断章 〜アンジェラ〜 〔2〕

 ついぞ体験したことのない、身を切るような冷気にアンジェラの意識は覚醒した。
 身を起こそうとして、それすらも億劫に感じるほど強張った体に気づかされる。
 顔を上げ、アンジェラは息を呑んだ。
 一面の銀。
 身を横たえていた大地も、木とおぼしき塊も、視界に映るもの全てが、ひとつひとつ光を弾き、まばゆい白さを生み出すものにおおわれていた。
 これが、雪なのだろう。城から外に出たことのないアンジェラにはこの寒さも、この風景も初めて経験するものだった。
 こわばって感覚のない体を無理矢理立ち上がらせて、アンジェラは呆然と呟く。
「………どうして、こんなところに………」
 言葉を口にした瞬間、記憶が甦った。痛みを伴うその記憶にアンジェラの顔が歪む。
 だが、思い出しても雪原にいることの説明はつかない。
 最後の記憶は、白い光。
 まさか。
 思いついた事実に、アンジェラは自分の両肩を抱いた。
「転移………? 魔力が………暴走したの………?」
 万に一つの可能性。
 安穏とした城での生活では欠片すら見せなかったそれは。
「あたしにも………魔力は………あった………」
 呟いてから、その事実に身を震わせる。
 城でその力が顕れていたなら。
 魔法が、使えていたのなら………!
 母のあの目も少しは変わっていたかもしれないのに!
 ふり仰いだ先、木の間から遠くアルテナの城壁が見えた。
 あの壁の中に一歩踏みこめば、雪などは欠片も無くて。こんなにも厳しい空気ではなくて。
 改めて母の力の偉大さを思い知る。
 自分は王女だ。
 だけど、もうあそこには、きっと戻れない。
「………お母さま………どうして?」
 魔法で常春の暖かさを保つアルテナの中心部にいたアンジェラが、防寒のための衣服などまとっているはずがなかった。たちまち唇が紫になり、剥き出しの肩に雪が積もる。
 痛い。あまりに寒いと痛みすら覚えるのだと初めて知った。
「さ……む……」
 このままここにいてもどうにもならない。
 よろめくようにアンジェラは歩き始めたが、すぐにどれだけ歩いたのかもわからくなり、そのまま膝をつく。雪の上に残る自分の足跡に、微かに笑った。
 綺麗だった。
 そしてとても残酷だった。
 まるであの母親のようだった。
 歯の根すらあわず、感覚が全て遠のいていく。寒さを感じないのはいいかもしれない。
 柔らかな、美しい雪のなかにアンジェラは倒れこんだ。
 そしてそのまま、何もわからなくなる。



 身を包む柔らかな毛布と、炎のはぜる暖かい音にアンジェラは目を覚ました。
 一瞬、城の寝台で朝を迎えたのかと錯覚しかけるが、常春のアルテナで寝室に暖炉があるはずはなく、思い出したのは深緑の瞳と辺り一面の雪だった。
「あのまま、死んでもよかったな………」
 死を拒んで城から転移した時とは裏腹、気弱にアンジェラは呟いた。
 視界に飛びこむ古ぼけた飴色のはりは見覚えのないもので、暖炉のなかで炎が燃えさかり部屋を暖めているとはいえ、アルテナと比べて格段に寒い。
「ここ………どこ?」
「あら、目が覚めたのね」
 明るいその声の主を捜すと、金髪を束ねた女性がにこにこと部屋に入ってくるところだった。
 アンジェラがここがどこかを問うと、エルランドとの答えが返ってくる。
「………エルランド?」
 確か、城の料理番が雪原に魔物が増えて港のあるエルランドからの物資がなかなか届かないと、こぼしていたような気がする。
 そのエルランドか。
 呆然と毛布をにぎりしめているアンジェラの顔を、その女性が覗きこんだ。
「あなたね、雪原に倒れていたのをうちの人が見つけて運んできたのよ。よかったわね、凍傷にならずにすんで。もう心配ないわよ」
 凍傷が何なのかさっぱりわからなかったが、アンジェラは曖昧に頷いた。
「あなたの服は洗って乾かしてあるから、あとで持ってくるわね。でも、どうしてあんな服で雪原なんかにいたの? うちの人が見つけるの遅かったら凍死していたわ」
「え……、その……」
 慌ててアンジェラは話を作った。アルテナで魔法の訓練をしていた際に魔力が暴走して一人雪原へと弾き飛ばされてしまったと。
 それでその女性は納得したようだった。そうねアルテナは暖かいものねと頷く。アンジェラが着ていたのが魔法の訓練衣だったことも話の本当らしさに一役買った。
 いったん部屋を辞した女性は、しばらくすると湯気のたつ湯呑みを手に戻ってきた。
 アンジェラがそれを受け取ると、甘い匂いがした。暖めた牛乳だった。
「アルテナから来たのなら、ここは寒いでしょう? 一昨年ぐらいまではここも暖かかったんだけど……。理の女王さまは、いったいどうされたのかしら………」
 最後のあたりの独り言めいた言葉にどきりとする。
 マナの減少。聖域の扉を開く―――マナストーンの解放―――そのために、自分の命を―――。
「…………っ」
 心がこれ以上の思考を禁じ、黙ってアンジェラは牛乳を飲んだ。陶器から伝わる熱が、指を灼いた。
 女性は暖炉の火を掻きたてたり、部屋を整えたりしながらも、暗い顔をしているアンジェラの気分を引き立てようと、何かと話しかけてきた。
 何度か嘘をつき、ある程度は正直に答え、やがて牛乳を飲み終わろうかという時だった。軽い足音が扉の向こうから聞こえ、すぐに勢いよく木造りの扉が開かれる。
「ねえ、おねえちゃんおきたのっ?」
 くるくるした金髪が愛らしい幼い少女が、扉からアンジェラのいる寝台まで一散に駆けてきた。
「おはよう、おねえちゃん! チチはおねえちゃんとあそぶっ」
 アンジェラが面食らっていると、先程の女性が苦笑しながら幼女を抱きあげる。
「チチ、ダメよ。お姉ちゃんは疲れているんだから。代わりにお母さんが遊んであげますよ」
 遊び相手がほしかったのだろう。チチと呼ばれた幼女は顔をくしゃくしゃにして笑う。
 当たり前のように差し伸べられる手。ぬくもり。
 求めても、自分には決して与えられなかったもの。
 母の瞳を思い出して、改めてアンジェラは泣きたくなった。
 ―――それから三日後。
 アンジェラは親子にお礼を言って外に出ると、初めてエルランドを歩いていた。
 アルテナに戻ると思いこんでいるあの女の人は、この服だけじゃまた倒れてしまうと、あれこれアンジェラに服を見繕ってくれた。その優しさが泣きたいほど胸を締めつけた。
 初めて歩く外の世界は雪に埋もれ、綺麗に晴れあがった空の下、降り注ぐ光のなかでキラキラと輝いている。
 刺すような冷気のなか、それが美しかった。
 何の優しさも妥協も赦さない美しさだった。
 特にどうするあてもなく、ふらりと入った酒場と宿屋を兼ねている店で、アンジェラは今度はまた別の意味で泣きたくなった。
 煤けた壁にはってある真新しい白い羊皮紙にはこう書かれてあった。


【アンジェラ王女を反逆罪で指名手配中。見つけ、捕らえた者に一万ルク】


 大きな文字で書かれたその下には、詳細がつらつらと書かれている。
 手配書に似絵が入っていないことが唯一の救いと言えば救いだったが、何の慰めにもならない。きっとそのうち、きちんと発布される手配書には似絵も入るだろう。
 どうしよう。
 きっと色々な人たちから追われる。城から直接自分を捜すために遣わされた者たちからも。
 逃げ切れない。自分は逃げることにも追われることにも慣れていない。
 でも、あんなふうに死ぬのは嫌だ。
 あの転移以来、アンジェラの魔法は使おうと思っても顕れない。だが、自分に魔力があることだけは疑いようがなかった。
「魔法………。魔法が使えれば………」
 使えるようになれば。
 そうしたらあの人は自分を認めてはくれないだろうか。
 色々な思考がぐるぐると渦巻いた。
「そこのあんた、しけた顔をしておるねぇ」
 横合いから突然かかった声にそちらを見ると、声も顔も皺枯れた小柄な老婆がくつくつと笑いながらアンジェラを眺めていた。
 酒場の隅に場をもらい、そこで占いや失せ物探しなどをして生計を立てている占い師だ。
 ちんまりとした卓には薄汚れた布がかけられており、何もかもが酒場という場所柄に相応したみすぼらしさだったが、置かれた水晶玉と頭巾フードから覗くその目だけが何かに憑かれたように光っていた。
 抜け目のなさそうなその視線に、思わずアンジェラが一歩後ずさると、老婆はおやおやと笑った。
「おや、綺麗なお嬢さんはこのばばですら怖いと見える」
「…………」
 生来の反抗心が顔を出して、カチンときたアンジェラは勢いよく卓の正面に置かれた丸椅子に座った。
 小柄な体を揺らしてさらに笑うと、老婆は水晶玉に手を添えた。
「年頃の娘がそんなしけた顔をするものでないよ。どれ、この婆がひとつ恋占いでもしてやろうかね」
「いらないわ。そんな占い」
「おやおや。ますます珍しい娘だね。では何を占ってほしいかね」
 何も占ってほしいことなどなかった。
 アンジェラを取り巻く環境の何もかもが厳然たる事実で、占いの入りこむ余地もない。
「………じゃ、あたしがこのお店から出た後どうしたらいいか占ってよ」
「ほ。妙なことを言う。お前さんは自分のすぐあとの処遇も自分で決められんのかね」
「決まんないのよ………」
 アンジェラはぽつんとそう応えた。
 目の前の老婆ではなく、自分のすぐ背後の壁にはってある手配書のことで頭の中はいっぱいだった。
 どうすればいい。何ができる。
 王宮から一歩も外に出たことのない王女じぶんに。
 死の運命を待つこと以外に。
 老婆はわずかに頭巾フードを持ち上げてアンジェラを眺めると、すぐにまた表情を隠した。
「それは困ったこと。大いなる流れは自分の指一つでどうなるものか決められるわけではない。じゃが、日々の処遇はそこへと繋がり、いつしかその流れすらも変えることがある代物じゃ。自分で決めねば後悔するだけじゃ」
「だから、決まらないんだってば………!」
 もはや泣きそうになってアンジェラは目の前の老婆を睨みつけた。
 こんな場末の酒場の占い師につかまって泣きそうになっている自分に腹が立ってきた。
 椅子を蹴って立ち上がろうとしたアンジェラは、老婆の視線に射すくめられて体を硬直させる。
「短気を起こすでないよ。ああ、ほんに困ったお嬢ちゃんだ」
 水晶玉に紫の袱紗ふくさをかけると、老婆は卓に肘をついた。
「大いなる流れを人は運命と勝手に呼ぶがね。たいていそれは十のうち九までは勝手に決まっておるものさ。ちょうどいまのお前さんのようにね」
 そう言って、アンジェラの背後に視線をやって含み笑いをしてみせる。
 アンジェラはびくりと肩を強張らせた。
 いますぐ席を立って逃げ出そうにも、動けない。
「けれど十のうちの最後の一つだけは、自分の裁量に任されておるのさ。人は綺麗な言葉が好きだからね、この一つをこう呼ぶよ『希望』とね。未来や夢を託すべきありがたーい言葉だよ。それなのにあんたにはこれが決められんときた。まあ、そんな輩はあんただけじゃないから、この婆みたいな者がどうにか食べてゆけるがね」
 袱紗をかぶせた水晶玉をとんとんと指で叩いて、老婆は笑った。
「しかしこの婆程度では手に負えん者も時々はいるのさ。ちょうどいまのあんたみたいにね―――とっととウェンデルにでもお行き」
「………は?」
 突然言われたことにアンジェラが目をしばたたかせた。
「お嬢ちゃんは耳まで遠くなったのかね? ウェンデルだよ、聖都ウェンデル。あそこには光の神殿がある。まあ婆に言わせりゃ金持ち坊主の集団だがね。あんたみたいなお悩みの深い人間にとってはありがたーいところだよ。何せ身一つで行った人間はタダで助けてくれるときた」
 ウェンデル?
 アンジェラにとっては、初めて聞くに等しいほど現実離れした響きの名前だった。
「そこに行って、どうなるの………?」
「呆れた。そこまでお聞きかえ。そんなことまでこの婆が知るわけなかろうに。ただ行き場がないのだろう、お前さん。この国には・・・・・?」
 ハッとしてアンジェラは老婆を注視した。
 頭巾の奥の顔がわずかにうなずきを返した。
 アンジェラの体にふるえがはしった。手を強く強く握りしめて目を閉じる。
「………そこで、何が待っているのか、わからない」
「そうさね」
 何も待っていないかもしれない。
 けれど。このまま、ここにはいられない。手配書はすぐにアルテナ全土に広まるだろう。
 だから。
「だけど、きっと、いまよりはマシなはず……」
「お行き。最後の船が出るよ―――」
 不思議に凛とした老婆の一言が、アンジェラの心に楔を打ちこんだ。
 そう。この街、この国は、流氷に閉ざされる。
 弾かれたようにアンジェラは立ち上がって駆け出した。椅子が床に転がり、呆気にとられた他の客がその姿を見送る。
「おい、婆さん。いったい何を吹きこんだんだ。可哀想に逃げてっちまったじゃねぇか」
「ほっほっほ。さあて、何かねぇ」
 老婆は笑って、皺だらけのひなびた手で、そばにあった体を温めるための酒をつかんだ。
(同じ道を歩むことはないんだよ)
 魔法が使えなくては人とも思われないこの国は、どこかおかしいのだ。
(あんたは彼のようになることはない)
 老婆は酒を一口含むと、静かに瞑目した。



 吹雪に近くなってきた降りを甲板から水夫は眺めやった。
「荷はもう積んだか?」
「ああ。客は?」
「早々に部屋にこもっちまったよ。無理もねぇ、この降りじゃ―――?」
 駆けてくる人影に、水夫は言葉を切って怪訝な表情で港の方を眺めた。
「どうした?」
「いや、声が………って待て、まだ取るな! 人が来る!」
「なんだと?」
 渡し板を取り外そうとした別の水夫が慌てて港の方を眺めた。
 やがて、降りこめる雪の中に鮮やかな紫色の髪がひるがえった。
「待って! 乗せて! ウェンデルに行くんでしょう?」
「ウェンデルって俺たちはその途中のジャドまでだ。ウェンデルは内陸の街だぞ」
「何だい、あんた外套も着ずに―――うわっ」
 渡し板を駆け上がってくる少女に思わず手を貸した水夫は、にっこり微笑まれて絶句した。
「いいのよ。ジャドまででも。乗せてってちょうだい。外套は―――ああ、着てるひまがなかったの。いま着るわ」
「駆けこみ乗船は危険だぞ、嬢ちゃん」
「だって間に合わないと思ったんだもの。最後の船、でしょう?」
「………ああ」
 言って、水夫は雪に閉ざされようとする街と、流氷に埋められた港湾を見渡した。
「出て行っちまったら当分はここに帰ってこれねぇぞ。それでもいいのかい、嬢ちゃん。その肌の色、ここの人だろう?」
「いいの」
 アンジェラは雪を手のひらに受けて、ぽつりと呟いた。
「それでいいのよ」