第三章 城塞都市の夜〈脱出〉 〔2〕

 リースは唖然として目の前の少年を眺めたあとで、軽く頭をふった。
 鈍い痛みが奔った。
 まだ自分の思考が混乱をきたしているのがわかる。当然だ。色々なことがありすぎた。飽和状態だ。
 しかしとりあえず、今は自分のことは脳裏から追い出さねばならない。
 街を抜け出すことを第一に考えなければ。
 リースはアンジェラとデュランに目で問いかけた。
 小声でデュランが答えを返してくる。
「嘘か本当かわからないが、嘘をついてどうなるってわけでもないぞ」
 たしかにその通りだ。一緒に連れて行けと言っているのだから、嘘をついたら自分の生命も危ない。
「嘘じゃない」
 唐突に少年―――ケヴィンが言い、リースたちはどきりとする。やはり尋常でなく耳がいいらしい。
「嘘じゃない、本当のこと。それ、教える。オイラ、ヒト苦手………話すのも苦手だから………。できれば、一緒に連れてってほしい」
 言葉を操ることに馴れてない、とつとつとした喋り方だった。
 デュランが困ったように頭をかいた。
「………いきなり来て、いきなりそんなこと言われてもな………」
「でも、たしかにここから出なきゃ話にならないわ」
「まあ、な」
 アンジェラにそうたたみかけられて、デュランもうなずいた。
「わかったよ。とりあえず話してみてくれよ。オレたちが無理そうだと判断したら断るぞ。それでもいいか?」
 ケヴィンの表情が、ぱっと輝いた。いきおいこんでさっそく話し出そうとするのを、慌ててリースとデュランが押しとどめる。
 万が一、聞かれてはまずい。
 獣人兵が皆、彼のように耳が良いとしたら、これからする話はどんなに声を潜めても充分すぎるということはない。
 ケヴィンを部屋に入るよう促して、アンジェラが外を確認して扉を閉める。デュランがそこにもたれて座り、リースが槍で空けた穴を塞いだ。こうすれば、扉の外に誰かが来ればすぐにわかる。
 リースは窓帷カーテンを閉めて、窓際に立った。
「では。どうぞ、教えてください」
 琥珀色の瞳がリースたちを順に見つめ、ひとつうなずいた。
「獣人……ヒトと違う。獣人、月の力に強く影響されるから、夜になると、獣体化する。獣体化したら、血が騒ぐ。たいがいのことじゃ、理性戻らない」
「獣体化……?」
 聞き慣れない言葉に、デュランが眉をひそめて聞き返した。
「えと……獣人、二つ、ある。獣体化するやつと、獣人化するやつ。獣人化するやつは獣体化もできる、でも、数少ない。ここに来てるの、ほとんど獣体化」
「待て、待て」
 慌てて、デュランがケヴィンの言葉を遮った。
「その獣体化と獣人化の違いから説明しろ。さっぱりわかんねぇぞ」
「ごめん」
 叱られたと思ったのか、ケヴィンは至って素直にしょげた顔で謝った。
「獣人化は、人型の獣になる。獣体化は、本物の獣になる。獣体になると、獣の本能に強く支配されるから、ジッとしてられない。襲ってくるかもしれないけど………見張りとか、報告も、しなくなる」
 だから、その時を見計らって行けばいい―――とケヴィンは言った。
 リースは通りを我が物顔にのし歩く獣人兵を窓帷の隙間からそっと見おろした。
 浅黒い肌に鎧の上からでさえその頑健さが見て取れる体つき。
 人の形をしているいまでさえ、荒々しく獰猛な目つきで辺りを睨めつけている彼らが夜になれば正真正銘の獣と化すというのか。
「夜になれば、アイツらが見張りとかをしなくなるっつーのか?」
 ケヴィンは黙って頷いた。
「悪くないんじゃない?」
 アンジェラがふり返って賛同を求めた。二人はそれに答えて、うなずく。
 少なくとも、打つ手なしのさっきの状況よりはずっといい。特定の情報を知っているのと知っていないのとでは雲泥の差がある。
 デュランが確認をとるようにケヴィンに問いかけた。
「でも、お前はどうしてそんなことを知ってるんだ?」
「………言っても、ウェンデル連れてってくれるか?」
 迷いのある表情でケヴィンが三人の様子をうかがう。
 デュランが顔をしかめた。
「あのなあ、それはお前が話す事情によるだろうが。もしお前が獣人たちの手下でウェンデル攻略のために先に一人で忍び込む、なんて事情だったらオレたちが連れていくわけがな―――」
「オイラ、手下違うッ !! 」
 尋常でない激しさでケヴィンが叫んだ。
 火が噴いたように唐突に激昂したケヴィンに三人は驚き、絶句したデュランが慌てて手をふった。
「も、物の例えだよ。悪かった。もう言わねえ」
 そう謝られた途端にケヴィンはしゅんとする。もし獣の耳が彼にあったなら、ぺたりと寝たに違いなかった。
「ゴ、ゴメン。でも、オイラ、ほんと違うから―――」
 杖を抱えこんだまま寝台に座っていたアンジェラが、不意にクスッと笑った。
「うん。わかった。きみ、嘘つくのすっごいヘタそうだもの。信用するわ」
「ありがと………」
 アンジェラとリースは顔を見合わせると、失礼だとは思いつつも少し吹き出した。
 それを横目で見たデュランが憮然とした表情をした。笑っている場合じゃないだろう―――と言いたいに違いない。
「それで―――? お前はどうして獣人たちのことに詳しいんだ?」
「………オイラ、獣人たちに育てられた。半分獣人の血、流れてる。だから」
 リースが軽く目を瞠る。デュランが微かに眉を動かした。
 そして、アンジェラは首を傾げた。
「………あれ? ってことは、きみも夜になったら変身するんじゃないの?」
 彼女の疑問に慌ててケヴィンが首を横にふる。連れていく相手の理性がないと勘違いされてはたまらないのだろう、必死の表情で告げた。
「オイラ、そんなに血濃くない。オイラの場合、夜になると自分の意志で、獣人化できる。獣体化はできない。もちろん、ちゃんと理性残ってる………はず」
「はずぅ?」
 アンジェラが顔をしかめた。
 うなだれたままケヴィンは小さな声で言った。
「初めて変身したときだけ、オイラのカラダ、オイラの言うこときかなかった。そのとき以外、平気。ちゃんとわかる………やっぱり、怖いか?」
「本音を言っちゃえばすごーく不安」
 容赦なくアンジェラがそう言って、かくんと首を傾げた。
「でもねぇ………きみが悪くないってのはわかるのよねぇ。あと、努力してるのも」
「………いいのか?」
 デュランが慎重に問いただした。
「仮にも半分でも同族だろう。これは裏切り行為だぞ。同族を裏切ってもいいのか?」
「ちょっと!」
 制止の声をあげかけたアンジェラが、ケヴィンのやり場のない怒りを潜ませた目に気づいて口を噤む。
 濃く色を沈ませた琥珀の瞳がデュランに真っ直ぐ向けられた。
 語る言葉はひどく重い。
「………獣人の血、野生の血。オイラ、そのせいでたったひとりの友だち、死なせた。獣人王、赦せない」
 だから別にいい―――。
 そう淡々と言うケヴィンに、リースはわずかに胸が痛む。自分に流れる血をここまで嫌悪するのは、理由があるとはいえ悲しいことに変わりはない。
「………ウェンデル、連れてってくれるか?」
 ケヴィンが三人にあらためてそう問うた。それを受けてリースとアンジェラが、デュランに無言で決定権をゆだねる。
 暗黙のうちに裁量を任された彼は、がしがしと髪をかいてから唸るようにして言った。
「………いいんじゃねえか?」
「じゃあ―――」
 ぱあっとケヴィンが顔を輝かせた。
 デュランは扉から体を離して立ちあがる。
「お前の案を受けて、オレたちはここを出ることにする。とりあえず、ウェンデルまではオレたちは一緒だな。よろしく頼む」
 その結論に、残りの三人はそれぞれの表情でうなずいた。



「ってさあケヴィン君! これちょっとどころじゃなく大変なんだけどッ」
 襲いかかってくる爪と牙を必死でかいくぐりながら、アンジェラが悲鳴をあげた。
 紫色の巻き毛の数本が、逃げ遅れて空に散る。
 そこにデュランが割って入り、ただの一太刀で狼を斬り伏せた。
「バカ、大声だすな。街の人間が飛び出してくるだろうが!」
「巻き添え恐れて誰もきませんよ、きっと」
 襲いかかってくる狼を次々と斬り伏せながら、デュランとリースも少なからず自分たちの読みの甘さを恨んでいた。
 多少は予想していたものの、それを上回る獣の素早さにリースたちは難渋していた。
 本能のままに自分たちが暴れることを獣人たちも危惧していたのか、日没と共に、意志の力で獣体化をねじ伏せられる兵団長以上の獣人たちが、そうでない獣人たちを元領主の館に引きあげさせていた。今頃、館は阿鼻叫喚だろう―――もっとも領主はさっさと逃げ出して留守のようだが。
 しかし何匹か野生を抑えられない者が抜けだし、夜のジャドの街を暴れ回っている。街の者たちは扉を堅く閉ざし、嵐が過ぎるのを―――夜が明けるのを待っていた。
 それはつまり、標的がなく牙と衝動を持て余していた獣たちの前に、リースたちの方がたった四人でわざわざ現れてやったということでもある。
「予想していたよりも数が多いし!」
 ひとり全く実戦経験のないアンジェラが泣き言を言っている。
 飛翔している魔物をこれまで相手にしてきたリースは、動きの違う狼相手に苦戦していた。デュランも似たようなものだ。
 しかし、当然というべきか、彼を見たときに何となくわかっていたことだが、ケヴィンは強かった。長年見てきた相手だけにか難無く爪や牙をかわし、的確に相手を無力化していく。デュランやリースが見た限りでは何らかの修練を積んだ動きだった。
 ―――ようやく、ジャドの門が見えた。
 ケヴィンの手によって、暴れ回っていた獣はたいがい石畳に這いつくばり、リースたちの進路を阻む者はいない。
 だが街中での騒ぎに、獣体化しない獣人がでばってくる可能性がある。
「こっちだ!」
 デュランの誘導に従って、残りの三人はジャドを囲んでいる城壁に開けられた門をくぐった。
 そのまま後ろをふり返ることなく目の前に開けている〈ラビの森〉に足を踏み入れる。
 夜が明けたら、ジャドを占領していた獣人たちはジャドの周囲にある人里も占領しにかかるだろう。そのときに鉢合わせすることがないよう、一刻も早く遠ざかる必要があった。
 一行は休みもせずに森を抜け、ウェンデルへと続く〈滝の洞窟〉へと向かう。
 強行軍だったため、夜が更けてようやく滝の洞窟の前まで辿り着いたときには、リースとアンジェラは肩で呼吸をしていた。元々戦士として訓練を受けてきたリースはともかく、アンジェラのほうはもう疲労困憊で、ろくに喋ることもできない。
 へたりこんだアンジェラが呼吸を整えながら懇願した。
「ねえ………ちょっと休もう………?」
「ったくだらしないな………。いいぜ、洞窟に入ってから休もう」
 デュランの言葉に皆それぞれが立ち上がり、リースがまず最初に洞窟に入ろうとした。
 闇のなか、洞窟の岩壁を確かめるために伸ばした指先が柔い膜のようなものに触れる。
(………?)
 怪訝に思った次の瞬間、リースの思考に強い排除の意志が流れこんだ。
「―――ッ !? 」
「リース !? 」
 とっさのことで受け身を取り損ねた。だいぶ後ろまで弾かれた彼女に慌ててアンジェラが駆け寄る。
 リースは草地に手を突いて体を起こすと、やってくるアンジェラに向かってだいじょうぶだと頷いてみせた。
「何が起きた?」
「………よく、わかりません。何か見えない膜みたいなものが………」
 試しにデュランが小石を投げてみた。
 それも同じようにして弾かれ、脇に流れる清流に小さな水音をたてて落ちる。
「これ、何だ?」
 ケヴィンが不思議そうな顔をして尋ねたが、訊かれても誰にも答えられない。
「まいったな………」
 珍しくデュランが弱り切った声をだした。
「ここを通らなきゃウェンデルにはいけねえぞ」
「ええーっ。じゃ、どうすんのよ?」
 アンジェラが再び地面にへたり込んだ。
 何度か無駄な努力をしてみるが、頑として洞窟は来訪者を跳ね返す。
「くそ、埒があかねェ」
「………あの、皆さん」
 リースの控え目な呼びかけに、毒づいていたデュランがふり返った。
「どうした?」
「すいません。さっきの衝撃で足をくじいてしまったようなんです。今夜はここで野営でもしませんか?」
 口にしている内容はともかく、口調は至って平坦だった。手慣れた様子で左の長靴を脱ぎ、髪をまとめていた色鮮やかな大きな飾布リボンを足首にきつく巻きつけ始める。
「リース、ちょっと待つ」
 そう言ってケヴィンがそばにあった茂みをかき分けると、葉一面に細かい毛の生えた柔らかそうな草を渡す。
「これ、よく揉んで怪我したとこつけるといい」
 リースは目をみはったが、すぐに礼を言って受け取った。ケヴィンが照れくさそうに笑う。リースもふっと笑い返した。
 手渡された草をよく揉んで患部にあて、あらためて上から布を巻き付ける。
「リース、飾布が汚れるわよ」
 忠告めいたことを口にするアンジェラに、リースは首をふった。
「いいんです。これはこちらに向かう際に、船の中で間に合わせに買ったものですから」
「ひどいのか?」
 デュランの問いにもリースは首をふる。
「歩けないほどひどいわけではありません。走りさえしなければ普通に動けます」
「そうか。ならここはいったん戻ろう」
「戻るってジャドに !? 」
「んなわけないだろうが。少し戻ったところに小さな村があるんだよ。どうせ何やったって無理なんだから、野営よりはいったん向こうでリースの足を治したほうがいいんじゃねェか? 一日くらいなら人里に泊まっても獣人たちと鉢合わせはしないさ」
 一刻も早くウェンデルに行きたいらしいケヴィンは不服そうだったが、不承不承納得した。
 アンジェラが腹いせとばかりに拾った石を思いっきり洞窟へと投げつけてから、さっさと背を向ける。跳ね返った石がデュランに当たり、さっそく二人は口ゲンカを始めた。
 リースは立ちあがり、ふりかかる髪をわずらわしげに掻きあげた。
 白金色プラチナの髪が夜の闇に仄白く浮かぶ。
 いちばん大事な、いちばん気に入りの飾布は弟が持って消えたままだ。
 ―――飾布リボンも弟も必ず取り戻す。
 ヴァナディースを軽い支えにして、リースはゆっくりと歩き出した。