断章 〜アンジェラ〜 〔1〕
―――アルテナは魔法国家。国主の最大の義務は代々強力な魔力を受け継ぎ、国を寒さから護ること。
玉座に就くのは、王でも女王でもよかった。求められるただひとつ絶対の条件は、この大地の寒さに抗えるほどの膨大な魔力を有していること。
そして王家がそのような在り方を為す以上、民もまたそれにならった。身に魔力と魔法の才を宿していることが尊ばれ、そのままそれが個人の価値へと繋がった。魔力持つ民が国に仕え、王を助け、永久凍土の地の王国を確たるものとして存在させている。
現在、その王位に在るのは〈理の女王〉ヴァルダ。
揺るぎない知性と魔力を身にそなえ、すべての国民から守護者として崇敬を集め、慕われている。
しかし彼女の統治のはじまりと、世界規模におけるマナの減少のはじまりとが、不幸にも時を同じくしていた。
マナは魔力の源、全ての力の根源となるもの。
そのマナの減少によって魔力は人々に知られぬほど秘やかに、しかし確実に弱まり、そしてそれを嘲るかのように寒さは少しずつ、王国を侵しはじめていた。
一年ほど前にはとうとう唯一の港湾都市エルランドがその防寒結界から外れ、流れこむ流氷はその量を増しつつある。
王都アルテナにおいてすら、その防寒壁を越えて寒さが忍び寄っていた。
女王の魔力によって維持される常春を疑うことなく甘受してきたアルテナの民たちも、防寒壁の内側にへばりついた霜や時折吹きつけてくる寒風に否応無く寒さの侵入を気づかされつつある。
しかし、王女であるアンジェラはまったくそんなことに頓着していなかった。
アルテナの中心にある王城に未だ寒さの影は薄く、王城から滅多に外にでることのない彼女には、緩慢な寒さの侵入など気づきようもなかったのだ―――。
「ホセ! ねえホセってば、早く昨日の続きを教えてよ」
壁一面に本棚が並んだ書庫の一角に、いらいらしたアンジェラの声が響いた。美しい細工の書き物机の上に座り、足をぶらぶらさせるという、とても人に教えを乞う態度ではない。
アンジェラの声に、真っ白い顎髭をしごきながらのんびりと老人が応える。アンジェラの授業態度の悪さはいつものことなので、もはやわざわざ注意しようとも思っていない。
「はいはい姫さま。そんな大声をださずともよく聞こえておりますよ。こう見えてもホセは昔アルテナにその人有りと言われた大魔法使いで―――」
アンジェラは唇を尖らせて、恩師の言葉を遮った。
「ホセの武勇伝はもう聞き飽きたわ。それよりほら、昨日の続きよ」
そう言ってアンジェラは机から飛び降りると、やおら杖をふり上げ、もうすでに暗記だけはしてしまっている呪文を詠唱しはじめた。
これ見よがしのアンジェラの呪文にホセは内心溜め息をつき、緩慢に首をふる。
「姫さま。魔法は詠唱と身ぶりだけ覚えれば、誰にでも使えるというわけではないのですじゃ」
この言葉も口にするのは何度目か、もはや覚えていない。
「姫さまが未だに魔法を使えないのは、肝心の精神の在りようが――つまり「心」がともなっていないからで………」
カッとアンジェラの頬に朱が散った。
傷ついたような光が翠玉の瞳に奔り、そうして彼女は思いっきりホセに向かって舌を出した。
「ホセの小言も聞き飽きた。もういい、ホセには頼まない!」
そう叫ぶと、鮮やかに身をひるがえして部屋の外に駆け出していく。これも毎度のことだ。
ホセは溜め息をついてそれを見送った。
〈理の女王〉の一人娘は未だ魔法を使うことができない。先天的なものか後天的なものなのか、どちらが原因かはわからない。だが、もうすぐ二十歳を迎えるにあたり、先天的に魔力が欠けているのではという暗い噂が、アンジェラの周囲を飛び交っていた。
外に飛び出していったアンジェラは中庭を見おろす露台にいた。遙か遠くの防寒壁の上に薄く積もっている雪を、冴えない表情で眺めている。
未だに魔法が使えない自分でも、母親は決して叱ってこようとしない。
アンジェラにとってヴァルダは女王ではあっても母親ではなかった。
父親がいない分の愛情を与えられてきたという記憶はアンジェラにはない。幼いとき母親に甘えかかっても、いつも女王として、すげなくあしらわれてきた。
騒動好きで、ワガママだと思われている自分の内面をアンジェラ自身は知っている。
表に現れる騒々しさは、甘えられなかった反動と自分を見ようとしない母親の注意を引きたいがためのものだ。そんな自分が情けなくて、さすがに最近は分別が出てきたが、根本のところはきっとまったく変わっていない。
わからなかった。
母親の手とまなざしを求める自分の態度は異常なのだろうかとも思う。
結局アンジェラはいつだって、自分に自信など持てるはずもなく、おのれを持て余しては途方に暮れている。
常春のアルテナでは衣服に気を使う必要がない。両肩が剥き出しの魔法の訓練衣をまとうアンジェラは容貌は、年を経るとともにだんだんと母親と似てきていた。ヴァルダの若い頃のようだと、誰もが口をそろえてアンジェラの美貌を褒める。
しかし容貌とは違って、未だ母のような強大な魔力の片鱗すらも顕わさず、魔法を使いこなせない王女―――
アンジェラは、ほうっと軽く溜め息をついた。
「………サラマンダーの吐息。始源の女神の憤る心。万能なるマナよ、破壊の炎となれ―――」
小さく呟かれた呪文は空気に解け消え、陽炎さえも起こらない。
あきらめてアンジェラはその場を離れ、特に目的もなく城内を歩き始めた。何人かの人間から、こんなところでフラフラしていないで早くホセの授業に戻るように言われたが、そんな気は起こらない。
ふらっと入った小部屋には、倉庫の番人をしている老人が火にあたりながら、座って本を読んでいた。アンジェラを見て、しわだらけの顔をさらに笑顔で歪める。
「おや、こんなところに姫さまがこられるとは珍しい。姫さまが、女王様の後を継げるような立派な魔法使いにお成りくださるのを、爺は楽しみにしておりますぞ」
何の悪気もなくそう言われ、アンジェラの顔がまた暗くなった。
部屋を出たアンジェラに、手足の各所に痛々しく包帯を捲き、杖を突いて歩く魔法兵の姿が目に入った。
「どうしたの、その怪我」
声をかけられた魔法兵は恐縮したように答えた。
「これはアンジェラさま。この怪我は魔法訓練によるものです」
「訓練で怪我? そんなこといままであまりなかったじゃない」
魔法兵はひとつ頷いてから答えた。
「ええ、ここ最近のことですから。紅蓮の魔導師殿による兵たちの訓練が厳しくなられたのは。怪我人もそう珍しくはなくなってきていますよ。どうやら戦が近いようで………」
「いくさ………」
ぼんやりとアンジェラは呟いた。自分に関係があることだとは到底思えなかった。
正面では魔法兵がしきりに首をひねっている。
「それにしても、魔導師殿はますます魔力をあげています。さすが〈紅蓮〉の異名を持つ御方です」
アンジェラは内心凍りついた。この目の前の魔法兵は、良い意味で遠慮がないのか、それとも悪い意味で含みあってのことなのか。恐ろしく無造作にアンジェラの前で魔力の話をする。
紅蓮の………。
この極寒のアルテナにおいて、もっとも輝かしく誉れある二つ名。燃えさかる、炎の。
「………そんなに?」
「ええ。炎の魔法などそら恐ろしいほどで、いまや〈理の女王〉さまに並ぶほどの力を身につけたのではないでしょうか」
この自分は陽炎さえ起こせない。
紅蓮の魔導師は数年前から、女王の片腕として力を発揮している宮廷魔導師だ。〈紅蓮の……〉の二つ名に相応しく、炎の魔法を最も得意とする。
アンジェラはこの魔導師が苦手だった。嫌っているといってもいい。
女王の片腕で、自分や女王に意見できる。それはいい。それはいいのだが、王女であるアンジェラを呼び捨てなのが気に障るのだ。確かに自分は魔法も使えず欠点だらけだが、どうして家臣に王女が呼び捨てにされないといけないのだ。
それに、あの青い瞳はいつも底が見えなくて怖い。
得体の知れない感情と甚大な劣等感も手伝って、あまり顔をあわせたくない相手だった。
ここ二、三年においては必要な用事以外、母親である女王のもとへは行っていないし、向こうもそうだった。用事がなければお互い二、三ヶ月顔すら見ないことがある。
用事で呼ばれたとしても、あくまで用件だけ。魔法は使えるようになったのか、とすら訊いてこない。
訊かれても良い返事はできないが、訊かれないのはまったく関心を持たれていないことだからもっと悲しい。
いまさらホセに頭を下げにいくのも癪なので、さてこれからどうしようかと思っていた時だった。廊下の向こうからヴィクターが小走りにやってくるのが見えた。
「姫さま!」
「ヴィクター?」
ヴィクターはアンジェラの乳母の子ども―――つまり乳兄弟だ。アンジェラより二つ年上のちょっと線の細い感のある青年で、アンジェラがホセの授業をサボった後はいつもホセに捕まって愚痴を聴かされる損な役回りの人物だった。
しかし、その彼ですら魔法は使える。いつだったかを最後に、アンジェラをはばかり彼女の前では魔法を使おうとはしなくなったが、それで彼が魔法を使えるという事実をアンジェラが忘れられるはずもない。
「こちらにいらっしゃったんですね。さがしましたよ。女王さまと紅蓮の魔導師殿がお呼びです」
アンジェラの表情に怯えに似たものが奔った。
向こう側から呼ばれるなんて半年………いや一年ぶりのような気がする。いったい何の用だろう。
乳兄弟の青年に導かれるまま、アンジェラは門をくぐり中庭を通り抜け、王の間の扉の前まで歩いた。
「ヴィクター、お母さまは何の御用なの……?」
「そんなこと僕が知るわけないじゃないですか。とうとう海の向こうのフォルセナに侵攻を開始するらしいんで、そのことなんじゃないですか」
早くお行きくださいと促されて、しかたなくアンジェラは扉が開られるままに中へと進んだ。
フォルセナのことは、授業をサボってばかりいるアンジェラの知識でも一応は知っている。海峡を挟んですぐ南にある草原の国だ。確かそこの王様とやらが十何年か前に竜を斃しただか斃してないだか………。
印象の薄いフォルセナに攻めこむことより、母親に会いに行くことのほうがアンジェラにとっては緊張を誘うことだった。
久方ぶりに訪れた王の間のその広さが不安を誘う。
「………お、お呼びでしょうか………お母さま」
床に視線を落としたまま前に進み、荘厳さに頭を押しつけられるように王座に続く階の手前で片膝をつき頭を垂れる。礼によって、顔を上げて女王の顔を見ることは許されない。
母親の顔は一体どんなだっただろう?
磨き上げられた石床を見つめるアンジェラの左右に、持ち前の紫の髪が緞帳のように降りかかった。
髪の色にはきっと記憶にすらない父の色が混ざっている。母である女王の髪は朱をまとった紫。鮮やかな夕焼けと朝焼け色の髪なのだ。
母から受け継いだのは、深緑の瞳とその容姿。そしておそらく………魔力は受け継いでいない。
「アンジェラ、顔を上げなさい。私から説明しよう」
自分を呼び捨てにする魔導師の口調にかちんときつつも、アンジェラは顔をあげた。
短く刈った朱金の髪に、真紅の魔導衣。
宮廷魔導師の青い瞳は以前と変わらず、得体が知れない。
「現在、世界全体でマナが減少し始めている。知っているように、マナは魔力の源。魔法で国を寒さから護っている我等にとって、マナの減少は死活問題だ。
―――そこで我々は、マナストーンの封印を解いてマナの聖域への扉を開き、マナの剣を手に入れることにした」
アンジェラは曖昧に頷いた。
マナストーンとは遠い神話時代、生ある者全ての母であるマナの女神が、その内に神獣を封印したという八つの要石のことだ。マナの力を聖域から現世に送りこむ中継点でもあり、自身も神獣を抑えるために強い力を保っている。
このマナストーンの実在が、マナの女神の存在を世界中に知らしめていた。このマナストーンの傍らには、それぞれの力の属性を司る精霊たちが封印の番人として在るという。
マナの聖域は、神獣を打ち斃しこの世界を創造したために力を失ってしまった女神が永き眠りを得るためにその姿に変じたという、マナの樹が在る空間の名。
そして、剣。マナの剣はすべての力の源。女神が世界を創造するのに使った〈黄金の杖〉のもう一つの姿。女神が生みせし至高の聖剣。
それらは絵空事ではなく、全て真実として伝わる話だ。
現に遙か昔には、人間はマナストーンの力を操るすべを心得ていた。しかし人々はそれに傲り、その傲りが神獣を喚び醒まし、世界は破滅しかけたという。
紅蓮の魔導師の話はまだ続いている。
アンジェラにはなぜ自分にこの話がされるのかが、さっぱりわからない。
「聖域への扉を開くため近々、各地にあるマナストーンの占領を開始する。まず手始めに我がアルテナにある水のマナストーンの力を解放しようと思うのだ」
マナストーンは力の属性ごとに八つに分けられ、そうしてそれぞれ八つの力を秘めている。また、それら八つの属性に分かたれた神獣をも封じている。
光。闇。炎。水。地。風。そして月と、樹。
アンジェラが先刻呟いていた呪文は、炎のマナの力を借りるものだった。
だからそれがいったいどうしたというのだろうか。アンジェラにはさっぱり話が見えてこなかった。
しかし相手はここまで話したきり口を閉ざしてしまい、謁見の間には気まずい沈黙だけが横たわる。
この場では黙って用件を聴くことだけを義務づけられているアンジェラに、疑問や質問は許されない。
しかしそれでも長い沈黙が落ち、とうとうアンジェラはためらいのすえ、口を開いた。
「でも、………どうやって封印を解くのですか………?」
解くと宣言したからとて、封印が解かれるはずもない。
アンジェラの問いに応えたのは紅蓮の魔導師ではなく、母である〈理の女王〉だった。
「禁呪を使います」
「………?」
「………術者の生命と引き換えになるため禁呪とされている、封印されし古代魔法を使うのです。しかし、私やこの者はまだ死ぬわけにはいきません………」
表情のないその深緑の目が、呆然と言葉を聞いている娘の顔を映し出した。
その紅唇から言葉が滑り出る。
「そこで、お前の体を触媒として使うことにしました」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
愕然と母親を見返したアンジェラの目に映ったものは、硝子のような翠の瞳だった。
「お前の生命さえ引き換えにすれば、マナストーンの力が放出されます………」
「お母さ、ま………?」
アンジェラは思わず礼を忘れて立ち上がり、後ずさった。
頭の中ではうまく思考がまとまらない。集めた端からさらさらと零れて消えていく。
触媒に………自分の身体を介して母が魔法を使う。死ぬのは母じゃない。触媒となった自分だ。そうして母の命は救われる。
ようやくそこまで思考が至り、アンジェラの白い顔からさらに血の気がひいた。
表情ひとつ変えず、淡々と言葉を紡ぐ女王の姿が次々と壊していく。深奥で大事に抱えこんでいた微かなぬくもりや思慕などの、柔らかな心を。
「………王女として生まれついたからには国を護るのが王女の務め。しかしお前は魔法すら使うことができない王家の恥。最後に大魔法を使って名を残せば、この〈理の女王〉の娘として相応しい散り様となりましょう。………当然のことです」
聞きたくない。
アンジェラは思わず耳を塞いだ。
自分が貴女に相応しくない、どうしようもなく出来の悪い娘だということは知っている。貴女はあまりにまぶしい高みにいるのだから。
このまま魔法が使えなければ、名実ともに王家の恥なのも知っている。自分は貴女のように国を護ることができないのだから。
それでも………!
抱きしめてくれる腕がほしかった。厳しくてもいいから言葉がほしかった。
(………魔法が使えれば、よかったの?)
何の感情も読みとれない濁った翠の目が、アンジェラを恐怖の中にたたき落とす。
悲しむふりさえも、してくれない。
貴女に母として抱きしめられた記憶も、言葉をもらった記憶も存在しない。自分にとって貴女は女王であっても母親ではなく、欲しいものはいつも手に入らなかった。
貴女の体温を、あたしは、知らない。
「さあ。王女………こちらへ」
紅蓮の魔導師がアンジェラの手を取ろうと階を降りてくる。
思考と感情は飽和していたが、それでも反射的に後ずさった。
「いや………」
嫌々をする子どものようにアンジェラは首をふる。
「やだ………」
殺される。
あの手を取れば、自分は殺される。
―――死にたくない。
「アンジェラ王女」
視界にひらめく真紅の魔導衣。
「いやよ………ッ、来ないで………!」
―――死にたくなんかない。
見おろしてくる母の朱紫の髪。そして瞳。
何の表情もうかがえないその顔の全てが、鏡で見る自分によく似ていた。
脳裏に灼きつくほどに凝視しても、哀れみも悲しみも、蔑みすらもない、母親の顔。
「いや………」
魔導師の手がアンジェラの手に触れた。
―――死ぬのはいやだ!
理性が弾け飛んだ。頭の中が真っ白になる。
「いやああああああぁぁぁ――――ッッ !! 」
絶叫と同時に、アンジェラの視界を光が包んだ。
真っ白で綺麗な光に、薄れゆく意識のなか、このまま自分は死ぬのだろうと思った。
純白の光はアンジェラの体から噴きだして、そのまま彼女を包みこむと刹那、弾け飛んだ。
圧倒的な力が空間に満ちる。めくるめく白光と無音の嵐に、至近距離にいた紅蓮の魔導師が思わず手で顔を庇った。
色彩がすべて抜け落ちたような光が消えたとき、触媒となるべき王女はその場から姿を消していた。
魔導師が軽い驚きと共に、周囲を見回す。
やがて彼は自身も気づかぬほど微かに、苦く笑った。
「…………」
女王は自身の娘が立っていた辺りを見つめていた。紅のよく映える白いその顔には、何の表情も浮かんではいない。
その日、王女は王宮から姿を消した。