香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――落葉の巻〈二〉

 十五日の観月の宴も無事に過ぎて、九月ながつきを迎えたある日、桔梗の元に祖母の大尼君から文が届いた。
 先日、乳母の瑞葉みずはが写し終えた経を大尼君に届けに行き、桔梗はそのとき菊花の薫き物を彼女に託した。相手は出家している身なので、あまり華やかなのを贈るのもまずいと思って、重陽ちょうようの菊の節句に合わせて作ってあった、薫りの控え目な菊花を持たせたのだが、気に入ってくれたかどうかはわからない。
 そのときは何も返事はなかったのだが、今日になって使いの女房が文を持って邸を訪れてきたのである。
 厚手の陸奥紙みちのくがみに覚えのある菊花が薫きしめられていて、歌が一首書いてある。


     夏過ぎて 夕顔枯れて絶えじとも

                 玉葛たまかずらにぞおもかげを見ゆ


 何と言うことのない平凡な歌である。特に技巧に凝っているわけでもない。
 夏が過ぎて、夕顔の花が枯れてしまっても、茎の玉葛たまかずら(ツル草)にその名残を見ることができる。そういう意味だ。
 しかし、そこに源氏物語をからめると話は違ってくる。
 夕顔は生き霊に殺された光源氏の恋人。玉葛―――玉鬘はその夕顔の忘れ形見の姫君の名前だ。
(夕顔の君が死んでしまっても、子どもの玉鬘の姫君にその面影を見ることができます)
 この場合、夕顔は桔梗の母親の暁宮で、玉鬘が桔梗だ。
 早い話、孫に会いたいと書いてあるのである。
 わざわざ歌に詠むこともなかろうに、いままで忌避していただけに、後ろめたいのだろうか。
 桔梗はしばらくしてから一応こよみをめくって吉凶を判じ、返歌を託してから、
「明日おうかがいいたします」
 と、使いの女房を送り出した。
 その夜、漢詩を読んでいた香澄のところにやってきて、桔梗は明日外出する旨の断りを入れた。
「大尼君のところに?」
 桔梗の祖母が彼女を忌避しているのは香澄も知っているので、何か言いたそうな表情で眉根を寄せたが結局何も言わずにうなずいた。
「明日はオレも宿直とのいだから、気にせず行って来いよ。ただ、あんまり遅くなると物騒だから気を付けろよ」
「うん」
 素直に桔梗はうなずいた。
 実際、夜の外出は危険である。
「じゃ、香澄ちゃんおやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
 桔梗は手燭を持って東の対に戻っていった。
 香澄との生活は親友同士の同居といった感覚で、いたって気楽で、桔梗は特に不満を覚えたことはない。
 華奈あたりにそういうと、それは間違ってると口を酸っぱくして再三言われるのだが、暮らしている本人が満足しているのだ、いいではないか。
 東の対では、柚葉が文台(机)に出しっぱなしにしておいた大尼君の文を眺めていた。
「柚葉、人の文を勝手に見るのはお行儀が悪いよ」
「ん、すまん」
 柚葉はわりと素直に謝ると、不思議そうな表情で桔梗を見上げた。
「あのね、桔梗」
「なあに?」
「夕顔は、花が枯れたらカンピョウになる。玉葛ちがう」
「……………………」
 至極まじめな顔でそう言ってくる柚葉に、どう答えたものか桔梗はしばし沈黙した。
 たしかに夕顔の実はカンピョウの原料だが。
 それでは風情も情緒も源氏物語もヘッタクレもない。
 だいたい、清少納言のオバサンも枕草子で夕顔は名前も花もステキなのに、実の肥りぐあいったらホントもうすっごいヤだ、と書いている。
 なにより。
「じゃあ、あたしはカンピョウなの?」
「ふえ? 桔梗、カンピョウ違うぞよ?」
「じゃあ玉葛にしておいて」
「うむ。わかった」
 柚葉がコクコクとうなずいて、寝る準備をするために立ち上がる。
「明日はお出かけしようね」
「する。お出かけ」
 嬉しそうに柚葉がうなずいて、ふと首を傾げた。
「桔梗、ドキドキしてる?」
「うん、ちょっとね。ドキドキしてる」
 普段と違って、困ったように笑う桔梗に柚葉が抱きつく。
「一緒寝る」
「いいよ。おいで」
 今度はいつも通りにふわりと笑って、桔梗は柚葉の頭を撫でた。




 祖母との対面は、成功したのか失敗したのか微妙なところだった。
 桔梗は目元などが驚くほどに母親の暁宮あきみや似なので、久方ぶりに孫を目にした大尼君は反感や気味悪さなどが吹っ飛んで、桔梗を可愛がった。
 しかし、それと同時に年寄りらしい愚痴っぽさで、髪の色が薄いことをさんざん惜しんだのだ。
「髪の色さえ黒ければ、血筋や家柄からして、女御入内も夢ではないものを………」
 そう言って袖で目元を押さえられては、こちらもしらけるというものである。
 今更どうにもならない生まれついてのことをあれこれ言われるのは、気分がよくない。
 仕方なく、特に反論もせず、可愛がられるままに可愛がられて桔梗は尼寺を辞してきた。
 さんざん引き留められたのですっかり遅くなってしまい、あたりはすでに暗くなっている。
「柚葉、どうしたの?」
 一緒に連れていかれた柚葉は、どうしたことかさっきからずっと黙りこくっている。
 牛車の揺れに酔ったのかと思っていると、
「柚葉、大尼君キライかも」
 桔梗はひとつまばたきした。
「どうして?」
「だって、桔梗のこと嫌がってるんだもン」
 桔梗は困ったように笑って、柚葉を引き寄せた。
「あのね、お祖母さまはあたしがキライじゃないのよ。あたしの髪がキライなの」
「同じコト」
 柚葉が暗がりの中でぷうっと頬をふくらませたのが気配でわかる。
「桔梗の髪、キラキラしてるのに」
「変なこというのね」
「ホントだもン。柚葉ずっと見てる」
「はいはい」
 拗ねだした柚葉の頭を撫でてやったとき、ガクンと牛車が止まった。
「どうしたの?」
 外にいる従者に声をかけると緊迫した様子で駆け寄ってきた。
「この先、横切る道のつじにて何やら騒いでいる様です。夜盗かもしれませんので萩丸はぎまるを様子見にやらせました。念のため別の道を通って帰ります」
 桔梗は眉をひそめた。
「萩丸も危ないわ。すぐに戻させて。遠回りになるけど、二条大路まで出て、なるべく大路を通って帰りましょう。こっちは網代車あじろぐるまだし、衣が車の外に出ないよう気を付けるから。柚葉、裾をまとめて」
 桔梗自身も袿の裾を手元に引き寄せた。
 乗っているのが女だとバレるとマズイ。
 やがて、萩丸が息せき切って戻ってきた。
「やはり夜盗です。女車が襲われております!」
 桔梗が闇の中で目を見開いた。手のうちで、扇がバンと音を立てて鳴る。
「ダメよ」
「は?」
「ダメ。ありったけの松明まつを手に持って大声をあげて、検非違使けびいし(警察)のフリをして夜盗を追い払って! 萩丸、あなたは声を出して検非違使を呼んできた女車の供人のフリをするのよ! 早く、行って! あたしはほっといていいから!」
 日頃からおっとりしている主家の女主が、突然声を荒げて命じたので従者たちは度肝を抜かれた。
「早く! ダメならそのままあたし置いて逃げていいから、行って!」
「そ、それはなりません!」
「なら、一人だけ残して後は行って! 女の人を助けてきて! でないと邸に帰ったあとで香澄ちゃんに言いつけてみんなクビにしてやるからッ」
 クビの一言が聞いたのか、蜘蛛の子を散らすように従者たちは松明を手にして駆けていった。
 すぐに桔梗に言われた通り、少し離れたところで検非違使のフリをした大声が上がる。姿を見せては検非違使でないと知れるので、声のみで脅しつけているから、自然大きなものになる。
 人の声が入り乱れて、柚葉が不安げに桔梗の袖をとらえた。
 それもやがて止んで、築地塀の影に寄せてあった桔梗の車に雑色ぞうしきたちが戻ってきた。
「存外に気の弱い奴らで、騙されてすぐに逃げ出しました。でも、もう二度とこんなことは頼まないでくださいませ。今度頼んだら喜んでクビになりますよ!」
 青い顔で萩丸がそう言うのを聞きながら、桔梗は従者の一人が大きな荷のようなものを抱えているのに気が付いて、さっさとすだれをまくり上げて扇で招いた。
「それは人でしょう? むくろじゃないのならここに乗せて」
「とんでもない!」
 やんごとなき姫君の口から骸などという単語が飛び出したので、従者は泡を食って首をぶんぶか横にふった。
 桔梗はそれでも平然として、しつこく扇で招く。
「いいから。そのまま邸まで担いでいくつもりなの? もしどこかの姫だったらどうするの」
 あたりが暗く、顔がよく見えないのをいいことに桔梗は扇で顔を隠しもしない。
「早く乗せて。さっきの夜盗が戻ってくると困るから」
 その一言がてきめんに効いた。恐る恐る抱えていた女人にょにんを乗せると、止まる前よりずっと早い速度で牛車が動き出した。
「他に人はいなかったの?」
「車の主はこの方だけかと。あとの供人は斬られたり逃げたりして動く者はおりません」
「そう。ありがとう」
 柚葉が外の松明の明かりを頼りに、女人の顔を覗きこむ。
 まだ若い。桔梗と同じ歳か少し上くらいだろう。
「息してる」
「当たり前でしょ」
 揺れる牛車のなかで苦労してうちきを二、三枚脱ぐと、その姫君をそれで包む。
「どこの姫君かな」
 こんな月のでない日に、暗くなってから女車で外出するなど、襲ってくださいと言っているようなものである。
「桔梗、こんなことして。雅人まさととか、香澄に怒られる」
「内緒にしといて。柚葉とあたしの秘密ね」
「ぶう」
 柚葉がむくれて、何か言おうとして沈黙した。どうやら牛車の揺れに喋ろうとして舌を噛んだらしい。
 邸に帰り着いてから桔梗は、従者たちに口止めをして、後できちんとろく(褒美)をやることを約束してから解散させた。
「荻丸、荻丸」
 寝床へ帰ろうとしていた萩丸を呼び寄せて、桔梗は高欄こうらん(手すり)のところにしゃがみこんだ。
「明日、明るくなってからでいいから、さっきの場所の様子を見てきてくれる? それで、何かわかったら知らせてちょうだい」
 そう頼みこんでから、桔梗は妻戸を引き開けて部屋の中へと戻った。
 泥とか土がついた頬や髪を拭いてやり、新しい衣に着替えさせた姫君が、柚葉がしつらえた寝床に横たわって目を閉じている。
 灯りのもとで見ると、なんともおっとりした可愛らしい顔立ちで、女房などではなく、どこかの深窓の姫君といった感じがする。
 実際、着ていたひとえ濃色こきいろの長袴も仕立ての良いものだった。
 はかまが濃色ということは、未婚の姫君ということだ。それこそ、風にも当てずに大事に育てられてしかるべき存在である。
 目を覚ます気配はない。
 几帳きちょうの側では、寝所をしつらえたり着替えを用意したり、角盥つのだらいに湯をもらってきたりと色々な雑用をこなした柚葉が、さすがにぐったりとした様子で脇息にもたれかかっていた。
 ときどきその頭がカクンと船をこぐのを見て、桔梗はその体を抱えあげた。幼少時に庭を走り回って遊んでいたりしたので、やんごとなき姫君の平均腕力よりは力があるのだ。
「柚葉。ごくろうさま。あとはあたしが見てるからもう寝てもいいよ。疲れたでしょ?」
「んん。ダメ、起きてる………」
 言ったそばからカクンとやって、柚葉は目をこすった。
「いいから」
 さすがに柚葉の局まで、彼女を抱いて長袴の裾を引きずりながら連れていく自信はなかったので、桔梗自身の寝所に運び入れてふすまかづいてやる。
「ダメ………起きてる………」
 くう、と寝息がその後に続いた。
 笑って、桔梗は少女の寝所の三方に几帳を立てかけると、自分はその外で明かりを強くして、山ほど物語や歌集を積み上げた。
 起きた少女がパニックに陥るのを防ぐためには、何としてもそれまで目を覚ましていなければならなかった。

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

重陽の菊の節句……9月9日にやる長寿を祈る菊のお節句。

夏過ぎて〜……語尾の活用形ってこれでいいのかなぁ(滝汗)

カンピョウ云々……ここらへん嘘。平安時代にカンピョウがあったのかは謎。鎌倉時代にはあったらしいが。あ、でも清少納言がそう言ってるのはホントです(笑)

網代車……あじろぐるま。乗る人を選ばない一番ポピュラーな牛車だったらしい(のでどんな人が乗ってるのかわからない)。

濃色……こきいろ。濃い紫、赤紫、葡萄茶などの説明があちこちにあるが、私にはどう見てもアズキ色にしか見えない色(爆)