第四章 運命の渦〈胎動〉 〔3〕

 弾け散ったように、光は消えた。
 よろめいて倒れこもうとしたリースを意外な腕が支えた。跳ね飛んできた飛沫の冷たさに、ひとつまばたきして我に返る。
「ケヴィンさん………?」
「さん、つけない」
「あ、ああ。そうでした………」
 頭をふりながらリースは自分の足で立ちあがった。靄がかったように意識がはっきりしない。たったいま夢から覚めたような違和感があった。
 額に手をあてようとして、リースはふと己の手を見た。
 当然ながらそこには何もない。ヴァナディースは湖岸に置いてある。得物さえ手放して、自分はここで何をしていたのだろう。
 足元から這いあがる湖水の冷たさにぞくりとした。
「リース!」
 名前を呼びながら、アンジェラが走り寄ってきた。自身が濡れるのにもかまわず水を蹴立ててこちらへとやってくる。
 彼女を受け止めてリースは困惑した。なぜこうもアンジェラは泣きそうなのだろう?
「アンジェラ? どうしたんですか」
 アンジェラは首を横にふった。己の胸のうちを焦がした不安を口に出して言い表すことなどできそうになかった。ただどうしようもなく恐ろしくて、縋るようにリースに抱きついた。
 リースは困惑した表情のまま、岸辺に立つデュランのほうを見た。こちらの表情もやはり固い。
「あの変な光はどうした?」
「ひかり………」
 その問いにリースは自分に何が起きたのかを理解した。同時に、自分でも奇妙なほどに頭の芯が冷めていった。
 静かにアンジェラを離し、水からあがるとヴァナディースを拾いあげる。
「光は、妖精でした」
 ゆっくりその手が持ちあがり、自身の胸にあてられた。何の感情もうかがえない乾いた口調でそのまま告げる
「いまは、ここにいます」
 何を言われたのか三人にはわからなかった。
 デュランが困惑も顕わに尋ねた。
「どういうことだ?」


(………彼女の言葉通りの意味よ)


「誰だッ」
 デュランは剣の柄に手をかけ、あたりを見回したが、すぐにその声が音として伝えられたものではないことに気づいて絶句した。
 意識に直接伝えられる、声ならぬ声。
 その『声』にリースが答えた。
「あなたは私に取り憑いたんですね」
 たったいま響いた声ならぬ『声』とは違い、空気を震わせ耳に届くきちんとした「声」にもかかわらず、その乾ききった口調が三人にさらなる不安を与えた。
(………ええ。あのままだと、ウェンデルにたどり着く前に力尽きてしまいそうだったから)
「こういうことをされては迷惑です」
(………ごめんなさい。お願い、わたしをウェンデルまで―――)
「私はさっきそれに頷きました。だからウェンデルまではあなたを連れていきましょう」
 直接意識に伝えられる思念を遮ると、リースはきっぱりと言った。
「ですが、そこまでです。こんな不愉快な状態は我慢なりません」
(………ごめんなさい)
 消え入りるようにそう囁くと、それきり思念は沈黙してしまった。
 あまりのことにデュランたちは言葉もない。
「………何があったんだ」
 ようやく、呻くようにデュランが言葉を押し出した。
 リースが言葉少なくいきさつを説明すると、彼は大きく溜め息をついて頭を掻いた。
「すまねぇ。オレがきちんと迂回路を取っていればよかったんだ」
 リースはかぶりをふった。
「いいえ、どのみち妖精を見つけた時点で、彼女は私たちの誰かに取り憑いていたでしょう。迂回していたとしても同じことです。ウェンデルに向かわなきゃいけないのは、私たちも同じですし………」
 かける言葉が見つからず、アンジェラは泣きそうな顔でうつむいた。先ほどの嫌な予感の正体はこれだったのだ。光を追いかけることなどしなければよかった。深く後悔したが後の祭りだった。
「村に戻りましょう。ここにいても無意味です」
「リース―――」
 ケヴィンが口を開きかけたときだった。
 地を揺るがすような音とともに突如、空が赤く染まった。森の向こうの空が夕日の照り返しを受けたように赤く染まり、そこに黒い筋がまだらに入りこむ。
「 !? 」
 四人がほぼ同時に息を呑んだ。
「何が起きた?」
 禍々しい赤い光は森の向こう、北東の湖岸だった。ちょうどアストリアの村がある辺り―――。
 妖精の思念が啜り泣くように囁いた。
(死の匂いがする………命が消えていく。ああ、マナが………)
「獣人兵よ! アストリアに来たんだわ!」
 アンジェラが叫んだ。
 弾かれたように四人は来た道を走りだした。



 道を駆け戻るにつれて、嫌な予感はどんどんと膨れあがった。
 ジャドと滝の洞窟へ向かう分岐点を大勢の者が行き来した跡があった。行き先を示していた立て札が引き抜かれ、二つに折られて放り投げられている。ひどく焦げ臭い匂いがした。
 たどり着いたアストリアでリースたちは息を呑んだ。
 すでにそこは破壊の行われた後だった。
 家々は焼かれ、村人は殺されていた。森に逃げる余裕もなかったに違いない。殺した後で火がつけられ、リースたちが見たのはその炎の光だったのだ。
「なんてことしやがる………」
 デュランが呻いたがそれだけだった。言葉も出てこない。立ちこめる焼けた匂いと血の匂いに気分が悪くなる。
 リースは呆然と立ちつくした。
 凄惨な光景に重なり浮かびあがるものがある。累々と横たわる先ほどまで生きていた者たちのむくろ。血の匂いを含んだ風が吹く。自分がどこにいるのかわからなくなる。
 熱に浮かされたように震えだした体を止めることができなかった。
「嫌です、お父さま………」
 火に煽られた風が、渦を巻いてリースの頬を舐めた。怒り狂った風だった。同時にひどく哀しい風だった。胸のうちで妖精が啜り泣いている―――。
 地面を叩く鈍い音が、リースを我に返らせた。
 ケヴィンが唸り声をあげながら、両の拳を大地にふりおろしていた。何度も何度もふりおろし、力尽きるとその場にうずくまり肩をふるわせる。
「何で………! 何で、こんなことを許す………! オイラの国じゃない。もう、オイラの国なんかじゃない………!」
 アンジェラはおのれの口が引きつったように開かないことに気づいた。顎が硬直し、強張っている。
 呼吸しようとして喉がひくりと痙攣した。鼻孔に飛びこんできたのは、鼻を突くような焦げた匂いと、焼ける何かの―――。
 身をよじって、アンジェラは胃のなかのものを戻していた。
 慌てて駆け寄ってきたリースが、その背をさする。
 泣きながらアンジェラはリースの手を握った。きつく、爪が食いこむほどに握った。
「何でよ………!」
 胸が悪い。あまりにも苦しく、不快で、怒りと悔しさで目の前が真っ赤になりそうだった。
(ひかりのなかにね、羽根をはやした妖精さんがいたの―――)
 あの一言で、自分たちは難を逃れたのだ。
 あの子はどうなったのだろう。自分たちと同じように妖精を追って森のなかに迷いこんでいればいい。心の底からそう願った。たとえそれがどれほど低い確率であろうとも。
「弔いを………」
 リースの提案に、残りの三人は黙ってうなずいた。
 出来る限りの村人を弔ったときには、すでに夜は明け、日は高く昇っていた。遺体の中には獣に喰い殺されたものもあった。今度こそ、獣人兵団は獣と化す兵士たちを止めなかったに違いない。
 弔いをすませると、焼け落ちた宿からリースたちは燃え残っていた自分たちの荷物を拾い、アストリアを後にした。
 滝の洞窟の手前に流れる清流のもとで、小さな花が風に揺れている。
 高く昇った日の下で、昨日と変わることなく小鳥がさえずり、せせらぎの音が響いてくるのがどうしようもなく虚しい。
「………どうする。これから」
 低い声でデュランが呟いた。
「ジャドには戻れねぇ、アストリアはああなっちまった。ウェンデルに行きたくても、結界が張ってあって目の前の洞窟は通れねぇ」
 アンジェラが疲れたようにかぶりをふった。何も考えたくなかった。
(………結界?)
 不意にささやかれた思念に、一同は揃って渋面を作った。
(結界が、張られているの?)
 重ねて問われ、リースが固い声音でそれに答える。
「そうです。ウェンデルに侵攻しようとしている獣人兵団を食い止めるため、光の司祭さまが滝の洞窟に結界を張って、立ち入りを禁止されました」
(結界を解かないと、ウェンデルに行けないのね?)
 その問いに肯定を返すと、不意に胸のうちに熱が生じた。熱は徐々に胸の内側にこごるとそのまま外へと抜けだし、妖精の姿をとる。
 ケヴィンの目がまん丸に見開かれ、デュランがわずかに後じさった。アンジェラが無言のまま指で魔除けの印を切る。
 陽光のもとで見た妖精は、昨夜よりも幾分か生気を取り戻していた。
 月光のなかで金に見えた髪は万色をまとう淡い虹色。その髪に蒼穹の色の小花を飾り、両手足に金の環をはめている。瞳もやはり淡い虹色を帯びた薄水色だった。背中から生えた透明な翅が日の光を透かして輝いている。姿そのものは人間の少女だった。恐ろしく小さく、背に翅が生えていることを除けば。
 日の光に翅をきらめかす妖精は一同をぐるりと見渡した。
「あらためてお礼を言うわ。助けてくれて、ありがとう。あなたたちがあそこに来てくれなかったら、そのまま消えていたわ」
「取り憑かれると知ってたら、追いかけたりなんかしなかったわよ」
 アンジェラのにべもない言に、妖精が顔を曇らせる。
「それに関しては、本当にごめんなさい………説明している暇がなかったの」
 リースの視線から逃れるように、妖精は洞窟の入口に顔を向けた。
「わたしが結界を解くわね」
「あなたが………?」
「わたしはウェンデルにどうしても行かなくちゃいけないの」
「………お前は、何だ?」
 慎重にデュランがそう尋ねた。
 卵ほどの大きさしかない顔が真っ直ぐにデュランを見つめた。透明な水を思わせる双眸に宿る意志が、デュランをたじろがせる。
「わたしはマナの聖域で母なる大樹に仕えるもの。貴方たちは、わたしたちを様々な名で呼んでるわ。良き隣人フェイ仕えの乙女ニンフェット、女神の果実、草人………」
「―――妖精?」
「そう呼ばれてもいるわね」
「本当に妖精なんだな?」
「偽りを告げてどうするの?」
 心底不思議そうに妖精は細い首を傾けた。
「あなたが本当にマナの女神に仕える妖精だっていうんなら、なんでその妖精がアストリアなんかふらふら飛んでんのよ?」
「ウェンデルに行く途中だったからよ」
 ますます不思議そうに妖精はそう答える。どうして当たり前のことを訊かれねばならないのだろうという表情だった。
「じゃあ、そのウェンデルに何しに行くわけ?」
「光の司祭さまに用があるの。………結界を解いてもいいかしら?」
 話は終わりとばかりに妖精は洞窟の入口まで飛んでいくと、自らを淡く発光させはじめた。何らかの力を行使しているのだということがリースたちにもわかった。
「………本当に妖精みたいだな」
「訊けば? マナストーンのこと」
 冷めた口調でアンジェラが促したが、デュランは首をふった。
「何か答えそうにねぇから、いい」
 意思疎通はできているのだが、会話が噛みあっている気がしない。ケヴィンはただひたすら驚いているだけだったし、リースは唇をひきむすんだまま一言も言葉を発していなかった。
 やがて、ひときわ強く妖精が発光したかと思うと、澄んだ破砕音があたりに響いた。
「これで通れるわ………」
 途中で何度か落ちそうになりながら、何とか戻ってきた妖精は出てきたときとはうって変わった蒼白な顔でそう告げると、止める間もなくリースの胸元に溶け入った。
 リースが憮然とした様子で首を横にふった。
 洞窟の岩壁におっかなびっくりケヴィンがその手を伸ばす。手は弾かれることなく、ごく普通に岩壁に触れた。
 アンジェラが大きな溜め息をついた。
「何にせよ、妖精のおかげであたしたちはウェンデルに行けるってわけね」
「さっさと行っちまおう。でないといつまでもリースに妖精が取り憑いたままだ」
 デュランに促され、一行は洞窟に足を踏み入れた。