第五章 運命の渦〈奔流〉 〔4〕

「―――次はオレでいいか?」
 ケヴィンが泣きやんだころに、少々罰が悪そうな顔をしたデュランがそう言って、一同の沈黙を破った。
 それを聞いた司祭は、呆れた顔で一同を見回した。
「なんじゃ、もしやそなたたち、皆ばらばらにわしに用があるのか?」
「実はそうなのよ」
 アンジェラが肩をすくめ、デュランを示す。
「まあ、あたしとこいつは訊きたいことは一緒だけどね」
「私は特に何もありませんので、後で祝福をいただければ………。どうぞ、デュラン」
 微笑して、リースはデュランに先を譲った。
 何もないと言い切ったリースを、物珍しげに司祭が見つめた。
 それから不意にその目を見張る。
「そなた、もしや、ローラントのリース殿ではないか?」
 愕然としたのはリースだけではない。アンジェラもデュランも驚いた。
 いまのリースは槍も手にしていなければ額冠サークレットもしていない。司祭に拝謁するのに帯刃など論外であるし、額冠は濡れた髪に置くのが嫌でそのままだった。いまのリースを見ても、まずその身分を言い当てるのは不可能なのだ。
「リース、王女さまだったんでちか?」
 シャルロットが呆気にとられて呟いた。
「憶えておられたんですか………」
 知らずリースの声が震えた。
 数年前にジョスターが失明した折り、一縷の望みをかけてローラントは光の司祭を招聘しょうへいした。結局、光の司祭の力でも回復はならず、司祭とその供としてついてきた銀髪の若い神官は力が及ばないことをしきりに詫びながら帰途についた。
 当時、十歳だったリースは名高い光の司祭でさえ父王の目が治せないことが口惜しく、うまく笑うことができない自分を恥じて、ほとんど司祭の前に出なかった。
 だから、まさか司祭が自分を憶えているとは思いもしなかった。
 リースの驚きように光の司祭が苦笑する。
「忘れはせんよ、その白金の髪と空の瞳。大きくなられたな。ますますお母上に似てこられた」
 さらにリースは絶句する。
「母もご存じなんですか?」
「一応、そなたの両親の婚儀を司ったのはこのわしでな―――ジョスター王は息災であられるか?」
「…………ッ」
 当然ながらそう尋ねられ、リースはきつく唇を噛みしめた。
 アンジェラとデュランが気遣わしげな顔を向けるのに気づかないふりをして、リースは固く目を閉じた。
 光の司祭への崇敬とはまた別に、いまの自分が特に乞うべき教えなどないと思っていた。受けるべき助言もないと思った。
 ―――しかし、問われた以上、答えなければならない。
 言わずにはすませられない。
「父は………亡くなりました」
 司祭が瞠目する。
「つい先日のことです。南の砂漠の盗賊団に城は強襲され、父は討たれ、弟も攫われて行方が知れません。………ローラントは、落ちました」
 告げられる内容に司祭は声もなく聞き入っていたが、南の砂漠という単語にわずかに引っかかりを覚えた。
 二週間ほど前、神殿を訪れた砂漠の客人に自分は何と告げたか。
 呪いの解呪法を探している―――そう言った彼に望む答えを返せなかった自分は、北の魔法王国の蔵書ならば、あるいはと。そしてまた、会うには困難を要するが、ローラントを守護する〈翼あるものの父〉ならば、何か知っているやもしれぬと、言い添えたのではなかったか。
 するとその客人は驚いたように沈黙した後、ぽつりと言った。ならば、忠告がてら行ってくる―――と。
 その忠告とは、もしかせずとも―――。
 無意識のうちに苦悶の声が司祭の喉から洩れていた。
「何ということだ………」
「私は、国も父も守れなかった。だからせめて、この命に代えてもエリオットを助けだしたいと思います」
 リースは片膝をつき、こうべを垂れた。
「司祭さま。どうか、父と城の者に冥福の祈りを。そして、私がこれから為すことに祝福を―――」
 欲したのは女神の教えではない。助言でもない。
 ただ慰めがほしかった。
 司祭は無言で乞われるままに手を伸べた。指が聖印を切り、祈りの聖句が紡がれる。
 やがてリースの頭にそっと司祭の手が触れた。
「汝の道行きに、女神の加護がありますように―――。ジョスター王と亡くなられた者たちの冥福を心から祈ろう。惜しい方を亡くされた。そして、すまぬ。わしにはこのぐらいしかしれやれぬ………」
「いいえ」
 立ちあがり、いっそ晴れやかにリースは告げた。
「司祭さまがお気に病まれることはありません。祝福していただけただけで充分です。これで私はローラントに帰れます」
「帰るの !?」
 仰天したアンジェラに、リースは迷いなく頷いた。
「ええ。その前にサルタンに行こうと思っていますけれど………どちらにしても、私は戻らねばなりません」


(待って………)


 不意に、ささやくような思念がリースの言葉を遮った。
(ごめんなさい。お願い。待って、リース………)
 その思念はリースだけではなく、場の全員の意識に響き渡り、意思を伝えてくる。
「だ、だれの声でちか !?」
 シャルロットがきょときょとと辺りを見回した。
 事情を知っている三人はリースを注視する。
 いきなり場に割りこんできた妖精にリースは唇を噛んで、己の胸を押さえた。
 胸騒ぎがした。
 妖精は何に対して「待て」と言っているのだ?
 彼女の不安をよそに、押さえた胸のうちに二度目の熱が生じた。
(………お願い。わたしに先に話をさせて)
 熱は凝り、徐々に大きくなると、ふうッと外へと抜け出した。灯火と月明かりだけの礼拝堂に、虹を帯びた皓い光が溢れる。
 シャルロットがこぼれ落ちんばかりにその目を見開いた。
 司祭の声が驚きのあまりかすれる。
「なんと。妖精か―――!」
 不謹慎にも、このまま司祭の心臓が止まるのではないかとデュランがいらぬ心配をしたほど、その驚きようは尋常ではなかった。
 闇のなか、金の翅脈から虹色の光を撒き散らして飛ぶ妖精は夢幻のように美しく、その闖入に憮然としていたリースでさえ、ひとときそれに見入った。
 シャルロットが思わずといった様子で伸ばした手をすり抜け、妖精は司祭の眼前まで飛んでくると、今度は思念を使うことなく、か細い肉声で話しだした。
「司祭さま、わたしはマナの聖域からまいりました―――。お伝えすることはただひとつ。世界からマナが減少し、聖域のマナの樹が枯れ始めています………」
 司祭が思わずといった様子で、背後の布に隠された女神像をふり仰いだ。
 残されたリースとアンジェラは互いに顔を見合わせる。
 マナが減少していることはアンジェラも知っていた。リースもマナに異変があることを風を通して感じていた。
 しかし、聖域のマナの樹が枯れる・・・・・・・・・・・―――?
「―――マナの樹が枯れれば、マナストーンに封印されし神獣たちが目醒めよう」
「はい………」
「そうなってしまえば、世界は滅ぶしかない」
「仰る通りです」
 司祭と妖精が交わす会話の内容に、場に水を差されて憮然としていたリースとアンジェラ、デュランはおろか、事情のわからないケヴィンとシャルロットさえ呆気にとられて、互いに顔を見合わせた。
「おじーちゃん、どうちたの? とうとうもーろくしたでちか?」
「お前、そりゃねえだろう」
 デュランが呆れると、彼女はわずかに唇を尖らせた。
「だって、急に世界がほろびるだなんて、どうかしてるでちよ」
「そりゃそうだが………」
「―――世に争乱の兆しありしとき、マナの変動生ず。これ、より大いなる災いの呼び水とならん。呼び起こされし災いに世に滅びの影落ちし時、聖域から妖精が訪れん」
 神殿に伝わる伝承と思しき一説をそらんじた司祭は、少々不謹慎な己の孫を軽く睨みつけた。
「冗談でもなんでもない。事実じゃ」
 そう言われても、リースたちは戸惑うしかない。
 何かがおかしいことは、たしかにリースたちも知っている。アンジェラは忍び寄る寒さのなかに、リースは吹きすさび泣く風のなかに、デュランは故郷の狂い咲きの花のなかに、それを感じとっていた。
 しかし、それらひとつひとつは些細なもの。これらから、より大きなマナの変動を感じとれと言われても、困る。最近は前と違って少しおかしいな、ぐらいの感覚でしかいられない。
 そこにいきなりマナの樹が枯れて世界が滅ぶだろうと言われても、信じろというほうが無理だった。
 彼女たちの当惑をよそに、光の司祭と妖精の会話は続いていく。
「先ほどリース殿から現れたように見たが、当代の宿主は―――」
「ええ、彼女です」
 漠然と抱いていた不安がますます強く膨れあがり、リースの脳裏で警鐘を鳴らした。
 ―――何かがおかしい。
 この場に妖精と共に漂う、強烈な違和感と不安感は、何だ?
 向けられた光の司祭の視線にリースはたじろいだ。
 先ほど祝福を願ったときとは、その表情が違う。慈愛と憐憫に満ちていたはずの顔が、どこかおそれをこめた強いものに変わっていた。
「リース殿………、そなたは妖精に選ばれし者であったのだな。聖域に赴き、マナの女神様をお起こしする………」
「何のことですか?」
 リースの形の良い眉が、思い切りひそめられた。
 それはアンジェラとデュランの二人とて例外ではない。おそろしく怪訝な顔をして司祭と妖精を見た。
「私はこの妖精が飛ぶ力が残っていないというので、ここまで連れてくるという約束をしただけです。彼女とはここまでの約束のはずです」
「ごめんなさい。違うの………」
 消え入るようなか細いその声が、リースの思考を止めた。
 注視するその先で、妖精はその虹色を帯びた瞳を伏せて恥じ入っている。
 その様子がリースの記憶を刺激した。
 ウェンデルまでだと告げた自分に、この妖精は謝るばかりで一言もそうだとは言わなかった。
 何の反論もせず、沈黙を守り続け。
 ただ謝るばかりで―――。
「あなた………」
 炎の光を受けて、双眸が燃えあがる蒼炎となって揺らめいた。
「あなた、最初からそのつもりだったのね…………!」
 怒りがリースの足元から颶風ぐふうとなって噴きあがるようだった。その気配の激しさにアンジェラとシャルロットが、ほぼ同時に後じさる。
 殺気さえ孕んだその視線を受け、妖精はますます申し訳なさそうに身を縮こまらせた。
「ごめんなさい………。わたしたちは聖域の外では、誰かに取り憑いていないと死んでしまうのよ。あの時、あなたに逢っていなければ、あのまま死んでいたわ………」
「ですから、それはウェンデルまでだと私は言ったはずです」
 傍で聞いていたデュランがひやりとするほど、落ち着いた口調だった。抜き身の刃物か鎌鼬かまいたちを思わせるような冷ややかさだ。
「こうしてたどりついたのですから、どなたかあなたにふさわしい神官職の方に取り憑いてください………!」
 さすがに目の前の司祭に取り憑けとは言わなかったが、リースとしてはむしろそうしてもらいたいぐらいだった。いちばんふさわしいといえば、ふさわしい。
 無言の意図を感じとったのか、司祭が首をふった。
「それが出来れば苦労はせん。妖精は一度宿主を選んでしまうとその宿主が死ぬまで、一生離れることはできんのじゃ」
 リースの目が見開かれた。デュランが息を呑み、アンジェラが両手で口を覆う。
 沈痛な面持ちで、それでもはっきりと妖精が頷いた。
「ごめんなさい………わたしは、あなたを選んだの」
 ゆるやかにその翅が上下するたびに、鱗粉に似た光の粉を撒き散らす。きらきらと瞬きながら、ゆっくりと宙を泳ぎ消えていく。
 呆然とリースはそれを見た。
 死ぬまで。
 まだ自分は十六だ。これからのことを思うと、いつどこで命を落とすとも知れなかったが、それでも寿命からすると、まだ途方もない時間がある。
 それを―――。
 聖域に行く?
 女神を起こす?


 何だ、それは。


「冗談じゃありません」
 気がつけば、乾いた口調でリースはそう言っていた。
「私にはそんなことをしている暇はありません」
「ごめんなさい! 黙っていて本当にごめんなさい。でも、あなたしかできないの。あなたしか世界を救えない」
「私が世界を救うんですか? それ以前に世界が滅ぶ? それこそ何の冗談です」
「冗談などではない」
 不意に司祭が厳しくそう告げた。
「マナは異変を告げておる。バストゥークの〈父〉の信託を受けるそなたが気づかぬはずはない」
「…………」
 黙りこんだリースに背を向け、司祭は女神像を覆う白い布に手をかけた。
 布を取り去ると、手にした燭台が高く掲げられる。闇に滲む明かりの輪のなかに、血の涙を流し続ける女神像が浮かびあがった。
「マナの樹が枯れてしまう前にマナの剣を抜き、女神様をお起こししなければならぬ………辛いが、そなたにしかできぬ。妖精はもうそなたを選んでしまった」
「ごめんなさい。わたしはあなたを選んでしまった。あのとき、あの場所で、あなたはわたしに出逢い、わたしは否応なくあなたを選んでしまった。そうなるしかなかった」
「違うわ!」
 激高した声はリースのものではなかった。
 妖精が驚いた顔で、怒りで顔を赤くしたアンジェラをふり向いた。
「あんたは知らないでしょうけど、あのときあたしもいた。デュランもいた! ケヴィンもいたし、離れていたけどこのシャルロットもいたのよ! みんな、少し間違えばあんたを取り憑かせていたかもしれないのよ。リースがそうなるしかなかっただなんて、そんなことないわ! 馬鹿なこと言わないでッ!」
「でも、実際に私を水から助けだしてくれたのはリースだったわ」
 迷いのない落ち着いたその口調に、アンジェラが絶句した。
 その後に続けるようにして口を開いたのは、いままで黙って事の成り行きを見守っていたデュランだった。
「あのとき、お前を追いかけようと言いだしたのはオレだ。リースはそれに付き合っただけだ。そもそも、ここに来る用事自体がリースはなかったんだ。あのままジャドにいてもよかった。お前がリースを選んだのは、全部偶然だ」
 妖精はデュランを見、それからリースを見た。
 デュランの言葉の意味を考えているようだったが、やがて首を傾げてこう言った。
「偶然は女神のはからいと言うでしょう?」


「―――ふざけないでッ !!」


 リースの怒鳴り声が礼拝堂に響き渡った。
 その声に宿った怒りが、波濤のように妖精の全身にぶつかって砕ける。
 愕然とリースをふり向いた妖精に対して、彼女は目も合わそうとしなかった。
「偶然は女神のはからい? 私にしかできない? ただ、あなたと出逢っただけで? あのとき足を滑らせただけで? くだらない………ッ!」
「リース………!」
 妖精は何がそれほどリースを激高させたのかわからず戸惑った。
 自分が彼女を選んだことに対して、心底怒りを覚えているのはわかる。突然のことだし、断りもなく選定したことでリースが当初から不快感を覚えているのも知っていた。容易に受け入れてはもらえないだろうとも覚悟していたが、これほどまで拒絶されるとは思ってもいなかった。
 しかし―――もう選んでしまったのだ。
 やり直しはきかない。あきらめるなど論外だ。自分に与えられたさだめは、マナの剣を抜く人間を選び、その者を聖域へと導くこと。
 自分が選んだ者が、すなわち世界を救うさだめを負う者。
「くだらなくなんか………! 何も言わずにあなたを選んでしまったことは、謝るわ。でも―――」
「そうなるしかなかった、ですって?」
 リースの怒りの激しさが、妖精の言葉を途切れさせた。
「そうなるしかなかったなら―――はじめから、あそこであなたを見つけることが決まっていたのなら、城が襲われ、エリオットが攫われ、目の見えない父が嬲り殺されるのも全部決まっていたというの !? 私がぼろぼろになってジャドまでやってくるのも、全部あらかじめそう定められた必然だったとでも !?」
 妖精は息を呑み、自身の失言を悟った。
 宿ったのはいいものの、まだ事情も何も説明していない宿主の内面を探ることははばかられて、心を読まずにいた。それが仇になった。
 女神のはからいなどと、言ってはいけなかった………!
 宙で身を竦ませる妖精を一瞥し、リースは言い捨てた。
「私は、あなたなんか認めません………!」
 司祭にも妖精にも背を向け、リースはこの場から立ち去った。



「………ごめん。悪いけど、あたしもリースに賛成」
 沈黙を破ったのはアンジェラだった。
「ほんとにリースはここに来る気なんかなかったのよ。あたしが誘っただけ。あんた、どうせならあたしに取り憑けばよかったのよ。どうせうちのお母様たち、マナの剣欲しがってたしさ―――」
 冷ややかな口調でそう言われ、妖精はうなだれた。
 もう何を言っても遅い。自分はリースを選んだ。たとえそれがどんな経緯であれ。
 しかし今となっては選んだことすら後悔しかけていた。
 宿主とのあいだに生じた繋がりから、リースの怒りとともに、それによって喚起された彼女の記憶が流れこんできた。いままで読まずにいたそれはあまりに惨く、彼女一人の意思ではどうにもならない力の奔流だった。
 それが全部、そうなるべくしてなったことだなどと言ってはいけなかった。
 それを認めてしまうと、妖精と出逢うためだけに彼女はすべてを失ったことになり、その死と絶望のすべてに対して妖精は責を負わねばならなくなる。
 自分の意思ではどうにもならない不条理な出来事にリースは打ちのめされ、それらを激しく憎悪していた。
 個人の意思を無視して、人を動かす力―――それは妖精がやったことと何も変わらない。
「わたし、どうすれば………」
 不覚にも妖精は泣きだしてしまいそうだった。
 やがて司祭が重い口を開いた。
「リース殿にも考える時間をくれてやってはくれまいか。いきなり言われても、到底納得できぬことじゃ………。今夜はもう遅い。休まれるがよかろう」
「くそっ、やっぱりオレがあのとき道を迂回してりゃよかったんだ………!」
 デュランが、がしがしと髪を掻きながら勢いよくそう吐き捨てた。
 いつのまにか月は雲に隠れ、雨粒が天窓を打ちはじめていた。