第四章 運命の渦〈胎動〉 〔2〕
〈ラビの森〉はジャドとアストリア村のあいだを東西に細長く広がる森に冠された名だった。
東側は比較的拓けており、ジャドとアストリア、滝の洞窟を結ぶ道が切り開かれ、流れる小川には粗末ながらも橋がかかっている。
西側は東側よりも森が深く、踏み分けられた細い道は通る者も少ない。
だが、それでもまだ村の近辺には人の手が加わった跡があった。村の人々が生活に必要な木を切り、粗朶を拾い、野草を摘んでいるためだろう。しばらくは草の丈も低く、隆起の多い箇所には丸太を埋めて土留めをした階段が作られていた。
光が飛んでいったのは西側だった。
夜目の利くケヴィンが先頭に立ち、リースたちはラビの森へと足を踏み入れた。
村から離れるにつれて、頭上の枝の重なりは深まり、やがて天蓋のごとく視界をさえぎった。
紗のようにあたりをおおっていた月光の帷もしだいに細く切り裂かれ、幾筋にも分かれて垂れさがる飾り紐へと姿を変える。
闇が深くなるにつれて、白くまばゆいあの光はよく目立った。
ぱッと閃き、光沢の強い葉を輝かせ、一瞬のちにはもとの深い闇へと戻る。
幾度もそれをくり返し、やがてまたたく感覚が短く、頻繁になった。陰影の激しさに眩暈をおぼえるほどに。
そのまたたきを追ううちに、闇に麻痺したようにリースのなかから現実感が薄れていった。ここで何をしているのか。城が落ちたのはたった五日前。六日前のこの時間には自分は風の唸りを聞きながら自室の寝台で眠っていたはずだった。傍らに愛用の手槍を置いて。なぜこんなところにいるのか。共に歩む彼らは何者か。
どこかで知らない鳥がホゥ、と鳴いた。こんな鳥はローラントにはいない。山肌を駆けのぼる上昇気流をつかまえることに長けた猛々しい猛禽類がほとんどだった。何という名の鳥だろう。靴が踏む大地の感触さえも故郷とは違う。もしかすると、これはみな夢で―――。
不意に、目の前を光が薙いでいった。
ヴァナディースが弾くその光がリースを現実に引き戻した。微かな明かりさえとらえて星のようにきらめく、流線の刃。そうだ。愛用の槍は置いてきた。城に残してきた者たちにせめて寄り添っていられるようにと。自分の代わりに。
その代わりに自分が担ったのは、この槍の重さだった。光を弾く継承の槍。
リースは溜め息をついて、頭をふった。ここにいるのは夢ではない。夢ならどれほど良いだろうと、この五日間で何度思ったことだろうか。
先を行くアンジェラがふり返り、気遣わしげな様子を見せた。なんでもないとリースは小さく笑う。
「あの鳴いている鳥はなんですか」
「フクロウだ。知らないのか?」
「ローラントにはいませんでした」
会話はそこで途切れた。
光とは確実に差を詰めつつあった。その中心に何かがいるのを微かに見たような気さえした。
あともう少しで追いつける。
そう確信したとき、不意にその光が消えた。光り続けることに耐えかねたような呆気なさだった。
この木立さえ迂回すればというときだった。
目の前の一群の灌木と木立を迂回するように、道がのぼりながら右回りに奥へと続いている。迂回した先が光が消えたと思われるあたりだった。木立の傾斜はきつく、迂回路はゆるい。
一行は立ち止まってあたりを見回した。すでにもう充分に森の奥までやってきていた。
「なんか、成り行きでここまで来ちゃったけど、………どうする?」
すっかり息があがってしまったアンジェラが、木々の隙間から射しこむ月の光を確かめようと上を見あげた。
迂回路を睨み、デュランが小さく舌打ちした。
「突っ切ったほうが早いぜ」
言うが早いか、伸び放題の蔓草を盾で押しのけるようにして先へと行ってしまう。
わずか二日ほどの同道だったが、デュランが性急に事を運びたがる性分だとリースはすでに気づいていた。アンジェラが呆れたように鼻を鳴らす。
ケヴィンひとりだけが、慌てたように後に続いた。
「デュラン、いけない。獣の気配、する―――」
リースの項がぞわりとあわだった。
次の瞬間、雑多な気配が森の静寂を破っていた。デュランの驚きとも悲鳴ともつかぬ声がそこに混じる。
「デュラン!」
アンジェラとリースはそれぞれ得物を手にして木立のなかに駆けこんだ。
きつい傾斜を登りきり、木の根に足を取られそうになっているアンジェラに手を貸すと、ケヴィンとデュランの姿を捜して視線を走らせる。
二人はすぐに見つかった。
木立は切れ、月の光が根元まで届いている。そこのわずかに開けた空間で、デュランとケヴィンがそれぞれの得物をふるっていた。
そこに幾つもの小さな影がまといつく。
森の名にさえなっている、牙を持つ兎に似た獣ラビだ。眠りを邪魔した闖入者に、昼間はおとなしいその獣たちが黄色の体毛を逆立てて一斉に牙を剥いていた。踏み分け道が迂回していた小さな丘はラビたちの巣だったのだ。
「こんのぉ、デュランの考えなし!」
こちらに向かってきた一匹に対して、アンジェラが憤然としながら杖をふり払った。
もはや先ほどまでの静寂はどこにもない。獣の悲鳴と気配が入り交じり、木々をざわめかせて鳥たちが飛んで逃げていく。
空間が狭く、デュランもリースもそれぞれの得物を存分にふるうことができない。
騒ぎを聞きつけたのか眠りの胞子を吐くマイコニドまでがどこからともなく現れて、事態はいっそう混迷を極めた。
「反対側に抜けて逃げるぞ!」
デュランの指示に一同はじりじりと後退した。すっかり興奮しきったラビたちに追われるようにして南へと向かう。
リースが先頭に立ち、あいだにアンジェラをはさむようにしてデュランとケヴィンが最後尾に立った。
水の匂いがして湖岸が近いことを知らせる。向かう先であの光が白くまたたいたような気がした。
一瞬、リースの注意がそちらに逸れる。
「リース、そっちにいった!」
鋭いデュランの声にふり向いたときには、口腔を大きく開けたラビが今まさにリースの臑に噛みつこうとするところだった。
慌てて足を引き、槍の石突きでラビを突けば、そこに腰ほどもあるマイコニドが勢いよくぶつかってくる。
膝を使って押しあげるようにそれを蹴り飛ばした瞬間、その笠から眠りの胞子が撒き散らされた。蹴られた勢いのままに飛び散るそれをわずかに吸いこんでしまい、意識に靄がかかる。
槍を持つ手に力が入らず、体勢が崩れた。負荷のかかった足首に鈍い痛みが奔る。
捻った足首を庇おうとして、無意識に後ろに下がったのがまずかった。
踵に何かがぶつかった。そう感じたときにはすでに体が沈んでいた。傾く視界で見えたのは、横倒しになり朽ちるままの金塗りの女神像。
「リースっ!」
アンジェラの悲鳴にも似た声がした。
垂直に近い傾斜をリースは転がり落ちていた。
蔓がからまり、耳元で葉がこすれて耳障りな音を立てる。必死で頭を庇い、ようやく体が止まったときには、打ちつけたあちこちが悲鳴をあげていた。
呻きながら肘を突いて体を起こしたリースは、目の前まで水が迫っていることに気づいてぎょっとした。急な斜面の下はすぐに湖岸となっていた。もう少しリースの体に勢いがついていたらそのまま水のなかに突っこんでいただろう。
「リース!」
アンジェラの声にリースは上を見あげた。丈高い草におのれが落ちてきた跡がしっかりと残っている。それほど高い傾斜ではなかった。崖と呼ぶのもはばかられるような斜面だ。
闇のなかに、アンジェラの顔がほの白く浮かんで見えた。
「それ以上前に進まないで! 来たらあなたも落ちます。私はだいじょうぶですから」
「片づけたらすぐそっちに行く!」
姿は見せずにデュランが声だけ放ってよこした。ラビ相手に奮戦しているのだろう。
リースは体を起こし、岸辺に座りこんだ。水に浸かってしまっているおのれの髪の毛先を救いだし、溜め息をつく。
ヴァナディースは傍にある。ここには獣の気配はしない。とりあえずは安全だった。
ひたひたと間近まで水が押し寄せている。三つの月の光を反射して、あたりは意外なほどに明るかった。
周囲の状況を確認しようとして、リースは息を呑んだ。
槍の間合いからわずかに外れた草地に、淡い光の塊が浮かびあがっていた。
消えそうに弱々しい光の中心に何かがいる。
咄嗟のことに動けずにいるリースの目の前で、光は何とか上昇しようと必死にまたたいていたが、やがて力尽きたように薄れて消えてしまった。
月明かりのなか、小さな影がそこから落下する。まばたきするほどのその一瞬で見えたのは、光を反射する薄い翅と金色の何かだった。
水音が響き、水面に小さな波紋が広がる。
その音が、いま見たものが幻ではないのだと告げていた。
リースは皆のいる斜面を見あげたが、ためらっていたのはわずかなあいだだった。
突き動かされたように水のなかに入ると、彼女が起こした波のせいで湖の中央へ流されようとしているそれを静かに両手ですくいあげる。
(ひかりのなかにね、羽根をはやした妖精さんがいたの―――)
村の幼い少女の言ったその言葉をリースは思いだしていた。
妖精―――。
手のひらに載ったそれは、濡れそぼった玩具の人形のようだった。
青い月光に照らしだされて明らかになる、さっきちらりと見えた金色の何かは髪だった。いまは濡れて肌にへばりついている。
自らの重さに耐えかねたのか、無惨に折れてしまっている蜻蛉のような薄い翅。精巧な作り物のように小さな手足はぐったりと投げだされてぴくりともしなかった。
息を殺して、リースは指で妖精の金の髪をそっとかきわけた。
濡れてはりついた髪のあいだから小さな顔が覗いた。きつく目を閉じた苦悶の表情にリースは胸を突かれる。さきほど光が薄れて消えたとき、この妖精は死んでしまったのだ―――。
あの少女は自分が見た妖精が死んでしまったと聞いたら悲しむに違いない。何と言ってやればいいのだろう。
水のなかに立ちつくすリースの頭上で月が雲に隠れて翳り、また顔を出した。
手のひらからしたたり落ちる雫が白玉のようにきらめく。
ふと、妖精の金の睫毛が微かに震えた。
まさかと疑っているうちに、やがて静かにその目が開かれる。
ぼんやりと見開かれていた瞳の焦点が不意にリースをとらえ、わずかにみはられた。
「貴女は、だれ………?」
鳥の羽毛のようにささやかなその呟きに、憑かれたように思わず答えを返していた。
「私は、リース―――」
眠りの胞子でまだ夢を見ているような気がした。
―――そのとき斜面の上からアンジェラが見たのは、青い月光のなか濡れそぼったように立つリースの姿だった。
いったいなぜ水のなかにと思い、アンジェラは背筋を這いのぼる悪寒にわけもなく身を震わせた。
リースの手のひらに載っている何かが動き、身を起こす。
それはリースを見つめ、リースもそれを見つめ―――、
とてつもなく嫌な予感に襲われた。理由などない。何も恐れることなどないはずなのに、どうしようもない不安に怯え、アンジェラは降りる足がかりを求めて視線を走らせた。
このままではだめだ。止めないと。リースのもとに行かないと。
取り返しがつかないことになる………!
「リース………」
教えられたその名をうわごとのように呟いて、妖精はリースの掌の上で体を起こそうともがいた。
肩も腕もがくがくと震え、力尽きようとするのを意志の力で押さえつけているようだった。蒼白なその顔のなかで目の光だけが尋常ではない。
「お願い………ウェンデルまで私を連れて行って………」
気圧されたようにリースは頷いていた。ウェンデルにはどうせ行かねばならない。
了承の合図に安堵したのか、妖精がこらえかねたように大きく喘いだ。少女の容貌を持つその顔を濃い死の影が縁取っていた。
遠からずこの小さな生き物は死ぬだろう。
リースはいつの間にか斜面の向こうの喧噪が途絶えていることに気がついた。デュランたちがここにやってくるまで、この妖精は果たして生きていられるのか、それすらもわからなかった。
リースが見守るなか、力尽きたようにがくりとその首がたれた。やがてその小さな手がきつく拳を作る。
それからゆっくりと頭を持ちあげ、妖精はリースを見た。
「リース………」
その声の響きには抗うことのできない何かが宿っていた。
双眸に満ちた狂おしいばかりの意志に魅入られ、目が離すことができなかった。そのまま吸いこまれてしまいそうだった。
金の翅脈の通った羽根が震えだし、光の粉を撒き散らす。
徐々にその輝きが増していくなか、妖精は微かにその唇を動かした。ゆ、る、し、て―――。
リースの手のひらで、光が溢れた。
「リース、だめよ―――!」
アンジェラは悲鳴をあげて駆けだそうとした。自分が斜面の上に立っていることなど頭のなかから吹き飛んでいた。
無造作に踏み出した彼女を、慌ててデュランがその腕をつかんで引き戻す。それをふり払い、なおもリースの元へ行こうとしたが、彼はそれを許さなかった。
「お前まで落ちる気か、バカッ」
「離して。リースが!」
「落ち着け! こっちから行くんだよ!」
舌打ちして、デュランはアンジェラの腕をつかんだまま、切り立った斜面に添うようにして走りだした。引きずられるようにしてアンジェラも走りだす。背後でケヴィンがひとり身軽に斜面を滑り降りるのが見えた。
すでにラビたちは方々に逃げ散り、森は静けさを取り戻しつつある。
にもかかわらず、息が詰まりそうな焦燥にかられて三人は走りだしていた。
草を蹴り、降り立ったケヴィンの目前で、光が皓く―――溢れた。
手にしているのが、妖精なのか光なのか、もはやわからなかった。
皓くまばゆい光のなか、それでも目を閉じることができない。
溢れた光のなかで妖精がその色を無くし、輪郭を透き通らせていく。
泡が弾けるようにその形を失う瞬間、色のない哀しげな双眸が彼女を見つめた。
その目に呑まれ、呪縛され、そこから流れこむ意志がリースという器を満たす。
伝わるその意志が飽和しかけたとき、符合のように二つの何かが合わさる気配がした。
耳元で虫の羽音のように幾つもの音が重なり、反響し、やがて小さな囁き声が頭のなかで口々に言い交わす。
(もう残ったのは、わたしたちだけになってしまった………)
(もう、だめ。人間界でわたしたちを助ける者を見いださなければ)
(このままでは………)
(このままでは、マナの樹が枯れてしまわれる………!)
「…………!」
リースは悲鳴をあげた。
あげた、と自分自身では思っていたが、実際は吐息のような声が唇からもれただけだった。
ほのかな熱が胸のうちに宿る。
直感でリースはそれが何なのかわかった。
わかって、しまった。
(………語られるべきは、蒼穹の瞳、金の髪)
(哀しき運命のその果てにマナの剣を抜く、少女―――)