第二章 城塞都市の夜〈脱出〉 〔1〕

「フォルセナに、アルテナ兵は来たの?」
 何かをこらえるような表情で、アンジェラがデュランにそう訊ねた。
 その手がふるえるほど強く樫の杖を握りしめている。
 デュランが口を開きかけて、引き結んだ。小さく首をふる。
「いや、まだだ………」
「そ、か………よかった」
 アンジェラは力無く笑って黙りこんだが、それは長く続かなかった。
 場の空気の気まずさに閉口したのかすぐに困ったような笑みを浮かべて、デュランを見た。
「国が大変なのに、どうしてあんたはこんなところにいるのよ?」
「負けたんだよ」
 デュランのその手が剣の柄に無意識のうちに触れている。
「多分、お前のところの、紅蓮の魔導士とかいうやつに………」
「いま、アルテナ兵は来てないって………」
「アルテナ兵は来てない。やつだけ来たんだ。普通に名乗ればいいものを抜け抜けと二つ名だけ名乗って好き放題しやがって………!」
「まさかうちの魔導師に負けて国を追い出されたの?」
 アンジェラが紫の髪をさらりと揺らして首を傾げた。
 思わずデュランが声を荒げる。
「なんで追い出されなくちゃならねぇんだよ !?」
「いや、何となくだけど。あたしだけ追い出されるのは癪じゃないの」
 さっきまでとは別人のように、アンジェラは身も蓋もなかった。
 憮然としながらもデュランが答える。
「オレはあいつに勝ちたいだけだ。オレは自分が強いと思ってたんだ………」
 粉々に打ち砕かれた自尊心。
 奇妙に歪んで聞こえた嘲笑。
 全てが赦せなかった。何より、容易く敗北を喫した自分自身が。
「だから、マナストーンを探すことにしたんだ。フォルセナにマナストーンはねぇからな。だからいまここにいる」
「…………は?」
 いきなり飛んだ会話の内容に、アンジェラとリースが眉をひそめた。
 デュランはかまわず後を続ける。
「マナストーンを使えば、そいつが持っている力を引き出す力があるらしいんだ。剣の素質があれば剣の素質を、魔法の素質があれば魔法の素質をな」
 アンジェラが息を呑んだ。
「オレはそれを使って強くなりたい。正直、修行には限界を感じていたしな」
「ねえ………」
 打って変わって真剣な表情でアンジェラが尋ねた。ほとんど身を乗り出さんばかりの姿勢に、紫の巻き毛が肩から滑り落ちる。
「魔法の素質があれば魔法の素質を………それ、ほんと?」
「ああ。らしいぜ」
 うなずいて、デュランは先程のアンジェラの話を思い出した。


 ―――魔法が使えるようになれば、お母さまも考えを変えてくださるかもしれない………。


 万に一つの望みでも、それを諦めずにいることを。それが心の支えであることを。
「………そうか。そうだな。マナストーンでお前も魔法が使えるかもな」
 魔力はあるのだ。
 その契機さえつかめれば。
「マナストーンって、アルテナの水のやつ以外どこにあるの? リースは知らない?」
 問われてリースは首を横にふった。創生神話とともに伝えられるマナストーンの話は知っているが、ただそれだけだ。あまりにも現実感のない話で、首をふる以外に反応が返せなかった。
「オレも場所までは知らねぇ。ウェンデルの光の司祭が詳しいって言うんで、これからそいつを尋ねに行くとこなんだ。
 ―――お前も確かウェンデルに行くんだろ?」
「ええ」
 うなずきながら、アンジェラは嬉しかった。
 何が待っているかわからないどころではない。こんなにも希望の持てるようなことが、ウェンデルでは待っている。
 あの不思議なつよい目を持った老婆に、感謝の言葉を言いたいくらいだ。
「よかったら連れてってくれない? この辺の地理、全然わかんないのよ」
「ああ、いいぜ」
 気軽にデュランは引き受け、アンジェラはリースを見た。
 知らず声が弾んでいる。
「リースは? リースはどこか行くの? よかったら一緒にウェンデルに行かない?」
「御一緒してもよろしいですか?」
 戸惑ったようにリースは尋ね返した。
 ホークアイのことも気になるが、港が封鎖された以上、ここで待ってもホークアイとは再会できないだろう。それにエリオットのこともある。サルタンに渡航しようにも、獣人兵が撤退するまで港の封鎖は解けない。このままここにいては何の手掛かりも入らない。
 エリオット。
 ずきりとリースの胸が疼いた。よく泣いて、甘えん坊で、素直で無邪気な弟。辛いことも胸の痛みも何も、知らない。そんなふうに、周囲の自分たちが育てた。
 今頃、どうして―――。
 リースは唇を強く噛んだ。
 何とかしなければならない。けれど、自分が果たしてどう動けばいいのかが全くわからない。いきなり迷路の奥に連れてこられて、そこから脱出してみせろと言われたようだった。
 遠慮がちなリースの言葉をどう受け取ったのか、アンジェラが軽く憤慨してみせた。
「あたりまえじゃないの。大歓迎だわ。リース強そうだし」
「おい、オレは何なんだ?」
「あんたは道案内よ」
「てっめえ……」
 デュランが唸り、アンジェラが笑い出す。つられたようにリースも小さく笑った。
「そういえばリースは何で国を出たんだ? こいつみたくに追い出されたわけでもないだろうに」
「あんたねえ………。
 ―――リース? 別にいいわよ。言いたくなかったら」
 急にうつむいたリースに慌ててアンジェラが声をかける。
 リースは首をふった。
「いいえ。アンジェラさんも辛いことを話してくださったのに、私だけ黙っていては失礼です。それにどうせしばらくしたら、皆さんも知ることです。言います。
 ―――ローラントは落ちました」
 視線は握りしめている槍に落とされたままだった
 あまりに突然言われたことに、二人は何の反応も返せなかった。
「南の砂漠の勢力であるナバール盗賊団によって城は落とされ、国王も討ち取られました。つい先日のことです………」
 淡々と告げられたその内容の壮絶さに、アンジェラとデュランは絶句したまま、声もなくリースの顔を見つめている。
 強い波濤のような感情を、必死に抑えこみながらリースは続けた。
 辛い。
 あまりに理不尽すぎて、気が狂いそうだ。
 しかし、言わなくてはいけない。
 言って、言葉にしなければ、何より自分が納得できない。
「弟もさらわれ、おそらく私一人しか逃げおおせたものはいません………」
 抑えこみ過ぎた声は、淡々とした乾いた響きしか持っていなかった。
「………あの、難攻不落の城が………」
「やっぱりあんたが国を出た理由がいちばん単純だと思うわ………」
 アンジェラがデュランを皮肉ったが反論は返ってこない。
「私は弟を助け出さねばなりません」
 リースは顔をあげた。
 下手な慰めなど口に出せないほどに張りつめた、勁い表情だった。
「けれど、どうしたらいいのか私自身が何もわからない………」
 ヴァナディースだけを抱きしめて、リースは立っている。
「光の司祭さまは何かいいお知恵を持ってらっしゃるでしょうか」
「だいじょうぶよ、きっと何かいい方法を見つけてくれるわよ。物知りなんでしょ? その司祭さんとやら」
 優しい口調でアンジェラが言い、デュランがそれにうなずいた。
 二人が自分を元気づけてくれたのがわかるから、リースは笑ってみせた。
 こういうときには、笑ってみせないといけない。
「ありがとうございます。なら、このジャドの港の封鎖が解けるまでは、お二人とご一緒したいと思います。よろしくお願いします。アンジェラさん、デュランさん」
 デュランがわずかに顔をしかめた。困ったようにアンジェラが髪をがしがしかく。
「………あのさあ、そのさん付けやめてくれない? 当分一緒に旅するわけだし。こいつなんかいつのまにかさっそく人を呼び捨てよ」
 と、向かいの席のデュランを杖で指す。
「おまえも立派なことに呼び捨てだよな。でもまあ、さん付けはたしかにやめてくれよ。何だか変な気分だ」
 リースは困惑したように二人を見た。
 出逢ったばかりの人たちを呼び捨てにするのはひどく失礼な気がした。
 しかし、二人ともそれを望んでいる。
「じゃあ、アンジェラ……と、デュランさ……じゃない。……デュラン、でいいんですか?」
「いいもなにも、そうして」
 アンジェラが笑いながらそう言った。
「よかった。嬉しい。ウェンデルに行くの、独りじゃないのね」
 透けるようなまぶしい笑顔だった。
 その笑みに、なぜか泣きそうなほどリースは胸を突かれる。

 独りじゃない。

 我知らずリースは目を閉じていた。
(私は………私も、独りじゃ、ない?)
 こつん、と壁を叩く音にリースは目を開ける。
 壁を軽く叩いていたのはデュランだった。無造作にのばしたその髪の、艶のない赤銅色が目に付いた。
「しかし、どうやってジャドから出る? ここから出なきゃウェンデルに行こうにも行けないぜ」
「押し通れない? 夜にこっそり抜け出すとか」
「あのなあ」
 デュランが呆れたようにアンジェラを見た。
「ジャドの別名を忘れたのか? それとも知らないのか?」
「知らない」
「城塞都市だ。どうやってこの壁を越える?」
 街を取り囲むように巡らされた灰色の石の壁。空いている門はひとつきり。
 そこはもちろん獣人兵に押さえられている。
「私たちだけで押し通るには、敵の数が多すぎます」
 リースが残念そうに、そう言った。
 それを受けてデュランが再び口を開こうとしたときだった。
 リースが唇に指を当てる。デュランも何かを言いかけようとしていたのをやめて、扉の方を見た。
 やがて、その扉から叩音ノックの音がする。
「どなたです?」
「………えっと、さっき、下に一緒、いた」
 聞こえてきた声に三人は顔を見合わせた。
 確かに、この三人と酒場の主以外に、もう一人少年の客がいたはずだった。
 獣人兵がそちらを見て、微妙にその態度を変えた少年が。
「どうぞ」
 アンジェラがそう言って扉を開けた。
 予想通り、階下で一緒だった少年がそこには立っている。
 あっちこっちにはねている蜜色の髪に琥珀の目。浅黒い肌に小柄でがっちりした体格の少年だったが、その琥珀色の目はひどく幼い。
「何か用か?」
 デュランの声に少年は戸惑ったようにうなずいた。
「オイラ、ケヴィン」
「私たちに何の用ですか?」
 リースが問いかける。
 少年は相変わらずその態度に落ち着きがない。何かに怯えているかのようだ。
「ごめん。階段の下から、話、聞いてた」
「階段の下 !?」
 三人が異口同音に声をあげた。
 決して大きな声で会話していたわけではない。どうやったら扉を隔てて、さらに階段を降りたところからここの話を聞くことができるのだ。
 扉の外と、その近くの廊下に人の気配はなかった。それは間違いないのだ。
「ごめん」
 少年はすまなさそうに体を縮こまらせた。
「それで、オイラ、ジャドから抜け出す方法、知ってる」
「 !? 」
 愕然とした表情で、デュランがアンジェラとリースを見た。
 どうやら本当に階段の下から聞いていたらしい。
「それ、お前らに教えてもいい」
「どうしてオレたちに教えてくれるんだ?」
「オイラも、ここから出たい。ただ、教える代わりに―――」
「代わりに?」
 アンジェラが首を傾げた。
「オイラも、一緒に、ウェンデル連れてってほしい」
 三人は思わず顔を見合わせた。