香澄みて 花の匂いと とりかえばや―――落葉の巻〈四〉
「私、出家しようと思って邸を出てきたんです」
書いた文をくれぐれも内密に右近の少将に渡すよう、荻丸に言い含めて行かせたあと、咲姫は顔を真っ赤にしながらそう打ち明けた。
御簾も几帳も隔てることなく、廂の間で差し向かいに座ってからのことである。
桔梗はゆるくまばたいた。
「………尼に?」
「はい」
咲姫は扇で顔を隠しながら、小さくうなずいた。
その様子から推測するだに、おとなしげで、内気そうな姫だ。ついで言うなら人見知り癖もありそうで、どう見てもいきなり出家を思い立って、邸を抜け出し尼寺に駆けこむような姫には見えない。
だいたい、常日頃から御仏を篤く信じて出家しようと思っているのなら、闇夜に邸を抜け出して駆けこみ出家を決行しようとはしないだろう。
「その髪を切っちゃうつもりだったの? もったいない」
頬にかかるあたりに緩やかな癖があるものの、黒くてたっぷりした綺麗な髪である。
桔梗がそういうと、咲姫はますます顔を真っ赤にした。
「いえ、あの………そう思ったんですけど、あんな目に遭って今はちょっとどうしていいかわからなくなって………」
「思いつきの出家ならやめておいたほうがいいと思うな」
「はい、あの………」
咲姫はますます縮こまってしまった。
「どうして出家しようなんて思ったの」
彼女のほうから話し出したということは、聞いてほしいということだと判断して、桔梗は話の先を促した。
咲姫はしばらく迷っていたようだが、やがて思い切って口にした。
「お父さまが、私を入内させるというんです」
「………はい?」
さすがに桔梗も聞き返した。
「入内………って、今上に?」
たしか今上帝は不惑の年頃もとっくに過ぎ、そろそろ譲位もささやかれているとのことではなかっただろうか。
皇子がいないわけでもない。東宮の他にも、先右大臣の姫との間に親王を、先内大臣の姫との間に親王と内親王(姫)を、それぞれ設けているぐらいだから、いまさら子どもが欲しいというわけでもないだろう。
咲姫は首を横にふった。
「違います。東宮さまにです」
桔梗は納得した。
なるほど。東宮の妃は、いまのところ右大臣家の紫乃姫のみ。しかもいまだ皇子もなく、香澄から聞いた話ではあまり仲がいいとも言えないという。
さっき訊けば、咲姫は桔梗と同じ歳だというから、東宮との歳の差から見ても釣り合いが悪いわけでもない。
桔梗は首を傾げた。
「東宮妃はイヤなの?」
「イヤです」
こればかりはキッパリと咲姫がうなずくので、桔梗は驚いて目を見張った。
人の価値観は色々あるだろうが、それでも東宮妃なんてイヤだと言い切るのは勇気がいる。即位する前から帝に寄り添う東宮妃は、女としての頂点である三后の位に最も近いところにいる女性だ。
入内の話をしたら肝が据わったのか、咲姫は扇を顔から降ろすと溜息をついた。
「桔梗姫さまは、今の右大臣さまと大納言さま、それにうちのお父さまが兄弟なのはご存知ですか?」
「聞いたことはあると思うけど………」
桔梗は再び首を傾げた。
政治中枢の人間はみな血縁、系図をたどれば祖は同じというこのご時世だから、咲姫の言うこともそう珍しくはない。
「お父さまは兄弟の真ん中なのですけど、叔父上に比べて位が低いのがくやしいんです」
兄は右大臣で位は二位。弟の大納言は正三位。真ん中の民部卿は中納言と兼任で、そのひとつ下の従三位に叙されている。
「私のお母さまは先帝の第五皇女ですけれど、特に強力な後ろ盾というわけでもありません。今度の秋の除目でも特に昇進はありませんでしたし、このままだと、おそらくお父さまは中納言止まりです」
「それであなたの入内?」
咲姫はイヤそうにうなずいた。
「はい。もし私が東宮さまの寵愛をいただいて男皇子でも生み参らせれば、お父さまは叔父上を見返せますから」
それでは順序が逆だ。中納言の位では姫を後宮に入れても女御の宣旨を下すことはできない。せいぜい更衣どまり。もし寵愛を得ることができれば、愛する寵姫を女御に格上げするために、東宮(そのころには即位して帝になっているだろうが)が父親に大臣の位を授けるということもないではないが、最初からそれを狙うというのもあまりにも情けない話である。
「…………」
桔梗は黙って嘆息した。
こういう話を聞くと、男として社会を渡り歩いている香澄がつくづくうらやましくなってしまう。
幸いにも自分はこの髪のせいで、こういう話が出たこともなく、従兄妹の雅人や華奈たちは自分に理解があるし、早々に香澄と結婚したおかげで好き勝手にさせてもらえる。
けっこう、自分は幸せ者なのだ。華奈や雅人たちの評価は別として。
それにしても。
「東宮妃が出家するほどイヤだなんて、咲姫さまはどこかに好きな殿方でもいるの………って、愚問だったかも。ごめんなさい」
みるみるうちに咲姫の顔が真っ赤になった。
さっき文を出した相手を考えれば、尋ねなくとも大方の予想はつく。
そうしているうちに渡殿のあたりがにわかにざわついて、人が渡ってくる気配がした。
桔梗は咲姫を残して御簾の隙間から母屋の中に滑りこむ。
「え、桔梗姫さま?」
びっくりしたように咲姫が御簾の中を見た。
と、直衣姿の青年が女房の先導をふり切るようにしてやってきて、廂の間と簀子を遮っている御簾をいきなりまくりあげた。
「咲 !?」
「貴海おにいさま!」
ようやく咲姫は桔梗が母屋に入っていった理由を悟った。
さすがに御簾をいきなり開けられてはたまらない。咲姫はともかく桔梗は人妻だ。
普段はこういった行動にでる人物ではないのだが、よほど慌てていたらしい。二藍の直衣姿の全身から殺気立った気配を放っている。
「落ち着いてください」
御簾越しに桔梗の声がかかり、貴海は我に返ったように慌てて御簾を降ろして簀子縁に座りこんだ。へたりこんだと表現するのが正しいのかもしれない。
咲姫の顔を見て安堵したのか、顔を片手でおおって大きく息を吐いた。
「ああ、無事でよかった―――」
「貴海おにいさま。心配かけて御免なさい」
咲姫が涙ぐんで謝った。
昼の明るさが入りこんでくる御簾の中では、光を背にした貴海の姿は影絵のように見える。二藍の直衣の色や冠の透け具合はわかるのに、肝心な表情だけがわからない。
逆に貴海のほうからは、御簾の竹が艶やかに光を反射していて、咲のわずかな気配しかわからない。
貴海は再び大きな溜息をついた。
「辻で横倒しになった車を見たときにはもう生きていないかと思った………。中納言さまと北の方さまは寝こまれるし、尚子と杏子も泣き通しで………」
内裏で文を受け取ってそのまま、衣裳をあらためもせずにすっ飛んできたらしい。
「桔梗姫さまが助けてくださったの。文に書いたでしょう?」
「あ、ああ。しかし源侍従どのは御所にいたが特に何も言ってこなかったぞ。雅人のヤツも………」
御簾の向こうの相手にとっては雅人が義理の兄であることを思い出して、慌てて貴海は口をつぐんだ。
「香澄ちゃんは昨日から宿直でこちらには帰ってないもの。知らなくて当然だわ。雅人兄さんにも何も言ってないから、咲姫さまがここにいるのを知っているのはあたしたちだけです」
廂の間にいざりでながら、桔梗がそう言って笑った。
「右近の少将さまが雅人兄さんと仲が悪いのは知ってます。遠慮なくどうぞ」
遠慮なくどうぞなどと言われても、まさか、はいそうですかというわけにもいかない。しかも北の方である桔梗が直接声を聞かせるというのも普通はないことだ。
面食らって沈黙している貴海に、桔梗は昨夜の顛末をかいつまんで語った。
咲姫のほうの家出の事情に関しては伏せておく。
しかし当然のことながら、桔梗の話を聞いた貴海は咲姫にそのことを問いかけた。
「なんだって闇夜に女車で邸を飛び出すような真似をしたんだ。しかも小野も連れずに一人で! 朝、お前の姿がないと言って邸がどれだけ大騒ぎになったか………」
理由を言えば、さらに貴海の頭に血が昇ると予想がついたが、それでも咲姫は勇気を奮って口にした。
「出家しようと思って………。小野に言ったら止められると思ったから………」
「出家ッ !?」
貴海が再び御簾をからげかねない勢いで腰を浮かせたが、桔梗もいることを思い出して座り直した。
「何だって急に出家なんか………」
咲は御簾を隔てていても居心地が悪いらしく、消え入りそうな声でそれに答えた。
「お父さまが私を東宮妃にするとおっしゃるんです」
「咲を東宮妃に?」
貴海が目を丸くする。
「咲姫さまはそれがイヤでお邸を抜け出したのよ」
「東宮妃がイヤ………?」
やはり皆同じように考えるのか、そう聞いた途端、貴海がますます目を見張って沈黙してしまった。
咲姫がそれを御簾越しに見て、顔を真っ赤にして涙ぐんでいる。
いささか咲姫が可哀想になった桔梗は、彼女に変わって貴海に話しかけた。
「とりあえず、こんな騒ぎになってしまっては入内なんて当分ムリですから、その話はいまは置いといて、問題はこの後どうするかです。少将さま、咲姫さまが生きていることを早く報告してください。生きているのにお葬式が出されたら可哀想ですし」
妙な心配の仕方だった。
それを真に受ける貴海も貴海で、
「たしかに出しかねない様子だったな………」
「報告にあたしの名前を出すんでしたら、香澄ちゃんにも連絡をとっておきたいんですけど」
「香澄ちゃん………とは、やはり侍従どののことですよね………?」
「そうよ」
夫をちゃん付けする桔梗の言い様に、貴海はどう反応するべきか困ったらしく、しばらく黙りこんだ後で無視することにしたようだった。
「咲が出家するつもりで邸を出たなどと報告するわけにもいきませんし………」
「いいの。言ってください、貴海おにいさま」
「咲?」
「他に、闇夜に供人もつけずに出かけた理由が考えつきません。お父さまが私の入内なんか考えないように、私の名前に傷をつけてください」
キッパリとそう口にした咲姫の迫力に、貴海は気圧されて口ごもった。
「そんなわけにも………」
「お願いします。でなければ桔梗姫さまにもご迷惑がかかります」
「あたしはいいよ。別に今更、噂にひとつ新しいのが追加されたってどうもしないもの」
めんどくさそうに桔梗がそう言うと、咲姫と貴海が黙りこんだ。
「どうかした?」
「そんなことを言ってはイヤです」
「え?」
「桔梗姫さまは善い方です。そんな噂が立つなんてイヤです」
「いや、今更慣れてるし………」
「ダメです!」
隣りに座った咲姫に涙ぐまれながらそう怒鳴りつけられて、桔梗は面食らってしまった。
華奈がこの場にいれば、嘆息混じりに叱りつけたに違いない。
アナタがそれでいいって言ったら、周りの人間はそれじゃ全然良くないことを知るべき
よ、と。
たしかに桔梗がそれでいいというと、周りの人間は自分のせいでそう言われているような気分になって、居たたまれなくなってしまうことがある。
貴海も決まり悪そうに御簾越しにうなずいた。
「姫は、咲姫の命の恩人です。咲のせいで新たな噂がたっては申し開きもできません。
―――咲、お前いまも出家するつもりでいるのか? もしそうなら、出家するつもりで邸を飛び出したなんて報告したら、俺や杏子たちも含めて邸総出で説得騒ぎになるぞ」
「もう出家したいなんて思いません。入内さえさせられなければいいんです」
「わかった」
言って、貴海はスッと立ち上がった。
「桔梗姫。あたなの名前を出さずに報告をすませることはできません。多少お邸が騒がしくなるかと思いますので、いまのうちに侍従どのに連絡しておいてください」
「わかりました。咲姫さまはどうするんですか?」
「いましばらくこちらにお願いできませんか? あとで迎えをやらせます」
「わかりました。柚葉!」
人払いされていたため、すぐにというわけにはいかなかったが、柚葉が姿を現した。
「少将さまを先導して」
「わかった」
柚葉の後についていきかけた貴海が、御簾のなかをふり返った。
「姫。従妹の命を助けていただき、本当にありがとうございます」
「助けたかったから助けただけ。それだけ」
そう言った桔梗の口調が、不意に笑みを含んだものに変わった。
「いいことを教えてあげる。雅人兄さんは、気に入った人にしか意地悪しないの。少将さまは、同輩の公達のなかでは珍しく雅人兄さんに気に入られているのよ」
「な………、気………!?」
予想外のことを言われた貴海が絶句した。
「雅人兄さんにからかわれるのを防ぐ方法はね、あらかじめ弱点を正直に打ち明けておくことかな。真っ向から真面目に話されると、あの人は逆に自尊心が邪魔をして、あえてそこをつつこうとはしなくなるから。どうぞ参考にしてね」
そう言って笑いながら、桔梗は貴海を見送った。
『――――そういうわけなのでなるべく早く帰ってきてください。 桔梗
追伸 黙っていると後が怖いので、雅人兄さんも一緒に連れてきてくれる?』
〈適当な用語解説〉(あくまで雰囲気をつかむためのものです)
※不惑の年頃……ふわくのとしごろ。40歳のことです。この頃は四十過ぎればジジババ扱いでした(^^;
※親王・内親王……しんのう・ないしんのう。天皇の子女。または男親が親王である天皇の孫も含む、親王宣下を受けた人のこと。男は親王、女は内親王。咲姫の母親も桔梗の祖母も内親王です。
※三后の位……皇后、皇太后、太皇太后。皇后は中宮の別称(後に分化する)。
※大納言……だいなごん。左大臣、右大臣、内大臣の次にエライ。この話では定員三名。って説明それだけかい(汗)
※正三位・従三位……しょうさんみ・じゅさんみ。この時代、三の上、三の下、五の下の下などと細かく位が別れておりました。もらった位にふさわしい役職に就くのがこの時代です。
※除目……じもく。人事異動。春と秋にあって、これで出世したり転勤先が決まったりする。
※二藍……ふたあい。夏直衣の色。藍色に染めたあと紅で二度染めした紫色です。このころ、冬直衣は白で夏直衣は二藍色と決まっていました。作中では秋も終わりですが、更衣(ころもがえ)がぎりぎりまだなので夏直衣なのですね。