香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――落葉の巻〈三〉

 なんとも言えない良い薫りに、咲は目を開けた。
 うっとりするような薫りだ。ずっと薫き続けていて部屋に馴染んでいる薫りをベースに、数種類以上の色んな薫りが混じり合って、何とも言えない良い匂いになっている。しかもそのことがわかるくらいに、薫りは仄かに淡い。
 しばらくその薫りにうっとりしていて、咲は目に入った天井が見慣れたものではないことに気が付いてぎくりとした。
 几帳もふすまも品のいいものだが、どれにも見覚えがなく、咲はパニックに陥りかけた。
 だいたい、そういうことがわかるほど周囲が明るいというのはどういうことだ。起きる時刻はとっくに過ぎている。
 小野おのはどうして自分を起こしに来ないのだろう。
 小野。
 側仕えの女房の名前を思い出したところで、昨夜の記憶がどっと甦ってきた。
 暴れる牛がひどく牛車を揺らして。幾つもの怒号と、悲鳴が。
「いやあっ!」
 牛車の中から引きずり降ろされた記憶に咲が思わず悲鳴をあげると、慌てたような衣擦れの音がして、几帳がさっと横に除けられた。
 可愛い女童めのわらわが顔を覗かせる。
「あ………」
「気がついた?」
「あ……え………?」
「お粥、食べる?」
 不思議な言い回しだったが、どうやら害意はないらしい。
 さてはここは盗賊の拠点かと思っていた咲は、おっかなびっくり女童に尋ねた。
「あの、ここはどこ?」
「ここ、香澄のおうち」
 さっぱりわからない。
「香澄どの……、ですか?」
 じれったそうに女童が補足した。
「先権大納言、みなもとの賢紀ますきサマのおうち。いまは香澄のおうち」
「ええ?」
 いきなり具体的な名詞がでてきたので、咲は面食らった。
 先権大納言というと、去年の夏頃に病を得て儚くなったという権大納言だろうか。普通、邸というものは親から子に伝えられるものだから、この女童の言う香澄とはその権大納言の姫か若君で………。
 咲が考えることができたのはせいぜいそのくらいのことだった。
 しかし、何だって夜盗に襲われた自分が権大納言の邸にいるのか。
 もしかして、夜盗に襲われたというのはみんな夢で、自分はこの邸に方違えにでも来ていて、そのことをすっかり忘れているのだろうか。
 だとしても、やはりこんな時刻まで寝ているわけがないだろうし。小野も一緒のはずで自分を起こしてくれるだろうし………。
 ますます咲が混乱したところで、女童が尋ねた。
「だから、お粥、食べる?」
「は、はい………」
 迫力に圧倒されて咲がうなずくと、女童は満足そうに几帳を戻して立ちあがった。
「あのっ、私はどうしてこちらのお邸にいるんでしょう?」
「そゆことは桔梗に聞くべし。今呼んでくる」
「き、桔梗………?」
 咲は呟いて、口ごもった。
 花の名前だ。女房か女主か。こういうことは普通、口ぶりから推測できるものなのだが、あの女童の妙な言い回しではさっぱり予想がつかない。
 しかし、どこかで聞いたことがある名前だ。
 どこでだろう?
 ふわっと良い薫りがまた聞こえた。
 空薫き物の薫りではない。今度は咲も知った薫りだった。色々アレンジされているようだが、侍従の香だ。
 部屋の空気が新しく流れてきた空気にかき乱されて、香が混ざり合う。
 几帳の影に、だれかが座った。侍従の香はそこから聞こえている。
 空気の動きに押されるように、几帳が揺れた。かたびらの隙間からチラリと見えたのは、緋の袴。
(結婚してる! ということはこのお邸の北の方?)
 だからなんだというのだろう。
 この混乱している事態に対して何の解決にもならない事実を知って、咲の頭の中はさらに混迷を極めてきた。
 几帳と屏風に守られるようにして、咲が考えこんでいると、その向こう側から声がかかった。
「気がついた?」
 声が若い。
 下手すると十五歳の自分より年下かもしれない。
「気分は平気? どこか痛むところとかはない?」
 どうやら真剣に具合を案じられているようである。
「いえ………あの、元気、ですけど………。あの、こちらは先権大納言さまのお邸に相違ないんですか?」
「先権大納言?」
 きょとんと聞き返す声がして、すぐに納得したように扇が打ち鳴らされた。
「ああ。香澄ちゃんの亡くなった父君の位がたしかそうだっけ。一瞬だれかわからなかった。ええ、そうよ。今はその次郎君のげんの侍従じじゅうのお邸になってるわ」
「源侍従………」
 ようやっと咲の頭も働きだした。
 ということは、この几帳の向こうの相手は、おそらくその侍従の君の北の方だ。
 源侍従といえば、何かしら宮中で有名だというのを聞いたことがあるような気がする。
 女房たちの噂話によると、いつも良い薫りをまとっている美しい公達きんだちで………右大臣の二の姫が懸想けそうしていて、でもそれを断って鬼の子と名高い筒井筒の姫を………。
「!」
 咲は、いったいどこで桔梗という名を聞いたのか、ようやく思い出していた。
「あなた、内大臣家の桔梗姫 !?」
 几帳の向こうで、ふふっと笑う声がした。
「あたしのことを知ってるの?」
「あ……えっと、それは………」
 咲が口ごもると、几帳の向こうの姫はまた笑った。
「別にいいよ。あたしのことに関して都でどんな噂が流れてるかだいたい知ってるから」
「そんな………」
 どうしてそんなに何でもないように笑えるのだろう。
 鬼の姫といわれるのは、そうとしか思えない容貌をしているからだという。
 しかし、そうとは信じられないくらい声が柔らかくて、可愛い。
 もしかしなくても、宮中で人気のある公達に愛されるくらいだから、そんなに醜い姫ではないのかもしれない。
 几帳の向こうで、さらりと衣擦れの音がした。
「あたしのことはともかくとして。それよりもあなたは、中納言………といってもたくさんいるね、えっと、民部卿家の咲姫さまで間違いない?」
 咲は絶句した。
 名乗った覚えはない。
「どうして私のことを?」
「今朝から宮中は大騒ぎらしいの。民部卿さまの姫君がお邸から姿を消したんだって。それに右京では女車が襲われた跡が見つかるでしょ? 死んでいた牛飼童が民部卿家の者だったから、大騒ぎになって。おかげで香澄ちゃんは直接は関係ないお役所なのに、宿直とのいが終わってもまだ内裏から帰ってくる様子がないの」
 咲は息を呑んだ。
 ならば、やはり夢などではない。
「なら、私はどうして桔梗姫さまのところで、こうして生きてるんですか?」
「あたしが襲われている女車を見て供人たちに助けさせたから」
「あなたが !?」
太秦うずまさからの帰りだったの。襲われているのが女車だって聞いて、咄嗟に供人たちに検非違使けびいしのフリをさせて賊を追い払ったの。騙されてくれるか確証はなかったんだけど。間に合ってホントによかった」
 昨夜の記憶が甦ってきて、咲は強くふすまを握りしめた。体のふるえが止まらない。
 あまりの恐怖に悲鳴をあげることさえできなかった。
 桔梗姫の車がもし通りかからなかったら。彼女が従者を使って賊を追い払ってくれなかったら、今頃――――
「咲姫さま? ごめんね、怯えさせちゃった?」
 黙りこくっている咲に慌てたらしく、気遣う声がした。
 咲は思い切って几帳をずらしてみた。
 母親の姫宮が持っている琥珀の数珠に似た色の髪が、まず目に飛びこんできて、どきりとする。たしかに普通の髪の色ではない。これが鬼の姫と呼ばれる所以なのか。
 いきなり脇にどいた几帳に驚いたらしく、桔梗姫はきょとんとした表情で咲を見ていた。
(―――可愛いっ)
 自分の置かれた状況も一瞬忘れて、本気で咲はそう叫びそうになった。
 双眸も髪と同じで色が薄い。わりと大きな目だが、形がいい。それでいて、目尻がたれて何とも言えない優しげな感じがする。
 すすきの五つ衣に、落栗の重ねの小袿こうちぎをいちばん上に重ねて、おっとりと座っているその姿を見て、いっぺんで咲は桔梗姫のことを好きになった。
 世の中の噂がどれほどアテにならないかという良い見本だ。
 咲は居住まいをただすと、桔梗姫に向かって頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございます」
「ううん。いいの。助かってよかったね」
「桔梗姫さまは、命の恩人です」
「大げさよ。あ、お粥がきたみたい。いただく?」
 咲はお粥のことなどすっかり忘れていたが、ありがたくいただくことにした。
「柚葉、墨を摺ってくれる?」
 彼女がお粥を食べている間、桔梗姫は何やらひさしの間に文机を出させてさっきの女童に――どうやら柚葉と言うらしい――書き物の用意をさせていた。
「あ、咲姫さま。食事中に墨の匂いがするのはイヤ?」
「いえ………特に」
 お付きの女童と二人揃って、妙なことを聞いてくる姫ではある。だいたい咲は空薫き物やら桔梗姫の衣に薫きしめられた侍従やらの薫りにまだ鼻がなれていないので、御簾みす越しの廂の間の墨の匂いなど聞き分けるどころではない。
「なら、咲姫さま。お粥を食べながらでいいから聞いてね」
「はい」
「このままだと、咲姫さまは死んだことにされてしまうから、早くここにいるってだれかに知らせなくちゃいけないんだけれど、だれがいい?」
 その日の天気を尋ねるように軽く尋ねられて、危うく咲はお粥を喉につまらせるところだった。
「あまり大きな騒ぎにしたくないんだったら、あたしから書いてもいいし」
「あの、あの―――」
 咲は慌てて桔梗のセリフを遮った。
「もう、父の邸に知らせたんじゃないんですか?」
「まだよ。だって、咲姫さまお忍びでお邸を出られたんでしょう? 民部卿邸で、姫の姿が見あたらないってことから騒ぎは始まってるんだもの。父君にあまり大騒ぎされたくないんじゃないかと思って。あたしも香澄ちゃんが留守の間におうちで大騒ぎされるの困るし」
 桔梗が文に使う料紙を選びながら、本当に天気の話のようにそう続ける。
 お粥の椀を手に持ったまま、咲は呆然と桔梗姫を見つめた。
 どうしてそこまで気が回るのだろう。まるで殿方みたいだ。
 外見との相違がありすぎる。
「だから、お粥食べ終わったら誰に文を出せばいいのか教えてね」
 言って、桔梗姫はにっこり笑った。
「あの………」
「なあに?」
「どうして邸を出たのかは聞かないんですか?」
 桔梗姫は首を傾げた。色の薄い髪がさらりと蘇芳色の衣の上を滑って、それだけで何かの重ね色目の取り合わせのように見える。
「話したかったら聞くよ。話したくないんなら聞かない」
 素っ気ない口調に、てっきり事情を問いただされると思っていた咲は驚いた。
「あ、はい………」
 しばらく黙ってお粥をすする。
 お粥を食べ終わると、柚葉が咲に衣架いかにかけてあったうちきを差し出して着替えを手伝ってくれた。さらにそのあと寝所のしつらいを解き、廂の間に場所を移したあとも咲の座まで作ってくれる。言動はともかく、よくしつけられた見目良い女童には違いない。
「文は誰に出すの?」
 桔梗姫に再び尋ねられたときには、咲の心は決まっていた。
「大納言家の右近の少将さまに」
 父親である民部卿の弟が大納言なので、右近の少将は咲の従兄にあたる。
「わかった。それで、文はあたしが書くの? あなたが書くの?」
「私が書きます」
 咲は筆を手に取った。

〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)

空薫き物……そらだきもの。室内香。BGMならぬ、BGP(バック・グラウンド・パフューム)。

民部卿……みんぶきょう。租税や治水を管理する民部省のbP。中納言と兼任するのが普通。

薄の重ね(五つ衣)……単も加えて下から順に、白、薄青、青、薄蘇芳、薄蘇芳、蘇芳と重ねる。

落栗の重ね(表と裏)……表、蘇芳。裏、香色。うーん、たしかに、栗って感じの色の取り合わせだわ(笑)