第五章 運命の渦〈奔流〉 〔3〕
リースが与えられた一室に戻ると、籠に入った麺麭と果実水の瓶、冷めても味に問題のない料理の皿が幾つか卓上に用意されていた。
すでに夕餉の時刻は過ぎている。火を落とした厨房で用意できるものといえばこの程度だろう。
先に風呂を済ませたアンジェラが供された果実水を手に、何やら考えこんでいた。リースが入ってきたのにも気づいていない。
邪魔をせぬように、リースはそっと寝台の上に置かれた自分の荷物に手を伸ばした。荷と言っても、パロからほとんど着の身着のままで飛びだした自分だ。アストリアの道具屋で買った飾布と湯殿に行く際に外した革鎧ぐらいしかない。
せっかくこうしてウェンデルまでやってきたのだから、旅荷ぐらいは買い揃えていこうかとリースは考えた。ジャドの店の品物は獣人兵に徴発されたため、ほとんど棚に何も残っておらず、アストリアでは村人が必要とするささやかな日用品以外のものは扱っていなかったので、ろくな買い物などいままでできなかったのだ。
リースが手を伸ばした拍子に、濡れた金髪が重たげに肩から流れ落ちた。
その微かな音に、はッとアンジェラが我に返ってリースを見る。
「やだ、ごめん。気づかなかったわ」
リースは笑って首をふった。
「いえ、何か考えていたようなので。邪魔をしてすいません」
言いながら、その指が額冠の羽根飾りを整えていく。
それを見て、アンジェラも髪をまとめていた己の髪飾りを外して眺めた。
群青に染めた革細工のそれは何の飾りもないが、それでも国ではアンジェラしか身につけることを許されなかったものだ。
―――訪ないの音もなく、だしぬけに扉が開かれたのは、そのときだった。
驚いた二人がそちらを見ると、湯上がりで上気した頬のシャルロットが不機嫌な顔で立っていた。昼間と同じ青い上下だが日輪の法衣は着ていない。
うっすらとその目の縁が赤かった。
「ちょっと! 扉を叩くくらいしなさいよ」
アンジェラがさっそく食ってかかったが、シャルロットはぶすっとした表情のままで、それを無視した。
「おじーちゃんがあんたたちに会ってあげるって。シャルロットも呼ばれたところだから案内したげるでちよ」
「あなたはまだお祖父さまにお会いしてなかったの?」
「まだでちよ。いままでお風呂入って、ごはん食べてたでち。ハラが減ってはケンカはできぬとか言うじゃないでちか」
「ケ、ケンカ………?」
「いいから来るでちよ」
そう言うなり背を向ける。慌ててアンジェラが別室のデュランたちを呼びにいった。
一同を引き連れ、シャルロットはどんどん神殿の中心部へと進んでいく。
「ど、どこ行く、シャルロット………?」
「礼拝堂でち。この時間、謁見の間はもう使えないでち。シャルロットが怒られるだけならおじーちゃんの部屋ですむでちけど、あんたしゃんたち、おじーちゃんに用があるんでしょ?」
やがて目の前に現れた重い扉をくぐると、そこは天井の高い開けた空間だった。
祭壇の手前に立っていた人物が、来訪を察知してこちらをふり向く。金糸の縫い取られた法衣をまとうことができるのは、神殿のなかでただ一人。
「あなたがたが、マナの女神様の祝福を得られますように―――」
祈りとともに聖印を切ると、シャルロットの祖父―――光の司祭は穏やかに微笑した。
老齢とはいえ背筋はぴんと伸ばされ、挙措のひとつひとつに威厳と落ち着きが感じられる。
説法で鍛えられたとおぼしき声が情感豊かに響き、その声と眼差しが父のジョスターに似ていることがリースの胸を痛ませた。
礼拝堂には壁に掛かった無数の蝋燭と、司祭が手にした燭台以外の明かりはなかったが、天窓から降り注ぐ幾筋もの月光が、幻のようにこの空間を彩っている。
ここがマナの女神を奉る総本山であることを、リースは改めて強く意識した。
ただひとつ奇妙なことがあるとすれば、最奥の女神像らしき塊に白い布がかけられていることだったが、夜分遅いこともあり特に気にするほどのことでもない。
光の司祭は燭台を傍らに置くと、一同へと歩み寄った。
「旅の方々。シャルロットが世話になったと聞く。この老いぼれからもどうか礼を言わせていただきたい」
言ったその司祭の目が、当の孫娘の姿を見咎めて、わずかに見開かれた。シャルロットは慌てて一同の後ろに隠れたが、遅かった。
「待たんかシャルロット!」
声量豊かな一喝にシャルロットはおろか、リースたちも驚いて立ちつくした。デュランが反射的に首をすくめる。
「そなたには部屋で待っているよう言ったはずではないか。なぜここにおる! 案内役の神官はどうしたのじゃ」
「………追っ払ったでち」
「ちょっと、あんた………嘘ついたってわけ?」
アンジェラが呆れて問うと、シャルロットは気まずそうに顔を伏せたが、すぐにキッと顔をあげて祖父を睨みつけた。その目は赤く潤んでいる。
「部屋で待ってなんかいられなかったんでち! シャ、シャルロットは、いますぐおじーちゃんに言わなくちゃいけないことがあるんでち………ッ!」
両の拳をぎゅっと握りしめたシャルロットの双眸から、ぼろぼろと涙が溢れだした。
突然泣きだした孫娘に、光の司祭は面食らった。
「ま、待たんかシャルロット………、そなたいったい、どうしたのだ?」
シャルロットが何を告げにここまできたか、リースたちにわからないはずがない。仕方ないわねとアンジェラが肩をすくめ、一同はとりあえず会話の主導権を彼女に譲ることにした。
「ヒ、ヒースがっ、大変、なんっ!」
しゃくりあげているせいで、シャルロットの言葉は自然と切れ切れになった。泣いている場合ではないというのに、やっと伝えられるかと思うと涙が止まらない。
小さな手が目元をぬぐう。
「シャ、シャルロットがつかまって………ひっく、へんなやつが魔法でうにょーん、びろーん、ばびゅーんってッ。それでっ、くっ、鎖が落ちてて、おおかみにんげんが………っ!」
一通り孫の言葉を聞いていた光の司祭は、眉間に皺を寄せて溜息をついた。
「そなた、それでは何が何だかさっぱりわからぬぞ………」
必死で説明していることはわかるのだが、泣いているうちに興奮してきたのか、リースたちに話したときよりもさらに支離滅裂になっている。笑ってはいけないと思いつつ、アンジェラとデュランが吹きだしかけた。
「だからッ! ヒースが………ッ!」
焦れたシャルロットが祖父の手に何かを押しつけた。
リースたちのところからも、燭台の明かりを反射したそれが金色に光るのが見てとれた。その光に、ここに来るまでのあいだにすれ違った神官の数人が額に金鎖を下げていたことを思いだす。
手渡されたそれに司祭の目が大きく見開かれた。
「これはヒースの………。何があったのだ?」
「だからーッ!」
顔を真っ赤にして怒鳴ろうとしたシャルロットの喉がヒュッと甲高い音をたてた。
慌てて背後からデュランがその口を塞ぐ。
「お前、落ち着けよ。呼吸のし過ぎで胸苦しくなるぞ。ほら」
「もがー!」
「顔真っ赤じゃねぇか。深呼吸しろ、深呼吸」
ますますいきりたつシャルロットの頭をぽんぽんとデュランが軽く叩く。年下の扱いに慣れていると思われる気安さだった。
呆気にとられている光の司祭に、リースが気まずそうな顔で事情を説明した。
「失礼ながら―――司祭さま、そのヒースという方は、どうやら転移の魔法を使う何者かによって連れ去られたのではないかと―――」
伝え聞きの形でシャルロットの身に起きた出来事を話すと、徐々に司祭の顔が険しくなっていった。
さらに話がジャドの様子とアストリアの焼き討ちに及ぶに至っては、その目が固く瞑られる。
「何ということだ………」
「―――不本意ながら、私たちはヒースさんの張った結界を解いてここを訪れました。申し訳ありません」
「いや。そうでなければ、シャルロットもまだ行方がわからぬままであった。最悪、獣人たちの手に落ちていたやもしれぬ。むしろ、わしはそなたたちに重ねて礼を言わなければならぬよ。よくここを訪ねてくれた」
「別に。あたしたちはどうしてもあなたに会う用があっただけだもの。お礼なんかいいわ。話さえ聞いてもらえればね」
「わしでよければ幾らでも耳を傾けよう。しかしそもそも、そなたたちをここに呼んだのはその用を聴くためなのだが、いやはや………」
司祭は苦笑して顎に手をやった。
「シャルロットが迷惑をかけてすまなんだ」
「メイワクなんかかけてないでち」
ようやっとデュランの手から逃れたシャルロットが、まだ目を赤くしたまま唇を尖らせる。
「すまぬが、そなたたちの話を聴く前に少し時間をくれぬか。神官たちに獣人の話を伝えておきたいのだが」
断りを入れると光の司祭は扉近くまで行き、守護の神官に何事かを命じて再び戻ってきた。少し慌てた様子で神官が立ち去っていく。
その様子を見守っていたシャルロットは、やっと肩の荷がおりたらしく深い溜息をついた。
「邪魔してごめんでち。もう邪魔しないから、ご用があるならさっさと言ったほうがいいでちよ」
「―――すまない。では話を聞こう」
司祭の言葉に、リースは背後のアンジェラとデュランをふり返った。
先刻、光の司祭に何も告げるべきことはないとの結論にリースは考え至っていた。真に用があるべきなのは、この二人だ―――。
しかし、当の二人が何か言いだす前に、ケヴィンが一同を押しのけるようにして前に出ていた。
「光の司祭、カール生き返らせて!」
いままでずっと我慢していたのだろう。よほど気が急いているらしく、琥珀の瞳に狂おしいほどの焦りが浮かんでいる。
だが切羽詰まった彼の様子よりも言われた内容にこそ、一同は絶句していた。
「お前………蘇生が目的だったのかよ」
「うん………、カール、大切な友だち。オイラのせいで、死なせた………! お願い、生き返らせて!」
デュランの問いに律儀に頷き、ケヴィンは司祭に向きなおると必死の様相で懇願する。
言葉を操ることが不得手なせいもあり、事情を上手く説明できないでいるケヴィンの話を、司祭は穏やかな表情で辛抱強く聞いていたが、やがてその言葉も途切れると、逆に問い返してきた。
「そうか。―――そなた、名は?」
「ケ、ケヴィン………。司祭さま、カールは?」
期待と焦りがないまぜになった顔で司祭を見あげる少年の瞳を、目を細めて司祭は見つめ返した。
「………よく聞け、ケヴィン。わしには死んだ者を生き返らせることなどできぬのだ」
ケヴィンが息を呑んだ。その肩が小刻みに震えだす。
生き返らせてもらえることを疑っていなかったのだろう。ほとんど恐怖に近い表情がその顔には張りついていた。
「そんな! だって、アイツ………」
司祭は静かに首を横にふる。
「ケヴィン、このわしとて生き返らせたい者はいるのだよ。だが、できぬのだ」
「うそ………」
「嘘ではない。どれほど願っても、この世界に生きるものにそれはできぬのだ」
聞きたくないと癇性に首が横にふられる。
「ケヴィン、生命あるものには、いつか必ず死というものが訪れる。それは避けては通れない、生きるもの宿命じゃ。生命はひとつ。かけがえのないもの。だからこそ皆、それを尊ぶ………」
司祭の言葉が重ねられていくにつれて、琥珀の双眸が暗く翳っていった。
ケヴィンを包む気配が悲哀に染まっていくのを、リースたちは背後から見ているしかなかった。
ここにいる。皆でここに来た。
だけど目的はひとりひとり違う。互いの事情を与り知らないまま、足並みだけを揃えてここに来た。ただ、見ているしかなかった。胸の哀みはケヴィン自身にしかわからない―――。
不意に、デュランがぼそりと呟いた。
「オレもよ、もし蘇りがかなうんなら、竜帝と刺し違えた親父に生き返ってほしいんだぜ。おふくろにもな」
弾かれたようにケヴィンがこちらをふり向いた。
「あ、デュラン………」
「―――だけどよ、無理なんだよ。そこのエライ司祭さまにだって、無理なんだ。どれだけ泣き叫んで駄々こねても、死んだヤツは生き返ったりしねぇんだよ」
素っ気ないデュランの言葉は、司祭に言われるよりもケヴィンにとってよほど重かった。
「それじゃあ、もう………カールは?」
「………いるだろ。お前ンなかによ」
デュランは無意識のうちに、いまは外してきた剣があるあたりに手で触れていた。
「オレのなかにだって親父がいる。まだ死んじゃいねェよ」
「デュランとやらの言う通りじゃ………」
司祭の声は優しかった。
「わしのなかにも、死んだ息子は生きておる。そしてその子であるシャルロットのなかにも生きておる。カールの生命は戻らぬが、その魂はいまもそなたの心に生き続けておるじゃろう?」
「………いる。カール、たしかにオイラのなかにいる。オイラ、忘れたりなんかしない。だけど、でも………!」
「そなたの心のなかにカールが生き続けておれば、いつかきっと、そなたのまえにカールの生まれ変わりが現れる日がくるじゃろう。―――生命は巡るものじゃ」
どう足掻いても無理なのだと悟り、ケヴィンは深くうつむいた。
伸び放題の蜜色の髪が、リースたちからその表情を隠してしまう。
ただ、固く握った拳が震えていた。
「獣人王………! 絶対、赦さない………!」
その独白に、司祭が怪訝そうに首を傾げる。
「………そなた、〈月夜の森〉からカールを生き返らせるために、ここまで来たのか?」
自身の失言に気づき、ケヴィンがハッと顔をあげた。
リースたちも多少慌てた。折しも、獣人たちがウェンデルを目指してジャドに侵攻したと話したばかりである。
シャルロットが祖父の祭衣の裾を引っ張った。
「おじーちゃん、ケヴィンはいい人でちよ。どーくつで足を滑らせたシャルロットを助けてくれたでち」
「ん? ああ、そうではないよシャルロット」
孫の勘違いに気づき、司祭は苦笑して、その頭を軽く撫でる。
それから、慈しみに溢れた目でケヴィンを見つめると、その手をとった。
「―――ケヴィン、ここまで遠かったじゃろう。すまぬな、願いをかなえてやれなくて………」
最初、ケヴィンはきょとんとして司祭の言葉を聞いていた。
何を言われたのかわからなかった。
ここまで遠かったじゃろう―――。
言葉が届き、意味を理解したとき、見開かれたままの琥珀の瞳から涙が溢れだして、頬を濡らした。
「………う、ううん。あり、がとう………ありがとう」
―――母親が人間だったとはいえ、その母親は生まれたばかりのケヴィンを捨てて人間の世界へと帰っていってしまった。
獣人王国では聞きづらいような憎悪と怨嗟をこめて人間のことを話す。人間は獣人たちを迫害し、蔑み、月夜の森に追いやったのだと。
幼い頃からそれを聞かされて育ってきたケヴィンは人間が怖かった。
獣人化する自分自身が怖かった。自分を怖がる人間も怖かった。
それを、いい人だと。助けてくれたと。そして、遠かっただろうと。すまないと―――。
ケヴィンは泣きながら何度も頷いた。
言葉をあやつることは不得手だった。
それでも、その言葉が自然とケヴィンの口を衝いて出ていた。
「ありがとう―――」