第四章 運命の渦〈胎動〉 〔1〕

 デュランの言う村とは、アストリアという湖の名をそのまま冠した湖畔の村だった。
 漁業と農耕で穏やかな営みを続けている人里だ。獣人たちがジャドを襲ったという話はここまで届いてはいたが、村人たちは不安そうなものの、この土地を見捨てることは考えつかないのか、日常のままに生活をおくっている。いざとなったら辺りに広がる〈ラビの森〉へ逃げるつもりでいるらしい。
 足を挫いたリースにあわせてゆっくりと歩を進めてきたため、一行が村に辿り着いたのは東の空が白みはじめるころだった。
 こんな時間帯にやってきた非常識な客に宿の主人は眠たげな顔をしつつも、それでも部屋を貸してくれた。
「ああやっと寝られる………」
 そう言うなり、アンジェラがよく糊のきいた敷布に倒れこむ。
 ジャドでも夜になるまでの間、彼女はぐっすり寝ていたはずなのだが、ここまでの強行軍ですっかりその体力を使い果たしてしまったらしい。同室のリースが何か言う前に、アンジェラはもう眠っていた。まるで子どものような寝付きの良さだった。
 思わず呆れながらも、少しだけ笑った。
 リース自身も、ローラント城が落ちてからというものろくに眠れていなかった。ジャドに向かう船の中では眠りたくとも眠れず、船が揺れ、周囲の乗客から寝言や寝息が洩れるたびに、槍をつかんだ手がビクリとふるえる有様だった。
 宿の敷布は使い古されてはいたが清潔だった。洗濯に使ったと思しき香草の匂いがする。
 枕に頭を横たえた途端、リースはそのまま泥のような眠りに落ちていった。



 次にリースが目を覚ますと、西の空が鮮やかな朱金に染まっていた。
 いくらなんでも寝過ぎだったが、隣りの寝台の主は変わらず寝たままだった。よほど強行軍と慣れない戦闘が体にこたえたらしい。
 子どもみたいな寝顔の彼女を起こすのも忍びなく、リースはそっと部屋を出た。
 宿の一階に降りると、ちょうど外からデュランとケヴィンが戻ってきたところだった。手を挙げて合図してきた二人に、リースは寝過ごしたことを詫びた。
「あの壁、何なのかわかりましたか」
「ああ。どうやら獣人ビースト兵団を防ぐため、光の司祭が張ったらしい」
 デュランが渋面でそう答えた。
「光の司祭様が?」
 思わず問い返し、リースはその事実に眉をひそめた。
 触れた瞬間に流れこんできた、強い排除の意志。
 あれは何人たりとも洞窟に入ることを許さない意志だった。
 昨日デュランから聞いた話によると、〈滝の洞窟〉は聖都ウェンデルへと続く唯一の道だという。たしかに獣人兵の侵攻を防ぐにはもっとも確実で最上と思われるやり方だったが、いまのリースたちからすると迷惑このうえないやり方でもあった。
「他に道は………?」
「あったらオレもこんなに悩んでねぇよ。まいったな………どうする。泳ぐか?」
「わかった。オイラ、泳ぐ」
 半分冗談で言った言葉に、ケヴィンが真面目な顔でうなずいたため、デュランは慌てて止めにかかった。
「おい冗談だ。本気にするな。この湖どれくらいあると思ってるんだ?」
 この少年なら実行に映しかねないが、他の三人は絶対に無理だった。第一、船の接岸が可能な地形が存在しないために、この湖は対岸同士で船の交流すらないのである。
 それに第一、極北出身のアンジェラは泳げるかどうかも怪しかった。
「西からは、行けないか?」
 滝の洞窟はその一部が湖の下を通りながら、東回りでウェンデルに向かう道筋だった。その逆はないのかと訊いているケヴィンに、
「無理だ」
 デュランが即座に首をふって否定した。
「ウェンデルの西には湿地帯が広がっていて通れやしねぇ。だから獣人たちも海路を使って東回りでウェンデルを攻めにきてんだろ」
 リースは顔をしかめて捻った足首を撫でた。ケヴィンの薬草のおかげか、痛みはだいぶひいている。戦闘は無理だが、走るぶんには問題ないだろう。
「どうします。もう一泊ここでしますか?」
 しかしこれ以上滞在するには、ジャドの獣人兵たちの存在が気にかかる。
 眠そうな声が降ってきたのはそのときだった。
「ねぇー」
 いつからいたのか、吹き抜け造りの二階の部屋からアンジェラが姿を現していた。深緑の瞳はとろんとしていて、紫の巻き毛があちこちにはねている。
「どうなったのー? 通れそうー?」
「ああ? 無理だよ。おまえ起きるの遅いんだよ」
 いまだ寝ぼけているのか、言葉尻が何故か間延びしていた。アンジェラはガシガシ髪を掻きながら背を向ける。
「あー? ムリー? じゃ、あたし寝るわ」
「ちょっと待ておい !?」
「だってー、通れないんじゃどーするのよ? もう一泊しよー」
 ひらひら手をふってアンジェラはさっさと部屋に戻ってしまった。呆気にとられてリースたちはそれを見送る。大物なのか、ただ危機感がないだけなのか。
 二階に向かってデュランが怒鳴った。
「寝る前におまえ、泳げるかどうかだけ教えろ!」
 しばらく間があって、ようやくくぐもった声で返事があった。
「えぇ? 泳ぐってなによ?」
 こめかみをひきつらせながら、デュランがリースとケヴィンに向き直った。
「もう一泊するぞ」
 表情に怯えたのか、ケヴィンが無言で何度もうなずいた。



 ―――そして、更夜。
 六つあるうちの三つの月。その満月に少し欠けた形が中天を通り過ぎようかという、深夜。
 どこからともなく現れた光が、アストリアの村を照らしだした。
 光は湖面に反射してよりまばゆさを増し、光の源である小さな何かが移動するたびにその明かりの範囲を変えていく。
 驚いて窓から覗く者や外に出る者をひとりひとり確かめるかのように、光はさまよう。


(だめ。ウェンデルまで、もたない………)


 ふらふらと光は漂い、やがてその向きを変えると、リースたちが泊まっている宿の前にさしかかった。
 月が降りてきたかのような光が、あたりを照らす。
「………?」
 鎧戸の割れ目から射しこむ強い光にリースが目を覚ますと、隣りではさすがに睡眠を充分とったアンジェラが、こちらも光に気づいて身を起こしていた。
「何よ、もう朝………?」
「違います。何かが窓の外に―――」
 寝台から飛び出したリースは鎧戸を開け放った。
 途端、溢れるような白い光に目を灼かれ小さく声をあげる。
 慌てて鎧戸を閉めなおし、リースは目を押さえながらも、枕元に置いてあったヴァナディースと路銀を取りあげた。急にそなえて装備は脱がずに寝ていたから、あとは靴に足を突っこむだけですむ。
「リ、リース?」
「外がすごい騒ぎになってて………。行ってみないと」
 窓を開けたリースの耳に飛びこんできたのは、村中が騒いでいるのではないかとおぼしき大勢の人の声だった。
 リースの言葉に、アンジェラも杖を手に取った。
 宿の一階に常駐しているはずの店番の姿も見あたらず、二人は階段を駆け下りると外に飛び出した。
 飛び出した外は元通りの暗さを取り戻していた。リースがあたりを見まわすと、すでに先に外に出てきたらしいデュランとケヴィンが村人たちに混じって空を見あげている。
 視線の先を追うと、村から離れていく光る何かが木立の影にちらりと見えた。
「デュラン、アレ何よ?」
 アンジェラが声をかけると、デュランはそこでやっと二人の存在に気づいたらしく、髪を掻きながら唸った。
「俺が知るか。たしかに昼間に妙な話を聞いちゃいたが、与太以外の何ものにも聞こえなかったんだ」
「初耳です」
「関係ねぇと思って言わなかったんだよ」
 嘆息して、デュランはその話を披露した。
 二日ほど前にこのアストリア湖の上で、昼間と見まごうような白い光が閃いたのだという。閃いたのはただ一度きりで、それだけの話だったのだが、村はその噂で持ちきりになっていて、デュランは結界の話を聞き出すのにひどく難渋したらしい。
 アンジェラが即座に顔をしかめる。
「何よ、それ」
「だから俺が最初からそう言ってるじゃねぇか。誰かが唱えた破邪光珠ホーリーボールの光でも見間違えたんじゃねぇかって気もしたし、獣人兵の仕業とも思えねぇ。ついさっきまでは本気でただの与太だと思ってたんだよ」
 あたりを見回せばすごい騒ぎである。村は滅びるだの、災いが降りかかるだの、逆に吉兆なのだと言いたい放題だ。
 アンジェラが溜め息をついて髪をかきあげた。
「とりあえず、破邪光珠って線はないんじゃないの?」
「あんなの見たの、オイラ、初めて。その………追いかけなくても、いいのか?」
 野次馬よろしく飛び出してはきたもののどうするべきか決めかね、リースは光が消えたほうを何とはなしに目で追った。
 光は徐々に村から遠ざかっていく。
 皓く、浄い光だった。まばゆいくせに、どこか儚い。
 不意にアンジェラが声をあげたため、リースは視線を戻した。
 見れば、寝間着姿の幼い少女がアンジェラの服の裾をつかんでいる。すでにこの騒ぎで眠気が飛んでいってしまったらしく、ぱっちりした目で一同を見あげ、少し唇を尖らせていた。
「ねえ、お姉ちゃんたちにも見えたよね?」
 どうやら周りの大人に否定された同意をこちらに求めてやってきたらしく、少しむきになった口調で少女はそう言った。
 見た、ではなく、見えた、と問いかけられ、一同は首を傾げた。あの謎の光は見えたかと問われるほど、見るのに苦労するような代物でもなかったはずだ。
「見えたって、いまの白い光のこと?」
 尋ね返したアンジェラに、少女は勢いよく首を横にふった。
「ちがうよ。ひかりのなかにね、羽根をはやした妖精さんがいたの。お姉ちゃんたち見てない?」
「よ、妖精?」
 面食らった一同に、少女はぷっと頬をふくらませた。
「見てないんだ。お姉ちゃんたちもお母さんたちとおんなじだ。ちゃんといたのにぃ!」
 リースたちが顔を見合わせているあいだに、さっさと少女は走り去ってしまい、また別の大人を捕まえて同じことを尋ねている。
 村から遠ざかった光は森の木立の向こうから、ときおり、ちらちらとその光を白くこぼしている。
 走れば何とか追いつけそうな距離にあるのが、いけなかった。
「………追いかけるか?」
「そうするか? オイラ、何だかあの光気になる」
「そんなことをしている場合じゃ………」
 リースはとりあえず反対したが、ならばこれからどうするのかと問われても答えられなかった。滝の洞窟には結界が張られている。ここに足止めされている以上、光を追いかけていようがいまいが同じことだった。
 アンジェラが胡散臭そうに顔をしかめた。
「本当に妖精なわけ? たしか妖精ってマナの女神さまに仕えてるっていうやつのことでしょ?」
「もしそれが本当ならマナストーンことを何か聞き出せるはずだよな」
 ふとデュランがそう思いついた。これも、いけなかった。
「どっちにしろ寝直せないわよ」
「お前はな。あれだけ寝てりゃそうだろうよ」
 リースは軽く頭をふったが、賛成とも反対とも言わなかった。すでにケヴィンは光の去った方向に足を向け始めている。
 結果として状況に流されるように深夜の追跡行が始まり―――。
 そしてまさにこの瞬間、運命は動きだしたのだ。