香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――荷葉の巻〈四〉

 それから時が過ぎて、日も傾きかけた頃。
 内裏だいりの藤壺では、華奈かなが自分のつぼね(部屋)で兄の雅人と会っていた。
 涼やかな目元が兄の雅人まさとによく似ていて、丈なす黒髪と相まって少し近寄りがたい雰囲気をかもし出している。
 その雰囲気の通り、一本筋の通ったびしりとした性格で、藤壺の中宮からは信頼を寄せられており、公達の間では美人だが情のこわい姫君として一目置かれている。
 どちらかというと異性より同性に好かれることの多い、凛とした姫だ。
 まがりなりにも内大臣家の総領姫(長女)なので、父親はそろそろ宮仕えをやめて家に戻り、婿取りをしてほしいと思っているようだが、本人としては今の暮らしが楽しいらしく戻る気配はない。
「兄さん、桔梗は元気だった?」
 うきうきした様子で兄から香筥こうばこを受け取ると、華奈はさっそく蓋を開けた。香壺から黒い丸薬のような荷葉をひとつ取り出すと、さっそく部屋の隅にある火取香炉においてくゆらせ始める。
 香炉の上の伏籠ふせごにはこの間新調したばかりの夏萩なつはぎ(表が青、裏が濃紫)の唐衣がかけられていた。
 落ち着きのない妹の様子に呆れながら、雅人はうっすらと微笑んだ。
「ああ、元気だったな。華奈、少しは落ち着け。みっともない」
「だって、この荷葉ほんとにいい匂いで、もらえるの楽しみにしてたんだもの。香澄はなかなか藤壺まで来ないし、梨壺では香澄が歌を走り書きした懐紙を女房たちが取り合いまでしてるのよ! 私も見せてもらったけど、歌も手蹟(筆跡)もどうでもいいけど荷葉がほんとにいい匂いで―――」
 ひどい言われようである。
 己の懐紙が女房たちの間でそんな扱いを受けていると香澄が知れば、ますます後宮に足を運ぶことはなくなるだろうと雅人は思ったが、口には出さない。
 黙っている雅人を不審に思ったのか、華奈が二人を隔てている几帳きちょうかたびらを、閉じた扇でそっと持ち上げた。
「兄さん?」
「お前も桔梗も、どうしてそう簡単に人前に姿を見せるんだろうな」
 嘆息混じりの雅人の言葉に、華奈は開き直ったのか几帳を脇へずらして姿を見せた。
「あら。じゃあ、桔梗は相変わらずなのね。まあそこが可愛いんだけど」
 桔梗の鬼の姫の噂を消すのに、最も奔走しているのは華奈だった。
 気性の烈しい華奈からしてみれば、おっとりした桔梗は庇護欲をかきたてられて仕方のない従妹いとこで、世間の風評にかまうことなく幼い頃から溺愛してきた。
 髪の色がなんだというのだ。
 髪が多少赤っぽい姫ならたくさんいる。桔梗の髪は、それよりももっと色が明るく抜けているだけだ。
 時々、自分が男だったら桔梗を守ってあげられるのにと悔しくなる。香澄に対して意地悪になるのも、自分にできなかったことをしている彼女に対する嫉妬が多少は混じっているからだ。
 桔梗を思い浮かべてうっとりと目を細めている華奈に、雅人は冷淡だった。
「同じことをしても、お前は可愛くないぞ」
「ご安心を。兄さんに可愛いと言われたくてこんなことをしているんじゃありません。いまさら几帳を隔てて会話する間柄でもないでしょ。
 ―――だいたい、こんなことに可愛げを感じるなんて、私と兄さんと香澄ぐらいのもんだわ」
 香澄本人の意見は無視してそう断言すると、華奈は脇息にもたれかかった。
「それで、兄さん。桔梗に御やや(赤ちゃん)ができる可能性はないの?」
「………華奈」
 雅人が扇で顔を覆った。
「率直なのは嫌われるぞ」
「ふふん。そんな殿方こちらから願い下げよ。で、どうなの? 私の可愛い桔梗に石女うまずめの評判をたてられるなんて冗談じゃないわよ!」
 このうえもなく身勝手な理論を堂々と口にすると、華奈は脇息に肘をついて雅人のほうに身を乗り出した。
 兄のほうはといえば、溜息混じりにそれに答える。
「華奈。お前、桔梗が浮気をするような姫だと思うのか?」
「思わないわよ。言ってみただけじゃないの」
 ムッとした顔で華奈が言い返した。
「でもくやしいじゃない。鬼の姫だなんて言われて、このうえ石女の評判もたつことが確実だなんて。やはり鬼にヒトの子は産めないなんて言われるなんて桔梗が可哀想よ」
「誰がそんなことを言っている?」
 雅人は眉をひそめた。
 香澄と桔梗が結婚してまだ一年と半年ほどしか過ぎていない。噂が立つのに一年半はまだまだ短すぎる。最低でも三年は過ぎていなければ。
 華奈は仏頂面だった。
「右大臣家の由紀姫よ。桔梗に香澄を取られたのがまだ悔しいみたいだわ」
「―――やれやれ。結婚してまだ二年も経っていないぞ。よくもまあ石女扱いしてくれたものだな」
 華奈は閉じた扇でイライラと自分の膝を叩いている。
「桔梗が香澄と結婚するなんて言い出した時点で、石女の噂が追加されることはわかってたことだし、桔梗も自分はそれでもいい、なんて言ったけどね。………あの子、自分がそう言ったら周りが全然それじゃよくないことがわかってないんだもの。知らずに自分の身を食い潰しているようなところがあるわ」
「とりあえず、由紀姫のことはほっておけ」
 桔梗のところにいまにも押しかけそうな妹に、雅人はクギをさした。
「いまそんな噂を流して、香澄をとられた腹いせにそういうことをするなんて浅ましい姫だと烙印を押されるのは由紀姫のほうだ。来年、再来年あたりまで石女の噂のことは忘れていろ、華奈」
「でも………」
 反論を封じるかのように、雅人は妹を見据えた。
「とりあえず、桔梗は満足そうに笑っているんだ。何か問題が起きるまでお前は黙っていろ。いいな?」
「………わかったわ。でも何か問題が起きたら黙っていないわよ?」
 不承不承そう言って、華奈はふと顔をしかめた。
 バチッ、と扇が開かれて、また閉じた。
「………兄上さま、いまをときめく左近さこんの少将であられる兄上さまが、藤壺に参られるなり妹の局にこもりきりとはあまりにもつれなきこと。わたくしも中宮さまに申し訳なく思います。そろそろしびれをきらした他の女房たちが様子をうかがいに来る頃ですわ。早く中宮さまにご挨拶なさりませ」
 口調だけは立派だが、実際としては脇息に頬杖をついて扇を持った手で部屋の外を示している。
 なるほど、部屋の外ではさわさわと衣擦れの音がして、こちらの様子をうかがう気配もする。
 雅人は苦笑して持っていた扇を閉じた。
 こっらも口調が微妙に変化する。
「これは失礼をしたね。ならば言われたとおりにそろそろ中宮さまの元にご機嫌伺いに行くとしよう。何か、家への言づてがあるなら持ち帰るよ」
「ならば」
 華奈の目がきらりと光る。
「桔梗に御礼の文をしたためたく思います。どうかそのうち香澄の君と共に藤壺までお越しくださいな」
 聞き耳を立てている女房たちの黄色い悲鳴が聞こえてきそうだった。
 華奈の兄である左近の少将の雅人と、内大臣家の二の姫桔梗の婿である侍従の香澄は、現在宮中の人気を二分して独占状態だ。
 二人のうち雅人の方は、華奈が後宮に出仕していることもあって藤壺によく来るが、香澄の方はロクに後宮に足を運ばない。たまに、親友である左衛門佐さえもんのすけ桐耶とうやにつきあって彼の姉である桐壺の女御のところに行くか東宮の住んでいる梨壺に行くくらいで、かなり稀少度が高い。
 二人が揃って藤壺に来れば、大騒ぎは間違いない。
 それを察した雅人が眉をぴくりと動かして妹を見た。
 華奈は小さく舌を出している。
「………華奈に言われては仕方がないね。では、そのうち侍従の君を誘ってこちらに遊びに来るとしよう。彼は我が家の婿君だからね」
 さっと雅人が立ち上がった。その衣擦れの音を聞いて、さわさわと外の立ち聞きの気配が遠ざかっていく。
 雅人の声音が一変した。
「とんだ猫かぶりだな」
「兄さんの妹だもの」
 しれっと答えると、華奈は伏籠の上の唐衣をとりあげて手早く身につけた。薫りはまだ充分ではないが、女房たちに香澄の薫りと同じだと気づかせるぐらいの時間は保つだろう。
 この薫りに女房たちは騒ぐだろう。香澄のことも雅人のことも話題になる。
 夜は噂話に花を咲かせて、あれやこれやと歌や公達きんだちの品定めをし、多少はその噂を操作する―――。
 楽しみでしかたがない。
 もちろんその噂のなかに、桔梗に関するものがあれば注意深く操作するのは言うまでもない。
 宮仕えの醍醐味や強みは、こういうところにあるのだと華奈は固く信じていた。
「さて、兄さん。じゃあ中宮さまのところに案内するわ。ついてきてね」
 部屋の外の女房たち相手に、兄妹で楽しく芝居を演じていた内大臣家の姫は、冷ややかな笑みを浮かべるとスッと立ち上がった。



 昼頃から遠雷が鳴り響いていたわりに、雨が降り出すのは遅かった。
 さあっと音を立てて雨が降り始めると、途端に暑気が払拭され、涼気があたりに広がった。
 湿気を吸って、建物のひのきが木の匂いをさせはじめる。
 庭の草の青い匂いも風と共に部屋の中に吹きこんできた。
 その風に、真っ直ぐに立ちのぼっていた香の煙が揺らいで、美しい渦を巻く。
 木と草と香の薫りが水気を含んだ空気と混じり合い、静かにあたりに広がっていく。
 桔梗の膝の上では、柚葉が穏やかな寝息をたてていた。
 既婚の印である緋袴ひばかまに、柚葉の黒髪と重ねた衵の白と青。さらに蝉の羽の重ねである檜皮色の衣が広がって、薄い色の桔梗の髪がその上を河のごとく流れている。
 柚葉の頭を撫でてやりながら、桔梗は庭先に目をやった。
「………雨のいい匂い」
「んむ………」
「あら………起こしちゃった? ごめんね」
 桔梗の膝の上でごろりと寝返りを打って、柚葉はまた寝息をたてだした。
 柚葉の閉じたまつげに、淡い影が落ちる。
 日は暮れてきて、そろそろ灯りが必要だ。
 うっとりするほど瑞々しい空気に包まれて、桔梗はふわりと微笑んだ。
「浮気なんて、しても面白くないよ。あたしは香澄ちゃんさえいればいいんだもの―――」
 石女でも鬼の姫でも、何とでも呼ばれようとかまわない。
 変わらないものを、ずっと抱き続けてきた。
 香澄や、雅人や、華奈たち。
「あたしの大事な人たちさえ幸せなら、あたしはそれで幸せなんだもの………」
 ずっとそう想ってきたんだもの。
 薫き物が尽き、香炉の煙がゆるやかな曲線を描いて、ふうっと消えた。

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

内裏……だいり。天皇の暮らすところ。今で言う皇居。内裏は官庁街の大内裏のなかにありました。

藤壺……ふじつぼ。天皇の奥さんが住む建物のひとつ。藤が壺庭に植えられていたので藤壺と呼ばれる。

伏籠……ふせご。文字通り、伏せた籠。服を香の煙で燻製にするためのカゴ。実際、ヘタすると本当にコゲる(経験談)

左近の少将……さこんのしょうしょう。左近衛府の上から3番目の役職。近衛府というのは出世するためのイイトコ役所だった。もちろん「左」もあるからには「右」もある。

梨壺・桐壺……なしつぼ・きりつぼ。藤壺に同じ。ここには梨と桐が植わっていた。梨壺は東宮関係の建物で、東宮が住んだり、東宮の奥さんが住んだり、東宮一家で住んだり……。

左衛門佐……さえもんのすけ。左衛門府の上から2番目の役職。パッと見、雅人の役職と似ていて、2番目と3番目なのでこっちのほうがエラそうだが、雅人のいる近衛府のほうがお役所としてはエライので、実際は雅人のほうが位が上。なんて素敵にジャパネスクの高彬が最初この役職で、そのあと右近の少将に出世してマス。