第五章 運命の渦〈奔流〉 〔5〕
事態がどうにも面白くない方向に転がりだしている。
生来の短気を出さずにあの道を迂回し、湖に出ていれば、妖精に触れていたのは誰だっただろう。それとも場の全員のなかで、やはり妖精はリースを選んだのだろうか。
「チクショウ―――っ!」
部屋に戻って来るなり、デュランは勢いよくそう言い捨てた。
そこに遠慮がちなケヴィンの声がかかる。
「デュ、デュラン………」
デュランはそちらをふり向き、軽く舌打ちした。
自分が苛立っても仕方がない。
「………ああ、悪ィ。何だ?」
「あ、あの、ごめん。オイラ、妖精が言ってること、よくわからなかった………」
「あァ?」
つい声を荒げたデュランに、ケヴィンはますます縮こまった。
これではいけないとデュランは慌てて反省する。
「い、いや、悪ィ。お前は別に悪くねぇよ。そりゃいきなり世界だマナだ聖域だって言われて、ワケわかるほうがおかしいんだ」
溜息をついて、デュランは寝台に腰を下ろした。
「要するに、何か世界がヤバイんだとよ。んなこと言われても信じられるかっつーんだが、とにかくそれを何とかするには、マナの聖域まで行って、マナの女神を起こさなきゃいけないらしい。それをする人間を選ぶのが、あの妖精らしいな」
「妖精が選んだのが、リースなのか?」
「別に妖精はオレでもお前でも良かったんだろうよ。あのとき、たまたまいちばん先に妖精を見つけちまったのがリースなだけだ」
言われたことを懸命に反芻していたケヴィンが、ふと顔をあげた。
「リース………な、何であんなに急に、怒りだした?」
「そりゃ怒るだろうよ」
デュランは軽く半眼になって天井を見あげた。
「………お前、ジャドでオレたちの話、どこから聞いてた?」
「え、ええと………アンジェラがどうして、国出たのか、そのあたりから」
「じゃ、リースが何でジャド来たかわかってるだろ」
「う、うん」
どうもよく飲みこめていないらしいケヴィンに、デュランはひとつ唸ってから例え話を持ち出した。
「だからな、お前はカールって親友を生き返らせたくてウェンデルまでやって来ただろ? 逆を言っちまえば、そんなことがなければここまで来たりしなかった。―――もし、お前をここまで来させて妖精と出逢わせるためだけに、カールが死ぬ運命だったとしたら………お前、赦せるか?」
ケヴィンはほとんど飛びあがらんばかりにして首を横にふった。
「そんなのイヤだ………! 赦せない。カール、そんなことで死んだりしない!」
「それと同じことだよ………まいったな」
ぐしゃりと髪を掻きあげ、デュランは顔を歪めた。
つい先ほどまでは、マナストーンから素質を引きだす方法を知り、さっさと国へ帰りたかった。アルテナの紅蓮の魔導師と思われる間者の侵入を許してしまったフォルセナは、現在大急ぎで戦の準備を整えている最中だ。
そんな時期に国を出るなど本来ならば許されることではない。
甘えを許してくれた王に報いたいと、マナストーンの手がかりを求めてここまで来たはずなのに、その目的を果たすどころか、己のせいで理不尽な目に遭わせてしまった者がいる。
デュランのせいではないとリースは首を横にふるだろうが、それこそデュランにとって納得がいかないことだった。
あの夜、光を追おうと言いださなければ―――。
短慮から、獣の巣に突っこんだりなどしなければ―――。
結果は変わっていたはずだ。妖精がリースを選ぶことなどなかったはずだ。
それはどう考えても自分のせいだった。
簡単にその責を投げだしていくことも、見捨てていくことも、デュランの性に合わなかった。信念などという立派なものではない。ただ自分の好き嫌いに忠実であるのと、筋が通らないことは嫌なだけだ。
おまけに、妖精が出現してからの司祭の言動と態度からするに、いまとなってはマナストーンのことを尋ねても容易に教えてはくれないだろう。
このことでも時機を逃してしまっている。
「チクショウ………何だかオレも踊らされているみたいで腹が立つ」
「デュ、デュラン、どこ行く?」
「ちっと風にあたってくる」
「風って、外、雨ふってる………」
「関係あるか」
機嫌悪く吐き捨てると、デュランは部屋を後にした。
アンジェラが部屋に戻ると、リースの姿はなかった。
槍も見あたらず、一瞬アンジェラの心臓が跳ねあがったが、額冠や革鎧などの他の荷物は置き去りにされているので、飛びだしていったわけではないだろうと安堵する。
冷め切った卓上の夕食を眺め、アンジェラは重い溜息をついた。
結局、デュランとアンジェラの目的であるマナストーンについて話を聞くことはできなかったが、それどころではなくなっていた。
リースに対する申し訳なさで胸がいっぱいで、アンジェラは思わず手で顔を覆った。
誘わなければよかった。ウェンデルになど。
自分が一緒に行こうといいさえしなければ、リースがこんな目に遭うこともなかったはずなのに………!
城中の者を殺され、その骸を後にしてジャドまで来るしかなかった彼女が、何でさらにマナの聖域まで行って女神を起こしてこいなどと言われなければならないのだ。
この世界のどこにもない場所。生身で行けるかどうかもわからない場所。マナの聖域。
自分の母が望み求める、その場所へ―――。
マナストーンの封印を解き、聖域への扉を開き、マナの剣を抜く。
母と紅蓮の魔導師がやろうとしていることは、妖精が望むことと何ら変わらない。
いっそのこと、本当に自分に憑いてくれればよかったのだ。
そうすればこの為にここへ来たのだと、思えたかもしれない。母からあの眼差しで見られることも、国から手配されることもなくなるかもしれない―――。
しかし妖精が選んだのはリースだった。自分ではない。
どう足掻いても、それは変えられない。
外では雨が降っている。
けれど、リースはアンジェラが探しに来ることを望みはしないだろう。
唇を噛んで、アンジェラは部屋を後にした。
探すためではなく、ひとりで部屋にいたくないがためだった。
アンジェラが外回廊に続く扉を押し開けると、そこには先客がいた。
どういうわけか―――わけもなく、アンジェラは小さく息を呑んでしまった。
気配に気づいた相手がこちらをふり返り、ああ、という顔をする。
相手の肩越しに濡れた夜の大気が広がっていた。下げられた洋燈の明かりに、煙るような雨が幾千もの光の筋となって輝く。
「何やってんだお前?」
めんどくさそうにそう尋ねられ、アンジェラは息を呑んだことも忘れてカチンときた。
「あんたこそ何してるのよ」
「別に。風にあたってるだけだ」
「―――あたしも似たようなもんよ」
アンジェラは扉を閉めると、デュランから少し離れたところに立った。
それで、会話は途切れてしまった。
先ほどの礼拝堂での一件を切り出す気にもなれなかったし、他のことを話そうにも何を話せばいいのかわからなかった。
アンジェラは手摺りに両手をついて、神殿の前庭へと目をこらした。来るときに見たはずの広い前庭は、いまは墨で塗りつぶされたように何も見えない。庭を挟むように左右に伸びている柱廊の篝火が、ぽつぽつと等間隔に闇に滲んでいるだけだった。
鼻先にぽつりと雨粒があたり、アンジェラは顔を引っこめた。
「リースはどうしてる」
不意にデュランがそう言い、アンジェラは思わず彼のほうを向いたが、相手は闇を見つめたままだった。
先ほどからどうにも居心地が悪い理由を探していたのだが、デュランの一言でそれがリースがいないせいだということに気づく。
そもそもデュランと出会ったあの椿事のときからして、すでに自分とリースは一緒だった。そのあとすぐにケヴィンも加わり、四人でここを目指したことを考えれば、二人きりになるのはこれが初めてということになる。
草原の国フォルセナの―――人間。
あらためてそれを意識してしまい、アンジェラは慌てて普通を装って口を開いた。
「部屋にはいなかったわ。荷物はそのままだったから、神殿のどこかにいると思うけど」
「そうか」
言って、デュランはまた黙りこんでしまった。
二人ともわかっている。
司祭と妖精があれほど口を揃えて告げたのだ。宿主は変えられない、と。リースに拒否権などない。
もちろんリース自身もそれを敏感に悟ったからこそ、すさまじいまでの反発を見せている。そんな理不尽なことなど、赦されるはずがないと。
リースも自分たちも、己のことすらどうにもできず、翻弄されるままにここにたどりついた。自分の身すら処せないというのに、世界を救えといわれても困る。あまりにも分不相応だと感じるだけだ。世界には他にも、もっと自分たちより強くて立派な人がどこかにいるはずなのに。
それなのに、リースでなければだめだという。
立派だからでも強いからでもない。ただ、妖精が選んだから。それだけの理由で。
「あの、さ」
「あ?」
「あのさ、これからどうするの………?」
「どうもこうもあるかよ」
デュランは拗ねたように手摺りの向こうへと顔を背けた。
「オレはマナストーンの話を聞くまで帰らねェ。無理言って国を出てきたのに、どのツラさげて何の進歩もなく帰れるかってんだ」
「じゃあ、マナストーンの話を聞いて、強くなれたら、帰るの?」
デュランは黙りこんでしまった。
彼にも自分にも心残りがある。―――リース。
瑠璃色の瞳がアンジェラをちらりと見た。
「フォルセナに帰るにしても、このままリースに付き合うにしても、どっちにしても、最後にはお前ンとこの魔導師に会う。それは間違いねェ。マナの剣、狙ってるんだろ?」
アンジェラの心臓が大きく音をたてた。
そうだ。アルテナはマナの剣を欲している。あの永久凍土の王国を救うために。それをデュランに話したのは自分だ。
アルテナがフォルセナに戦争を仕掛けると、はっきり彼に明言したのも。
唇を噛んでうつむいた彼女に頓着せず、デュランは続けた。
「だから、オレはまだわからない。どうするかなんざ、その時になってから決める」
行き当たりばったりだ―――と思ったが、アンジェラは口には出さなかった。
代わりに別のことを言った。
「あたしは、リースと行こうと思う」
はっきりとしたアンジェラの口調に、デュランが驚いた顔で彼女を見つめ返した。
湿気た夜風が回廊に吹きこみ、アンジェラの紫の髪を揺らしていく。
「お前、それ………わかってンのか?」
「何が?」
「下手しなくても、自分の国敵にまわすことになるんだぞ?」
「………そうとは限らないわ」
小さな声でアンジェラは反論した。自分でも信じていないような口ぶりだった。
「リースがマナの剣を手に入れれば、アルテナの寒さも何とかしてもらえるかもしれないわ。お母さまがマナの剣を手に入れようなんて考えたのは、マナが減少して、寒さがひどくなったせいだもの。それが何とかなればいいはずだもの。あたしがそれを手伝ったってわかれば、あたしのことだって、認めてくれるかもしれないじゃない………」
アンジェラはなかば顔を伏せて話していたため、デュランの表情に気づかなかった。
本当に、それで収まるのだろうか―――?
そういう顔だった。
そしてその不安は、デュランだけでなく、希望を口にするアンジェラ自身のうちにも渦を巻いているものだった。
あの紅蓮の魔導師の双眸に宿る蒼炎は、アルテナの危機さえ救えればそれで鎮まるようなものとは思えなかった。
ただそれを言ってしまったが最後、現実となってしまうようで、お互いどうしても口に出せない。
「結局、あたし………ここを出てもアルテナには帰れないもの」
この自分の身柄には懸賞金がかかっている。行く当てなどない。ただ占いの老婆の言葉だけを頼りにここへ来た。
やがてデュランは細く息を吐いて、髪を掻いた。
「お前が自分でそう決めたんなら、そうしろよ。誰にも文句は言えねェよ。どっちにしろ、肝心のリースが納得しなけりゃどうしようもないだろ」
「うん………」
突き放したような言い方に、逆に心がなだめられていくのがわかった。
「オレにしたって、フォルセナに帰るにしろ何にしろ、リースがどうするか決めてからじゃなけりゃ気になって仕方ねぇよ」
「うん、そうよね」
そう言って、アンジェラは小さく笑った。
不思議と穏やかな気持ちになり、このまま部屋に帰ろうかとも思ったが、続くデュランの言葉によって、その気持ちも一気に吹き飛んでしまう。
「―――お前も、いつか国に帰れるといいよな」
何とも呑気な声だった。
愕然としてアンジェラは相手をふり向いていた。
何をどうしたら………、自分の国に戦争を仕掛けようとしている相手国の人間にそんなことを言えるのだ !?
下手をすると、互いの帰る国のどちらからが敗戦により消えてしまうかもしれないというのに。
二、三度、大きく呼吸を繰り返してから、アンジェラは尋ねた。
「………あのさ、ジャドの酒場の二階で、あたしとリースの話を聞いて、どう思ったの?」
「はァ?」
唐突に変わった話題にデュランは怪訝な顔をしている。
「何だお前急によ」
「いいから。あたしがアルテナの王女だってわかって、どう………思ったの」
「どうって………別に」
あっさりしたデュランの返答に、アンジェラは逆に腹がたった。
「別にって、あんたそれでよかったの !? あんたの国に戦争を仕掛けようとしている国の王女なのに !?」
アンジェラの剣幕にデュランは目をみはり、ややあって呆れたような顔になった。
「お前、勘違いしてるぞ。フォルセナに攻めてくるのがアルテナだって、はっきり知ったのはお前がそう言ったからだぞ? その前までは、あの赤マントの魔導師がアルテナの紅蓮の魔導師だっていう、はっきりした証拠はなかったんだ」
「………ッ! じゃあ、それ聞いてどう思ったのよ! あんた、あたしのこと憎いとか思わなかったの !?」
―――何だってそう呑気に、いつか国に帰れるといいななんて言えるのよ !?
ここまでの旅のあいだじゅう、心の奥底で気にかかっていたことを爆発させたアンジェラに、デュランは気圧されたように何度か口を開閉させた。
彼としてはただ、お互いの国同士の関係はひとまず脇へ置いておいて、ここまで一緒に旅をしてきた仲間として、アンジェラを取り巻く状況が好転して、国を追われるようなことなどなくなればいい―――ぐらいの気持ちで言ったのだが、その意を伝えるにはあきらかに言葉が足りず、また現在のアンジェラの心境ではそれを素直に受けとることなど不可能だった。
しばらく気まずい沈黙が漂う。
やがて、泣きそうな顔で睨みつけてくるアンジェラからふいと視線を逸らすと、デュランは吐き捨てるように呟いた。
「オレはそこまで恩知らずじゃねェんだよ」
「――――え?」
何のことかわからずアンジェラが立ちつくしたその脇を抜けて、デュランは神殿のなかへと戻っていった。
与えられた部屋へと戻りながら、デュランは舌打ちする。
彼女はもう忘れているかもしれない。
どんな気まぐれか、それとも単に面倒を嫌っただけなのか、何にせよ、真っ先に彼を庇う嘘をついたのは。
ジャドのあの酒場で、獣人兵から彼を最初に庇ったのは―――。
………アンジェラ、だったのだ。