断章 〜シャルロット〜 〔2〕

「ヒース、いないでちねぇ………」
 礼拝堂を出たシャルロットは、その後もヒースの姿を求めてあちこちを探しまわった。おとなしく本を読んでいろと言われたことは、右の耳から左の耳へと抜けていってしまっている。
 普段はシャルロットが探しまわっていると、それを聞きつけてヒースのほうから顔を見せてくれるのに、今日に限ってはそれもない。
 休みをとったということは、街へ出ているのかとも思ったが門を守護する神官二人は揃って首を横にふった。シャルロットがもう少し注意深ければ、その二人がさかんに目配せしあっていることに気づいたはずだが、ヒースのことで頭がいっぱいの彼女は少しもそれに気づかなかった。
 探しまわっているうちに午後をまわってしまい、シャルロットはすっかりふて腐れて回廊をどすどすと歩いていた。
「こんなにも淑女れでぃーが探しまわっているのに、少しも姿を見せないなんて失礼でちよ!」
 完璧な八つ当たりだった。
 鼻息荒く回廊を突き進んでいたシャルロットが顔見知りの少年と鉢合わせしたのは、そのときだった。奇しくも午前中にヒースとぶつかりそうになった曲がり角でのことだ。
「あ、シャルロットさん………」
 侍者であるミックという名のその少年はぶつかった相手がシャルロットと知るなり、傍目にも青ざめた。
 ―――シャルロットの女の勘にぴぴんとくるものがあった。
 顔を引きつらせているミックを見て、ニヤリと笑う。
「さてはミック、あんたしゃん、何か知ってるでちね」
「な、何のことですか? シャルロットさん。おれ、侍祭さまに言いつかった用事があるんで………」
「待つでち!」
 脇をすり抜けていこうとする少年の襟首をシャルロットはひっつかんだ。まったく背丈が同じぐらいだというのは便利である。ヒースが相手だと腰帯にしか手が届かない。
「シャルロットの目はごまかせないでちよ! さあ、とっとと白状するでち! でないとぉ………」
 ニィヤリとシャルロットは笑みを浮かべた。天使のように愛らしいと大人たちはシャルロットを見てよくそう口にするが、ミックからするとどこを見てそう言っているのかがわからない。天使のような悪魔の笑顔とはこのことだ。
 心底震えあがった彼に、シャルロットは高らかに宣言した。
「おしおきでち! 手足をくっつけたままバネクジャコにのせてお空に放り投げてやるでちよ!」
「ひええっ !?」
「さあ来るでち。こないだあんたしゃんが見つけてきた真っ直ぐ飛ばないやつで、どれだけ遠くまで飛ぶかためしてみるでち」
 バネクジャコとは植物のような動物のような茸のような、とにかく不思議な生き物で、体内に螺旋形のバネのような器官を持っている。そのバネで、切り株ほどのずんぐりした半球形の笠に触れたり、上に乗ってきたりしたものを、勢いよく跳ねとばしてしまうのだ。ものによっても違うがいちばん飛ぶものだと、子どもぐらいの重さのものなら三階建ての建物の屋根より高く飛ばしてしまう。もちろん放りっぱなしで、後の着地の面倒まではみてくれない。
 子どもの遊び心を刺激してやまない生き物ではあったが、同時に危険な生き物でもあった。
 そんなものに、手足の自由のきかない状態で乗せられたら………しかもこのあいだ見つ けた、どういうわけか真っ直ぐ上に飛ばないやつの上に………。
 ミックの顔色が青さを通り越して真っ白になった。
 やる。やるといったらシャルロットは絶対にやる。
「ひ、ひとでなしですか、シャルロットさん!」
「んまっ、失礼でちね。シャルロットの半分は確かにエルフでちが、あんたしゃんにそんなこと言われる筋合いはないでちよ!」
「そ、そんなことを言ってるんじゃありません! やめてください〜っ!」
「じゃあ、白状するでちか」
「うっ、それは………」
 鼻歌交じりにシャルロットは道行きを再開した。
「じゃあ、おしおきでち♪ お空に高く、天まで届け〜♪」
「い、言いますッ。言いますから、それだけはやめてくださいっ!」
 シャルロットはにっこり笑ってミックを解放した。
「最初っからそうしてればいいんでちよ」
 ミックは遠く、空に目をやった。
 実は、彼女と(見た目が)同じ歳ぐらいの侍者や神官見習いの子どもたちは、本日の自分たちの大将のご機嫌が最悪なことを知り、鉢合わせしないように逃げまわっていたのである。
 おまけに他の子どもたちが知らないことを知っていた彼は、人一倍気をつけて歩いていたはずなのだが―――運が悪かったというしかない。
(ヒースさん、ごめんなさい………)
 おそらく、出かけようとしていたヒースに遭遇し、好奇心にかられて行き先を尋ねてしまったのがいけなかったのだ。おのれの好奇心を呪ってももう遅い。
「さあ、言うでち。ヒースはどこに行ったでちか」
「ヒースさんは、お昼すぎにアストリア村まで出かけて行きました」
 シャルロットは目を見張るとおのれの影を見下ろした。
 すでに日差しはだいぶ傾き、影は長く伸びている。
 司祭に会いに行ったときにすでにヒースは出かけていたということになる。
「門の神官はシャルロットにウソをついたでちね〜っ!」
「も、もういいですか? じゃあ、おれ行きますよ」
 そろそろと後ずさっていたミックは、シャルロットに睨まれて立ち止まった。
「まだでちよ。なんだってヒースはアストリアまで出かけたんでちか」
「そんなことおれだって知りませんよ。でも、昨日のあの光と何か関係があるんじゃないですか?」
「ひかり?」
 首を傾げたシャルロットに、今度はミックのほうが目をまん丸にした。
「知らないんですか !? あれだけ大さわぎしてたじゃないですか!」
「知らないでちねぇ。いつの話でちか、それは」
「昨日の夜中ですよ。あんまり大さわぎになったんで、おれらも目を覚ますぐらいでしたよ」
「夜中なんて起きてるわけないじゃないでちか。さあ、そのこともとっとと白状するでち!」
 結局、昨夜の出来事まで洗いざらい白状させられたミックは、終いには今夜シャルロットが神殿を抜け出す手伝いをすることまで約束させられて、解放されたときには半泣きになっていた。
「おれ………これがバレたら神殿追いだされるかもしんない………」
「だいじょうぶでちよ。そのときはきちんとシャルロットが言ってあげるでち」
「………そうですか」
 なら最初からこんなことしないでほしい。
 よろめきながらミックは立ち去った。



 夜半、神殿が寝静まった頃を見計らってシャルロットは神殿を抜けだした。
 ミックから教えてもらったのは、神殿の外に通じる、それこそ子どもしか通れないような小さな抜け穴だった。
 神殿自体が北の街外れに建っているため、ここを通ると直接ウェンデルの外まで出られる秘密の抜け道なのだという。
 神殿の東に建つ孤児院の近くにあるそれは、数十年前の地震で崩れてできた穴とのことだった。第一発見者が子どもたちだったため、世話役の神官たちに報告されることなく代々受け継がれてきたのだ。孤児院で育った子どもたちはそのまま神殿で神官職に就く者もいるが、つまりは大人になったその者も次の子どもたちのために口を噤んでいるという次第なのである。
「何だってこんな便利なものをいままで黙ってたんでちか」
「言ったら最後、シャルロットさんはここを利用しまくるでしょう? そうすると大人にここがバレちゃうじゃないですか。ここは本当にとっておきなんです。おれらだってめったに利用しないんですから」
「ひどい言いぐさでちね………」
 ぶつぶつ呟きながら、シャルロットは背負った背嚢から薔薇色の飴玉をひとつかみ取りだすと、ミックの手にあけた。
「くちどめ料と、ヒミツを教えてくれたお礼でち」
 予想外のことにびっくりしているミックに、シャルロットは口の端を持ちあげた。
「なんでちか。シャルロットはケチじゃないでちよ。きちんと人数分あるでち」
「これ、まんまる花飴ドロップじゃないですか」
 薬花の花粉と蜜を練り合わせた飴玉は、風邪で喉を痛めたときによくもらうが、如何せんそれ以外ではあまりお目にかかったためしがない。普段もらうのは水飴だ。
「ひそかに貯めてたとっておきでちよ。シャルロットもここの抜け穴のことはおじーちゃんたちにはヒミツにしておくでち。だからあんたしゃんも、シャルロットのことは黙っているでちよ」
「シャルロットさん………」
 飴玉を両手に受け取りながら、ミックは困り果てた。
「ほんとに行くんですか。アストリアまでは半日はかかりますよ。明日、大騒ぎになるじゃないですか」
「でも、行くんでち。なんだかイヤな予感がするでちよ。ヒースを守るのは、シャルロットなんでち」
 きっぱり言われ、ミックは普段は忘れている事実を改めて思いだしていた。シャルロットが自分たちと同じ年齢に見えるのは外見だけで、本当は倍近く年の差があるのだと。
「………帰ってきたら、もっとくださいよ。全然これじゃ足りません」
「ぜいたくでちね。しかたないでちねぇ、帰ってきたらぱっくんチョコもおまけしてあげるでち」
 少し唇をとがらせてそう言うと、シャルロットは角灯ランタンを手に穴をくぐった。
 月明かりにきらめくアストリア湖を横目に滝の洞窟へと向かう。湖を渡れば近いのだが、ウェンデル側の湖岸は切り立った崖になっていて船をつけることができない。
 滝の洞窟へは道がきちんと整備されていて危険なこともなかったが、月の光に照らされた風景はシャルロットの目に見慣れぬ初めての場所のように映った。
 洞窟の入口に入る前に、シャルロットは角灯の覆いを外した。いままで人目につくことを恐れて覆いをしたままだったのだが、洞窟のなかを進むには灯りがいる。
 入ろうとして、シャルロットはふと入口を見あげた。
「…………ヒース?」
 なんだか知った気配がする。
 首を傾げながら、シャルロットは洞窟のなかに入った。洞窟は長い。アストリア湖をぐるりと回りこんでいるのだ。急がなければ夜が明けてしまう。
「うう、ちょっとコワイでち………」
 呟きは滝の唸りにかき消されて自分にも聞こえない。灯りに驚いた蝙蝠に、当の蝙蝠以上に驚いて角灯を取り落としそうになったことも一度や二度ではなかった。
 だが不思議と、引き返そうと思うほど怖くなることも、恐慌に陥ることもなかった。
 洞窟全体になぜだかヒースの気配がしていたからかもしれない。
 ヒース。
 彼のことを考えると、シャルロットの胸はいっぱいになる。嬉しくても哀しくてもすぐにいっぱいになって表に溢れてしまうのは、自分が小さいからかもしれない。早く大きくなりたい。どんどんヒースが自分をおいていってしまう。それだけが哀しい。
 幼い頃からヒースはシャルロットと一緒だった。シャルロットが神殿にやってきたのは、彼女自身が覚えていられないほど幼いときだったのだが、そのときからヒースはすでに神殿にいた。
 シャルロットには両親がいないが、ヒースにもいない。一度そのことを尋ねたとき、あんまり哀しそうに笑ったから、シャルロットは聞くのをやめた。そんな顔をさせた自分が許せなかった。
 ヒースはどんどん大きくなった。おいていかれそうでたまらなく思ったことが何度もある。けれど、ヒースは大人になってもシャルロットをずっと気にかけてくれた。いまでも一緒に遊んでくれるし、いちばん大事にしてくれる。神官の仕事で遠くに出かけたときには必ずおみやげを買ってきてくれた。背伸びしてもとれない花枝を前にすると、シャルロットを肩車してくれた。
 抱きあげてもらうのは好きだった。体が大きいとそんなことはしてもらえないから、抱きあげてもらうときだけ、自分が小さくてよかったと思う。
 子ども扱いされているわけではなかった。シャルロットの体が小さいからそうしただけで、他のことではヒースはいつもきちんとシャルロットの望むように彼女を扱った。
 たいていの大人は彼女を子ども扱いする。見た目の年齢と口調に惑わされて、十五の少女としては扱わない。
 たいていの子どもは彼女に戸惑う。見た目は自分たちと同じ歳なのに、周囲の大人からずっと年上なのだと注意され、話した感触もたしかに自分たちと違うから、どう接していいかわからなくて遠巻きにする。
 シャルロット自身もいったいどういう態度をとることが正しいのかわからないから、周りの対応もますます複雑になる。
 だけど、ヒースは違う。ヒースだけは間違わない。
 世界中でいちばんヒースが好きだった。
 不意に滝の音が遠ざかっていることに気づき、シャルロットは角灯を掲げて先を照らした。
 入口の形に切り取られた、ほんのりとした黎明が見えた。出口だ。洞窟の脇を流れるせせらぎの音が聞こえる。
 外へと一歩踏みだしたシャルロットは、同時に柔らかな膜を通り抜けたような気がして、洞窟をふり返った。
「いまのは何でちか………?」
 怪訝に思ったシャルロットは入口へ灯りを掲げながら近寄った。
 靴先が洞窟の内部に踏みこもうとした瞬間だった。強い排除の意志が流れこみ、思いきり弾き飛ばされる。持っていた角灯が手から離れて勢いよくせせらぎのなかに飛びこんだ。
「結界………ヒースでちか」
 洞窟全体になぜ彼の気配が漂っていたのかは納得できたものの、角灯が壊れてしまったことにシャルロットは憮然とした。
 だが幸い、夜は明けかけている。アストリアの村までは何度か行ったことがあるから迷う心配もなかった。
「ヒースと一緒じゃないと帰れないでちね」
 そのことをたいして不安に思うこともなく呟くと、シャルロットは村を目指して歩きだした。



 アストリアの宿にいたヒースは朝早くに現れたシャルロットを見て、当然ながら仰天した。
 懇々と二時間近く説教したのだが、シャルロットが途中で船を漕ぎはじめたのを見て、苦笑しながら抱きあげる。
 結界をすでに張ってしまった以上、自分が一緒でなければウェンデルに帰れない。さっさとあの謎の光の調査を済ませて帰還しなければ、シャルロットが行方不明だとウェンデルは大騒ぎになるだろう。
 ヒースに怒られてしょげていたシャルロットだが、
「心配だったからでち。嫌な予感がしたでち。シャルロットの勘はあたるんでち」
 と頑とそう言い張って、これだけは譲らなかった。
 たったそれだけのために、彼女は夜の洞窟に一人で入ったのだ。
 シャルロットがヒースと祖父を大事に思うように、彼は彼女と光の司祭が大切だった。十余年前のあの日以来、天涯孤独となってしまった自分のたった二人の家族。
 煙る金髪が陽光のような、光と幸福に満たされたシャルロット。
 翳りを宿す自分とは違うその透明なまぶしさがあまりにも尊くて、愛おしい。
 ふわりと微笑して、ヒースは眠る少女のこめかみに口づけを落とした。
「おやすみ。何も心配することなんかないんだよ」



 花輪が引きちぎられた。
 茎が折れ、花びらがよじれて破れ、ばらばらと落ちていく。
 花首が辿り着く先は、濁った水のなかだった。
(ひかりでは、救えないものもあるんだよ)
 それはいったい、何のこと―――?



 目を覚ましたとき、すでに陽は高かった。
 漠然とした不安に突き動かされてヒースの姿を求めたが、彼の姿はない。
 ―――シャルロットは寝台から飛びだした。
 顔見知りの宿の主人を問いつめると、朝方ラビの森のほうに出かけていったという。
 危ないから行くんじゃないと引き留める主人を無視して、シャルロットは外に駆けだした。
「ヒース、ひとりになったらダメでち」
 シャルロットは、驚く村人にはかまわず村を走り抜け、森に足を踏み入れた。勘にまかせて道を選ぶ。こういうときの彼女の勘はどういうわけか外れたことがない。
 うとうとと微睡んでいたラビがシャルロットの勢いに驚いて茂みから逃げだした。
 やがて陽光にまぶしく光るヒースの銀髪を見いだしたときには、やはり自分の勘が外れていないことを知った。嫌な予感のほうもだ。
 いたのは彼だけではなかった。
 どう見ても友好的とは言い難い、武装した三人の男がヒースを取り囲んでいる。
 なかの一人がヒースの肩を手荒く掴むのを見て、シャルロットは思わず足元にあった石を投げつけていた。
「ヒースから手をはなせっ!」
 一斉に男たちが新たな闖入者のほうへと視線を向ける。
 猛々しい獣のような顔だちと縦に長い異様な瞳孔に驚いて立ち竦んだシャルロットに、男の一人が訝しげな顔で近づいた。
「何だぁ、このガキは?」
 慌てて逃げようとした彼女の襟首をひっつかみ、男はシャルロットを宙づりにする。襟が喉元に食いこみ、シャルロットは顔を歪めて手足をばたつかせた。
 ヒースが血相を変えた。
「その子から手をはなせッ!」
 相手が反応する間もない。肩を掴んでいた手を払いのけると、そのこめかみに肘を入れ、もう一人の顎に掌底を見舞い、唱えていた呪文を解放する。
 破邪光珠ホーリーボールの白い光が男の背中を灼き、シャルロットは地面に放りだされた。
 咳きこんでいる彼女の背を駆け寄ってきたヒースの温かな手がさする。
「もうだいじょうぶだよ」
「ヒース………っ」
 シャルロットは夢中で自分を守ってくれる腕を求めた。
 あんな剥きだしの敵意は初めてだった。ウェンデルでは街中の人々が自分を愛してくれていた。自分に害をなそうとする者が世界に存在するなんて思いもしなかった。
 抱きついたシャルロットの体を抱き返し、ヒースが深い安堵の溜め息をついた。
「なんでおとなしく宿で待っててくれなかったんだい」
「ごめんなさい………っ」
「寿命が本気で縮んだよ………。どこも怪我してないね?」
 泣きながらシャルロットが頷くと、ヒースは立ちあがって彼女の手をとった。
「アストリアに帰ろう。急いでウェンデルに戻らなければ」
「ひっく………ど、どうして?」
「いまのやつらは獣人だ。ウェンデルに攻めこむためにジャドまで来ているんだ。アストリアの人たちにも忠告しなければ―――」
 不意にヒースは言葉を途切れさせると、あたりに鋭く目をやった。
「ヒース?」
 シャルロットも同じようにあたりに視線をやったが、どこにも変わった様子は見受けられない。
 風に木々の葉が揺れる。
 何の変哲もない昼下がりの森のなか、ヒースの緊張だけが異様だった。
 彼の手がシャルロットの肩を抱き寄せる。
「僕から離れないで………」
 そう言われた次の瞬間だった。
 言った内容とは逆に、ヒースが勢いよくシャルロットを突き飛ばした。
 脱げ落ちた帽子が宙に舞う。
 もんどりうって倒れこんだ彼女の目の前で、黒い球体がきしんだ音をたてながら彼の体を呑みこんだ。
 その漆黒の球体が放つ気配にシャルロットの全身が総毛立つ。なんて強いマナと禍々しい闇の気配………!
 やがて闇は弾け、現れ出たヒースが崩れるようにその場に膝をついた。
「ヒースっ!」
 涙も恐怖も何もかもが噴き飛んだ。
「………逃げるんだ、シャル―――」
 激しくシャルロットは首を横にふった。ヒースをおいて逃げられるわけがない!
 縋りつく彼女に〈転移〉を付与しようとしたヒースの指先で、マナが虚しく凝って散った。
 声がしたのはそのときだった。
「意外と呆気ないですネェ………」
 シャルロットが愕然と、ヒースがかろうじて、その顔をあげて声の主の姿を確かめる。
 異様な風体だった。背は低く、腰は曲がり、道化師の衣装に包まれた手足は異常に細い。顔を覆う仮面はニタリと大きく笑っているにもかかわらず、その切れ目の向こうは漆黒に塗りつぶされて、あるべき肌が見えない。
 粘つく闇のような、不快な気配がその全身から滲みだしていた。
「あんた、ヒースに何をしたでち!」
 シャルロットには目もくれず、その異様な男はイヤらしく笑うと慇懃無礼に一礼した。
「お迎えにあがりましたヨ。ウェンデルの神官ヒース殿。仮面の道士様がアナタ様をお待ちです」
「何のことだ………?」
 ヒースの紫の双眸に訝しげな光が宿った。
「まァ、ワタクシは言いつけられただけですのでネ」
 パチリ、と異様に細長い男の指が鳴らされる。
 その意図を察したヒースは、渾身の力をこめてシャルロットを突き飛ばした。反動で彼の体がぐらりと傾ぐ。額から金の鎖が千切れて飛んだ。
 懸命に伸ばしたシャルロットの手は、その鎖にすら届かない。
「いやっ、ヒースっ!」
 こんなのはイヤだ―――!
 再び漆黒の闇がヒースの姿を呑みこんだ。
 地面に這いつくばり草を握りしめたシャルロットの目の前で、絶望が唸りをあげて広がり、空間をきしませながら収縮し、消えた。
 吹き返しの生ぬるい風がシャルロットの頬を打ち、やがてそれも途絶える。
 そこまではさっきと同じだった。
 たったひとつ違うことは――――。
「ヒース………?」
 震える声でシャルロットは名を呼んだ。
 答えはない。
「ヒース………! どこ………!」
 シャルロットはあの異様な道化師も消えていることに気づいて愕然とした。
 のんびりと空に雲が流れて、風に野草が揺れる。遠くから滝の水音。
 日差しは暖かい。昼寝をするとさぞかし気持ちがいいだろうと思えるほどに。
 狂ったように周囲を見まわし、離れたところに落ちている自分の帽子を見つけた。帽子。ヒースが突き飛ばして。そのとき脱げて。
 ヒースが立っていたあたりの草だけが茶色く枯れていることに気づいて、シャルロットはそこに駆け寄った。
 かさかさに乾いた枯れ草のあいだに神官の証の金鎖がぽつんと落ちていた。
 草ごとそれを握りしめて、シャルロットはそこにうずくまった。
 体中が震えてうまく呼吸ができない。喉がしゃっくりめいた音をたてる。
 鳥の囀りばかり耳に届いた。
「ヒースを………」
 うわごとのようにその唇が動く。
 視界が歪んで、なにも見えない。
 闇に呑まれて、どこにもいない。
 陽光の下で笑うヒース。髪を撫でてくれるヒース。手を握ってくれるヒース。頬に口づけて抱きしめてくれるヒース―――――。
 涙が散った。怒りのままに。


「ヒースを返せええぇぇぇぇぇぇッ!」


 音もなく世界が崩れていくような気がした。