第五章 運命の渦〈奔流〉 〔2〕

 訪れた光の神殿は、噂に違わぬ壮麗さで一同を圧倒した。
 篝火かがりびに浮かびあがる白い門扉に施された彫刻の繊細な陰影と、回廊に落ちる透かし彫りの優美な影。華美にならないぎりぎりのところで優雅さと神聖さを併せ持つ、いかにも〈光の神殿〉の名にふさわしい建物で、ケヴィンなど目を見張ったまま先ほどから絶句している。
 門扉をくぐってすぐにリースたちは接客用とおぼしき一室へと案内された。リースがウェンデルで最初に呼び止めた若い神官が侍者じしゃらしい少年と一緒に茶を持ってくる。
「ただいま宿泊用のお部屋を整えていますので、しばらくここでおくつろぎください。ささやかですが晩餐ばんさんと湯殿の支度もしておりますので」
 突然述べ立てられた厚遇にリースたちは居心地悪く身じろいだ。
「いや、オレらは偶然一緒になっただけだし、そこまでしてもらわなくても………」
「いえ、シャルロットを見つけてくださったお礼です。もう本当に昨日から大騒ぎで………」
 力無く笑う神官を、侍者の少年が乾いた笑いでなぐさめる。リースたちは無言で顔を見合わせた。何だか「お疲れ様でした」と言ってやりたくなるような笑みだった。
 シャルロットから頼まれていた買い物の荷を預かった神官が下がると、一同は揃って溜息をついた。
「チクショウ。くつろげったっても、こんな場所で落ち着くかっつーんだ。うっかりぶつかるとあちこち簡単に壊れそうじゃねェか」
 やけくそ気味に髪を掻くデュランにケヴィンが大きく頷いた。こちらは布張りの長椅子の座り心地が落ち着かないらしく、しばらくもぞもぞしていたがやがてあきらめたように床の上に胡座あぐらをかいて座りこんだ。
「ここではお茶に牛乳を落とすのねー」
 運ばれてきた茶碗を覗きこんで、アンジェラが至って呑気な感想を洩らす。
「ま、何にせよここまでやってこれたわけだ。途中で何か妙なの拾ったりもしたけどよ」
 途端にリースが嫌な顔になった。
 アンジェラが慌ててデュランを睨み、リースの顔を覗きこんだ。
「だいじょうぶ? あれから何もない?」
「とりあえず静かですけど………。この妖精とも光の司祭さまにお会いするまでです」
 きっぱりとそう言ったリースに対して、抗弁する思念はなかった。
 結界を解いたきり、妖精はその姿を見せることもなければ話しかけてくることもなかった。シャルロットがいたせいかもしれないが、依然として沈黙を守り続けている。
「来ちゃったわ………」
 溜息とともにアンジェラがそう呟いた。
「本当に、アルテナからここまで来れたんだわ。あたし、一人で………」
 アルテナからの道程を思いだし感慨深げにそう呟いたアンジェラは、照れくさそうにデュランに言った。
「あのさ、ここまで連れてきてくれてありがとね」
「別に。ついでだしな」
 デュランは素っ気なかった。面と向かって礼を言われることに慣れていないのか、顔がそっぽを向いている。
「オ、オイラもありがとう、言う。連れてきてくれて、嬉しい」
 顔を真っ赤にしてのケヴィンの言葉に、リースとアンジェラがふわりと笑う。
 ジャドで出会ってからわずかに三日の同道とはいえ、旅の仲間としてお互いに好意を抱くには充分だった。たった三日とはいえ、そのあいだに共に妖精を見つけもすれば、互いの怪我を気遣い、死者をも弔っている。
 特にリースとアンジェラとデュランの三人は互いの内情を吐露した手前、何となく気のおけないような気がしていた。
「オレたちは、どうせお互い一人じゃここまでこれなかったんだよ。一人のままだったら、まだジャドの壁ン中だっただろうぜ。だから礼を言われることじゃねぇ。こうしてここにいるんだから、いいじゃねぇか」
 デュランの言葉に残りの三人はそれぞれの表情で頷いた。
 ウェンデルに行くまでは、仲間―――。
 それが交わした約束だったし、その約束のおかげで危険な道中を助け合ってここまでこれたのも事実だった。
「リースも、ありがとね。もともとこっちに用はなかったのにさ。その………なのに、あたしが誘ったせいで変なの拾っちゃうし」
 アンジェラの謝罪にリースは首を横に振った。
「いいえ、あのままジャドにはいられませんでしたから。定期船が出ない以上、ウェンデルに行くしかありません。それにアンジェラ、妖精についてあなたが責任を感じる必要はないんです。あのとき勝手に近づいたのは私です」
 本心からそう言っていると知れるが、それでも判で押したように模範的なその物言いがアンジェラには少し引っかかった。
 本人が自覚している以上に、彼女は妖精を拾ったことに対して苛立っているのではないだろうか。
 アンジェラ以上にリースを取り巻く状況は過酷だ。すでに一度感情の飽和をきたしているほどに。このうえ妖精まで拾っては、感情に折り合いをつけるのも大変だろう。
 アンジェラは不安げにリースを見つめた。
「あんまり無理、しないでね………」
 リースは何を言われたのかわからず、微かに首を傾げた。
 やがて支度が調ったからと、やってきた神官が四人をそれぞれ男女別の部屋に案内した。
 司祭への目通りの有無を問うと、まずは身を清めて晩餐をお済ませくださいと言われる。どうやら食事が喉を通らずにいた司祭もようやっと遅い晩餐の最中らしく、もうしばらく時間がかかるらしい。本来ならば謁見の時間帯などとうに過ぎている。文句を言える筋合いでもなかった。
 先にアンジェラが湯を使い、次にリースが案内された。
 案内された湯殿で温かい湯に両手を浸した途端、リースのなかで何かが溶けて溢れだした。
 温かな湯。ただそれだけで。
 思わず濡れた両手で顔を覆うと、そのじんわりとした熱に肌の強張りがほぐれていくのがわかった。
 いままでその強張りに押しとどめられていたものが、次々に溢れだす。
 先ほどアンジェラに向けて答えたこととは、まったく違う言葉が口をついた。
「………何で、私、ここにいるの」
 言ってしまったが最後だった。
 大きな湯桶のなかに無数の雫が落ちて波紋を描く。
 白い湯気は柔らかく煙り、微細な水玉が髪にも腕にもまといつく。
 ひどく温かで心地よく、それが許せない。
 ローラントではリースの身分でも、こんなに贅沢に湯を使うことなど滅多になかった。バストゥークの嶺は高く、雪解けの清冽な水はいつでも溢れんばかりに流れていたが、それを湯に変えるための燃料が潤沢ではなかった。風が強く吹き下ろす山肌では背の高い樹木は育たない。
 じんわりと伝わる柔らかな熱の心地よさなど、いまの自分には不相応でしかなかった。
 ここは聖都ウェンデル。光の神殿。
 ここは故郷から、あまりにも遠い。
「私、こんなところで何をして―――」
 定期船に乗ったのは誤りだったと、ようやく悟った。
 ジャドが封鎖されてしまった以上、定期船でやって来たリースはどこにも行けない。内陸のウェンデルに向かう以外は。そのウェンデルとて、辿り着いてしまえばジャド以外との行き来はない街なのだ。閉じこめられたに等しい。
 獣人兵がジャドを退き、封鎖が解けるのを待つような、そんな悠長な暇はない。ないのだ。
 とにかく―――。
 サルタンに行って盗賊団の様子をうかがい、エリオットがいるか確かめて。もしいないようだったら国に戻って、パロの様子をうかがって。ローラントに恭順を誓っていたバストゥークの山岳民たちが、今の状況にどう対応するつもりなのかも確かめなければ――――。
 知らず、リースの口から吐息と共に苦い笑いがこぼれていた。
 なんだ。どうすればいいかわからないなんて、そんなことはないではないか。
 こんなにもすべきことがある。
 結局、自分は光の司祭に助言を仰ぐべきことなどなかったのだ。
 ここを出よう。
 アンジェラたちと一緒に司祭に謁見したら、そこで別れを告げて、ジャドに戻ろう。
 そう決めると、ふっと気分が楽になった。
 先ほど、自分の顔を覗きこんできたアンジェラの表情を思いだす。
(あんまり、無理しないでね………)
 たおやかな美貌を誇るその顔が、リースを気遣い、心配に曇っていた。
 苦かったリースの笑みが、知らず柔らかな微笑へと変わっていく。
 アンジェラとデュラン、そしてケヴィン。
 彼らに出逢えたことは、この旅程のせめてもの幸運だったような気がする。
 それぞれに異なる事情を抱えながら、それでも目的が同じであれば協力しあい、互いを気遣える。
 リースにとってそれは初めての関係だった。軍とは違う。どれほど軍の女性兵と親しかろうと、自分は彼女たちに対しての責任を負う立場だった。
 それとはまた違う、この心地よさ。
 たったひとり、どうしていいかもわからずに泣いた自分に手を差し伸べてくれた優しさ。
「仲間ですか………」
 呟いて、リースはそっと目を閉じた。
 風はまだ、自分を護ってくれている。