
「うん」
「なぜ?」
 香澄の問いに、桔梗は不思議そうに小首を傾げた。
 常人つねびととは違う色の髪が、白い衵の上を滑っていく。
「どうしたの? もしかして、あたしのこと気にしてるの?」
 そうして、桔梗は言った。
 なんのてらいもためらいもない、ごくごく普通の声で。
「安心していいよ。誰もあたしなんかと結婚したりしないから―――」



 ―――春。
 香澄は桔梗の言う通りに右大臣家との縁談を断り、元服して彼女と結婚した。

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

権大納言……ごんだいなごん。ポスト大納言(爆)。仮とか補佐という意味で『権』がつく。ほとんど〈A〉と〈A´〉みたいな(待て)。ちなみに大納言は太政・内・左右の大臣の次にエライです。

蹴鞠・小弓……けまり・こゆみ。蹴鞠は、女の子が昼休みにやるバレーボールの足版。蹴り上げて相手にパスしながら蹴り続ける。小弓は、的を小さい弓で射て遊ぶ……ってまんまか(笑)

檜扇……ひおうぎ。紙を張った蝙蝠扇に対して、薄板をつらねた木の扇。もちろんこっちのほうが痛い(何が?)

正室……せいしつ。正妻。