香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――荷葉の巻〈三〉
それから一回目の春が過ぎて、夏が来た。
春過ぎて夏来にけらし白栲の
衣ほすてふ天の香具山
柚葉の表が白い衵を見て、ぼんやりと考え事をしていた香澄がなんとなくそう口ずさむと、その柚葉がとことこ近づいてきて扇でぺしりと額を叩いた。
「香澄、その歌、季節にあってないぞよ。ダメダメ」
「………いいからほっとけよ」
「もうすぐ夏終わり。もしや香澄には今頃夏が来たトカ?」
「ああもうウルサイな。いいからお前は東の対のこぼれた墨を片づけてこいよ」
ぷうっとふくれた柚葉がそれでも言いつけに従って、東の対のほうに歩いていく。途中でコケたのか、ズッテンきゃんッと音がした。ズッテンがコケた音で、きゃんッはおそらく悲鳴だろう。
狩衣に着替えた香澄は、それを聞きながら憮然として呟いた。
「………暑い」
束帯姿(正装)に比べればだいぶ涼しいが、それでも暑いものは暑い。遣水のある壺庭に面した廂の間まで出てきて、御簾を巻き上げているがやはり暑い。
「桔梗、お前その恰好暑くないか?」
小袖と袿をきっちり着こんで几帳の影にいる桔梗にそう問うと、否との答えが返ってきた。
「香澄ちゃんは、仕方ないよね。あんまり薄着になると胸あるのバレるもんね」
「………そーいうことをさらりと言うなよ」
香澄が呆れ顔で呟いたときだった。
東の対の方で微かな音とざわざわとした人の気配がした。
「………?」
香澄は眉をひそめた。
この邸はもともとは父親の権大納言のものだったのだが、その父親が去年の夏に老齢のせいか度重なる心労のせいなのかぽっくり逝き、それを機に母親は兄の靖名が国司をしている摂津の方へ下ってしまったため、今では香澄一人のものになっている。
邸で使われていた大半の者も摂津行きについていってしまったため、この邸に人はあまり多くない。
桔梗も音を聞きつけたのか、首を傾げた。
「あれ? もう来たのかな?」
「なんだ? 誰か来る予定―――」
言いかけて、香澄は口をつぐんだ。
桔梗の交友関係は狭い。狭すぎて涙が出てくるほど知り合いが少ない。
その数少ない知り合いも香澄の友人―――つまり異性が多く、ここまで桔梗個人を尋ねてくることは滅多にない。
となると、誰が来る予定なのかは簡単に予想がついた。
「おいっ、雅人のヤツが来るのかッ !?」
声を尖らせた香澄に、いともあっさり桔梗は首を縦にふる。
「うん。今日掘り出した荷葉、雅人兄さんたちにあげるつもりだったから。さっき文を出したの」
雅人は桔梗の従兄。彼女を引き取った内大臣家の総領の君(長男)だ。
香澄が慌てて立ち上がる。
「バカっ、あいつが来るなら来ると言えよっ。冗談じゃない、オレは西の対に行ってるからな!」
狩衣の袖をひるがえして西の対に向かおうとしたその時、小気味いい音がして、香澄の後頭部に蝙蝠扇がヒットした。
「――――ッ !?」
「うむ。よいお手前で」
「どういたしまして、柚葉」
ふり返ったその視線の先で、先導してきた柚葉の頭を撫でている夏直衣姿の青年がいる。
切れ長の目をスッと細めて柚葉を撫でているその面立ちは、これぞ公達と言いたくなるほど整った典雅なもの。
「何しやがる雅人ッ!」
憤然と怒鳴る香澄の足許から、柚葉が転がった扇を回収してきて雅人に手渡す。
それを受け取った雅人は、香澄を見るとフフンと鼻で笑った。
「自分が他人にやったことを、自分にやられて怒るなんて大人げないな」
「見てたのか !?」
「笏も投げただろう」
香澄が言葉につまったところで、雅人は閉じた扇で軽く自身の首を叩いた。
「それに、俺の従妹をバカ呼ばわりとは許せないな」
「雅人兄さん、来るの早かったのね」
香澄と雅人のやり取りなど見ても聞いてもいなかったかのように、桔梗がのんびりと笑う。
そこに柚葉が雅人の分の円座を持ってきて座をしつらえた。
柚葉の頭を再び撫でてやってから、雅人は悠然とそこに腰を降ろして扇を広げた。
「華奈がうるさくてな。早くもらってこい早くもらってこいと、文のことを言った途端これしか言わない」
香澄よりひとつ年上の雅人の妹である華奈姫も、香澄は苦手だった。
藤壺の中宮のもとに行儀見習いとして出仕していて滅多に会うことがないので雅人ほど苦手ではないのだが、この内大臣家の兄妹は溺愛する従妹が同性である香澄と結婚したのをいまだに根に持っているのである。
「柚葉、香筥を取って―――こさせたら、コケるかな。いいや、あたしが行ってくるね」
衣擦れの音と共に桔梗が立ち上がって、廂の間を出ていった。柚葉がその後をついていく。
香澄と雅人の二人が場に取り残された。
むっつりした香澄と涼しげな顔でいる雅人のところに、柚葉にその役目を譲る前に雅人を先導していた女房がやってきて、人数分の白湯と高坏に盛った唐菓子を置いてそそくさと立ち去っていく。
「…………」
憮然としながら香澄が白湯をすすると、雅人が口の端を持ち上げた。
「ところで、浮気なんかしてないだろうな?」
「 !? 」
盛大にむせかえったあとで、香澄は怒鳴った。
「どうやったら浮気ができるんだ、言ってみろっ !?」
二年前の求婚騒ぎのときに、雅人には全部バラしているので、いまの問いは嫌がらせ以外の何物でもない。
雅人は涼しい顔で椀を手に取った。
「お前はしなくてもいいが、桔梗にはぜひともしてもらいたいな。そろそろ石女の評判が立ちはじめる」
いとも簡単にきわどいセリフを口にして、雅人は白湯を口に運ぶ。
香澄はさっきむせたせいもあり、脇息に突っ伏したまま声もない。
「………そーいうことは、桔梗に言え桔梗に。オレに言ってどうする」
「言えるわけないだろう。香澄、お前言えるか?」
「…………」
香澄は脇息に顎をのせた。
「そりゃ、オレと結婚しなきゃンな評判立たずにすんだろうよ………」
「自覚があるなら別にいい」
しばし無言の時が続いた。
「あ、まがりがある」
嬉しそうな声と共に、桔梗が蒔絵の筥を手に戻ってきた。後に続く柚葉が高坏に盛られたまがりを見て、目を輝かせている。
「はい。荷葉」
「ありがとう。桔梗の薫物は宮中で評判だからな。華奈が喜ぶ」
さっきまでの会話が嘘のように、雅人は微笑して香筥を受け取った。
「評判ってほんと?」
手に取ったまがりを柚葉にも分けてやりながら、桔梗が首を傾げた。
「なんだ、香澄は言ってないのか?」
「言ってくれるけど、桐ちゃんがほめてたとか、そんなのばっかりだから」
―――桐ちゃんとは、もちろん桐耶のことである。
雅人は優雅に笑って答えた。もちろんその前に香澄に意味ありげに視線を投げるのは忘れない。
「評判だよ。後宮の女房たちは香澄から調合の方法を聞き出そうと必死だね。―――それだけじゃないだろうけどな」
「雅人、お前な………」
「香澄ちゃん、モテるのね」
にこにこと笑いながら桔梗が両手を打ち合わせて言った。
「浮気してきてもいいのよ?」
げふっ。
今度はまがりを喉に詰まらせてしまった。
見れば、さすがに雅人もこれには意表をつかれたのか、椀を手にしたまま固まっている。
「………桔梗」
雅人が椀を戻すと、おごそかに尋ねた。
「それは、男と女のどっちと浮気するんだ?」
「雅人――――――――――ッ !!」
絶叫した香澄が直衣の胸ぐらをひっつかんだ。
「冗談だ」
「真顔で言うなてめェ!」
「あたしも冗談だってば」
「桔梗もだッ。お前が言うと冗談に聞こえん!」
怒鳴りつけた香澄の頭を雅人の扇がはたいた。
「桔梗を怒鳴るんじゃない」
「お前な………」
香澄の手を直衣から外し、素知らぬ顔で白湯を飲み干すと、雅人は扇を鳴らした。
その帰る合図に、あたりで柚葉を初めとした女房たちが支度に動き出す衣擦れの音がし始める。
「じゃあ、そろそろ俺は行くよ。今日はこれから参内なんだ。華奈にこれを渡さないといけないしな」
そう言って、思い出したような表情で桔梗をふり向いた。
「そうだ、忘れていた。土産を柚葉に渡してあるんだ。さっき転がしていたみたいだが」
「あっ、薫炉!」
床に転がっている球体を見て、桔梗が嬉しそうな声をあげる。
幾ら転がしても中は水平を保つようになっている丸い香炉で、全体に綺麗な透かし彫りがほどこしてある。
香澄の邸にもあったのだが、子どもの頃に桔梗と一緒に庭で蹴転がして壊してしまった。
「ありがとう、雅人兄さん」
「礼には及ばない」
雅人は香筥を手に立ち上がった。香澄の邸で薫っている荷葉とは別の、薫衣香が夏直衣の袖と共にふわりと広がる。
「桔梗―――」
女房に先導されて出ていこうとして、雅人はふり向いた。
桔梗が小首を傾げて従兄を見上げる。
「香澄はダメだが、お前は浮気してもいいんだよ?」
フッと笑って、絶句している香澄を見やり、今度こそ雅人は帰っていった。
薫炉を手にしたままキョトンとしていた桔梗は、しばらく経ってからようやく香澄の方をふり返った。
「香澄ちゃん?」
「オレに話をふるなっ」
香澄が叫ぶ。
それを聞いた桔梗は二、三度まばたいてから、クスクスと笑いだした。
〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)
※春過ぎて〜……持統天皇作。新古今和歌集。百人一首にもある有名な歌。ビミョーに違う「夏きたるらし」&「衣ほしたり」バージョンが万葉集にある。ちなみに桐生は「夏きたるらし」&「衣ほすてふ」とごちゃ混ぜで覚えてました(爆)
※狩衣……かりぎぬ。なんといいますか、貴族の普段着。もう少し格が高くてキチンとした恰好が雅人の着ている直衣。
※遣水……やりみず。敷地に作ったミニ川。とにかく涼しさを求めたところに香澄たちは座ってたということです。
※几帳……きちょう。壁紙参照。可動式の衝立。
※国司……こくし。地方領主。公務員なので現代のごとく任期があって転任した。
※まがり……モチ米をこねたものを油で揚げたお菓子。輪の形によじれているので、まがり……と言ったのかどうかはナゾ。
※中宮……ちゅうぐう。天皇の奥さんのなかでいちばん偉い。正妻。平安後期に皇后と並立しますが、この話では違います。
※石女……ノーコメント。辞書をどうぞ(オイ)