香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――落葉の巻〈一〉
そうして夏は終わり、紅葉が色づく秋の頃。
薫き物も荷葉から、落葉、菊花、侍従などに切り替わり、気温や湿度の関係上、春と秋が薫き物作りにちょうどいいとかで、桔梗は嬉しそうに柚葉に手伝わせては香を合わせている。
合わせた香は密封して、遣水のところに埋めておく。
そうして何日か寝かせ、薫き物を使うときに取り出すのだ。急ぐときは十日ほどだが、長いものだと二年ぐらいは埋めっぱなしということもある。
「桔梗、これ何の香だ?」
ある日、出仕しようとして袍を着せかけてもらった香澄は、その袍に薫きしめられた聞いたことのない薫りに怪訝な顔をして桔梗を見た。
「気づいた?」
桔梗が嬉しそうな顔をする。
「六種(梅花、荷葉、侍従、菊花、落葉、黒方の六つの香のこと)でも百歩香でもないよな? なんつーか、水っぽい―――ッ !?」
下手な修飾語を口に出した途端、香澄の後頭部に参内に持っていく予定の笏が炸裂した。頭にじかにではなく冠にブチ当たったため痛くはないが、せっかく綺麗に整えた垂纓冠がものの見事にズレる。
「水っぽいなんて、香澄、失礼」
笏を投げた柚葉が、残りの石帯と飾り太刀を抱えたまま平然とそう言った。
「て………っめェ………」
ズレた冠を押さえて香澄が唸った。
「オレはほめたんだよッ」
「水っぽいはほめ言葉違う!」
「でもオレはほめたんだッ」
柚葉の手が石帯を握りしめる。石帯は言葉通り、飾りに石を張っつけた帯だから、振り回されると帯のしなりも加わって、かなりの危険物と化すのは間違いない。
あわやというところで桔梗が間に割って入った。
さすがに柚葉も大好きな桔梗を石帯でしばきたくないので、不承不承手を引っこめる。
「柚葉、香澄ちゃん褒めてくれてるみたいだし、いいじゃない」
そう言って、桔梗は自分より背の高い香澄にしゃがむように合図すると、ズレた冠を直してやる。
「香澄ちゃんアタリだよ。今年の秋の新作。いい匂いでしょ?」
「ああ。百歩香とか、キツイのは苦手だけどこれはいいな」
「そう思って作ったの」
桔梗は本当に嬉しそうに、にこにこしている。
外は雨が降っている。物音が水気に吸い取られ、枯れかかった庭の草が艶々と濡れていた。
石帯の石の部分を、べちばち笏拍子のように柚葉が叩いているのを取りあげ、香澄の袍を締めようとした桔梗が不意に困ったような表情をした。
「ねえ、香澄ちゃん。ホントに参内するの?」
「当たり前だろ」
「でもかなり顔色悪いよ? こんな天気だし、今日ぐらい物忌とかで休んじゃったら?」
香澄は青い顔で嘆息した。
「東宮(皇太子)さまから直々に宴で笛を吹けなんて言われなけりゃ、オレだってお前と碁でも打ってたいよ。だれがわざわざ参内なんかするもんか。笛だけ合わせて帰ってくるから」
「血の気が足りなくて起きあがれなかったくせに」
「…………なんでオレじゃなくてお前が機嫌悪くしてるんだよ。うう………」
しゃがみこんだ香澄の頭を、とことこ近づいてきた柚葉がなぐさめるようにぺしぺし叩く。
「香澄、血の道?」
「………言うなよ、頼むから」
「物忌決定ね」
桔梗があっさりそう言うと、香澄が反論するひまもなく、胸元の受緒を外して袍をさっさととっぱらう。
「―――おい !?」
「そんなに心配なら、夜にでも雪ちゃんここに呼んで練習すればいいでしょ。だいたい、普通の姫でも月の障りは穢れなの。華奈ちゃんだって内裏から下がってくるんだから。香澄ちゃんいっつも重くて寝こんでる人なのに、二日目なんかに参内したらきっと禁中で倒れるってば」
みもふたもないことを言って、桔梗は手に持っていた袍を衣架にかけると、床に畳を敷いて褥(綿入り座布団)を置き、ちょいちょいと香澄を手招いた。
「…………わかったよ」
観念した香澄は、衾(掛け布団)にしていた大袿を拾いあげて単と下袴の上から羽織った。柚葉が参内のために準備していたものを拾い集めて片づける。
無言で手招きされるまま、褥に腰を降ろした香澄は大きな溜息をつくと、桔梗を見た。
「で?」
「囲碁と双六」
「………双六。寝起きに頭使いたくない」
「柚葉。西の対の羽常さんにいつもの薬湯を頼んできてくれる?」
「ン」
西の対には香澄と桔梗二人の乳母が住んでいて、女房たちの束ねをしている。羽常というのは香澄の乳母の名前だ。
羽常も心得たもので頼まれるとすぐに事情を察して薬湯を持ってきた。
モノを運ばせる仕事に関して、柚葉は(しょっちゅうコケるため)信用がならないので、羽常自らが運んできて香澄に手渡す。
「羽常さん、瑞葉はどうしてる?」
賽(サイコロ)を振る手を止めて桔梗が彼女の乳母のことを問うと、羽常は呆れたように答えた。姉の瑞葉に対してだろう。
「姉は朝から晩まで写経をしております。今度の命日に太秦の大尼君の元へお届けなさるとかで、間に合わないと………」
「ああ。そっか、お祖母さまに………」
太秦の大尼君とは、桔梗の母方の祖母である先帝の妹宮のことである。
桔梗の両親が流行り病で急死したときに、ショックのあまり出家してしまい、太秦の尼寺に引きこもったまま出てこない。
瑞葉が桔梗可愛さに京に踏み止まったのとは違って、自分の娘が死んだのは、鬼とまではいかなくとも常人とは違う姫を生んでしまった報いなのだと思いこんでいるため、桔梗にとっては慕いたくとも迂闊に近づけない肉親だった。
「瑞葉が太秦に行くときには、お祖母さまへの薫き物を持っていってもらうから、後で取りにこさせてくれる?」
「はい。伝えておきましょう」
「うん。お願いね」
桔梗の手にした筒から、賽がこぼれ出た。
目は重六(六と六)だった。
最強の目の出に香澄が唸ると、すかさずその膝を羽常が扇でべしりと叩く。
「なんです。双六ごときではしたない。誰が心の中まで殿方になれと言いましたか。香澄さまは姫君であられるんですよッ」
「いまさら姫に戻れるわけがないだろ。いくら生理痛がひどくても」
仏頂面で香澄が薬湯をすすった。
「そういえば香澄ちゃん、どうして東宮さまから笛を命じられたりしたの?」
「ああ」
椀を両手で包みこんだ香澄が、顔をしかめる。
「桐耶のところの一番上の姉君が、東宮妃として入内してるのは知ってるだろ?」
「たしか桐壺の女御さまでしょ?」
「ああ。その縁で、桐耶は東宮のおられる梨壺の方によく行くんだよ。この間もそれに付き合って梨壺に行って、あれこれ話しているうちに今度の宴で楽を奏でる人の話になったんだ」
桔梗が袖で口元を隠してクスクス笑った。
「桐ちゃんは楽器関係下手だもんねぇ」
「………日頃からかっといてナンだけど、なんだか桐耶が可哀想になってきたな」
しみじみ香澄がそう呟く。
「で、それでだよ。なんか知らないうちにそうなってた。主上には私から申し上げておく、なんて東宮がおっしゃられるし。それで柾雪と後は左馬頭とか式部丞とかと合奏することになって………オレだってそんなに上手いわけじゃないないのに………」
思い出したら痛みがひどくなったのか、香澄が顔をしかめて残りの薬湯を飲み干した。空になった椀を羽常が下げて、自身も西の対に下がっていく。
「東宮さまって、たしか雅人兄さんと同じお歳だったっけ?」
「そうだよ」
「どんな方?」
「どんなって言われてもなぁ………」
香澄は困ったように首を傾げながら賽を振った。
さっきからどうしたわけかロクに駒が動かせない。
駒を睨みながら、香澄は口を開いた。
「面白い方かな。雅人みたいにイヤミじゃないし。やたら騒がれるオレなんかより絶対東宮の方がイイお顔してると思う。どうして女御さまが東宮によそよそしいのか、オレにはさっぱりわからないな―――」
「そうなの?」
桔梗がびっくりした顔で双六盤から顔をあげた。
しまったという顔で香澄は扇を口元にあてる。
やがて溜息混じりに答えた。
「………そうだよ。桐耶からは口止めされてるけどな。紫乃姫と東宮の夫婦仲はあまりよろしくないよ」
「ふぅん。桐ちゃんのおうちも色々大変なのね」
「女御さまはともかく、弟の桐耶のことは気に入っているみたいだけどな」
「桐ちゃんはイイ漢だもの」
青い顔で香澄が溜息をついた。
「オレも本当に男だったらよかったのに。ああもう………」
「香澄ちゃんもイイ漢よ?」
「外見はな」
烏帽子を脱いで髷も崩している香澄の頭を、双六盤越しに桔梗は撫でてやる。
真っ直ぐな黒髪が肩や頬にかかっているのを見ると、きっと姫の恰好をしても香澄は綺麗だろうと思う。
香澄がこうやって愚痴るのは、ある意味毎月恒例の行事のようなものだ。
桔梗個人の考えとしては生理痛が重いのも、男の恰好をして周囲に対して気を張っているせいだと思うのだが、予想がついてもどうしようもない。
男として暮らすのは香澄が決めたこと。
それに妻として添うのは桔梗が決めたこと。
幼い頃からの、秘密の宝物。
目の前の香澄がまた溜息をついた。
「寝てたほうがいいよ」
そう言って、桔梗は付け足した。
「双六はあたしの勝ちでいいから」
「そういうこと言うか?」
香澄が憮然としながら、賽を振った。
またも駒は動かない。
「ほらね」
「香澄、双六弱し」
柚葉にたたみかけられて、香澄は桔梗に言われた通りにさっさ寝ることにした。
〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)
※笏拍子……しゃくびょうし。拍子木みたいな楽器。柚葉は石帯でいったい何をやってるんだか……。
※禁中……きんちゅう。内裏の別名。
※物忌……ものいみ。家に閉じこもっていなければいけない厄日。人によって日が違うので、もっぱらズル休みに多用される。
※血の道……ちのみち。貧血からヒステリー、頭痛まで。何でも便利に使える婦人病の総称。ちなみに女の子の日の間に内裏に近づくなど本当にこの時代は言語道断です(笑)
※入内……じゅだい。内裏に入る。転じて天皇の奥さんになること。