第五章 運命の渦〈奔流〉 〔6〕

 シャルロットは敷布の上で、もう何度目かもわからない寝返りをうっていた。
 リースが突然退出してしまったのは、先刻のことだった。あれから、もう寝るようにと言われ、むりやり寝台に押しこめられたが、眠れるはずがない。
 色々あった「冒険」もひとまず終わり、やっと家に帰ってこられたはずなのに、少しも安心できなかった。
 外は雨が降っていて、微かな水音がする。
 こんなさみしい夜にはいつも枕を持って尋ねていく部屋に、今夜はだれもいない。さみしさを埋める温もりがどこにもない。
 それがどうしようもなく辛かった。
 祖父は険しい顔つきでひとり私室にこもったままで、迂闊に声をかけられなかった。ヒースは必ず助けよう、とシャルロットにそう言ってはくれたものの、どうやって―――とは言わなかったし、それがいつ―――とも祖父は言わなかった。
 祖父の言葉を信じていないわけではないけれど、胸のなかに空いた空洞がどうしても埋められない。
 ヒースはいまどこで何をしているのだろう。
 痛い思いとか辛い思いとか、していなければいい。シャルロットのことなんか考えていなくてもいい。その分、シャルロットがヒースの分も二人分考える。ずっと思っている。お祈りしているから。
 だから、ただ無事でいてさえくれればよかった。
 じわりと涙が溢れてきて、シャルロットは枕に顔を押しつけた。
 物心ついたときから過ごしてきた神殿の自分の部屋に帰ってきた途端に、張りつめていたものが緩んで、思いださないようにしていた光景が次々とよみがえる。
 自分を突き飛ばすヒースの腕。
 その瞬間のヒースの顔が、どうしても思いだせない。
 強いマナ。闇の球体。禍々しいその気配。
 伸ばした手は千切れ飛んだ金鎖にすら届かなかった。あまりにも小さな自分のこの手。
 いやだ。こんなのはいやだ。
 泣くしかできないなんて、いやだ―――。
 溢れだした記憶に揉みくちゃにされるようにして、シャルロットは起きあがった。
 すん、とはなをすすりあげ、ぐしぐしと拳で目元を拭う。
 腫れぼったくなってしまった瞼でぼんやりと部屋を見回すと、ふと窓帷カーテンの向こう側で何かが弱々しく光っていることに気づいた。
 怪訝に思って寝台を下り、とばりをめくると、濡れた窓硝子の向こう側―――重なる枝葉の奥に、ちらちらと瞬く光があった。
 その淡い虹色の光に、シャルロットは先ほど見た妖精を思いだしていた。
 世界の命運よりもヒースのほうが大事だったし、難しい話は聞いてもいまいちよくわからなかっため、リースの身に何が起きて、何に揉めていたのかまでは理解できなかったのだが、妖精の翅からこぼれる虹色の光だけは綺麗で、印象に残っていた。
 リースは怒って立ち去ってしまい、アンジェラたちもそれぞれ部屋に帰ってしまったあの後、妖精がどこに行ったかまではわからなかったのだが、もしかするとリースのところに帰るに帰れず、いままでずっと外にいたのだろうか。
 こんな冷たい、さみしい雨の降る夜に―――。
 思わずシャルロットは窓を開け、瞬く光に向かって呼びかけていた。
「妖精しゃん、こっち来ないでちか?」
 虹色の光のまたたきがふと激しくなり、ゆっくりと近づいてくるのをシャルロットは見守った。
 やがて木々の枝葉をそっとかきわけて、戸惑った様子で小さな影が現れる。泣きそうな顔をした女の子がシャルロットを見返した。
「あなた………?」
「妖精しゃん、こんなところにいたら風邪をひくでちよ。シャルロットのおへやで雨宿りしていくといいでち」
「風邪………?」
 不思議そうに妖精は呟いたが、シャルロットが手招きするままに窓から部屋へと入りこんだ。虹色の光が室内を柔らかく照らす。
「うわあ、キレイでちねぇ」
「ありがとう………」
 消え入るような声で妖精がそう囁いたが、あまり嬉しそうではなかった。おそらくリースのことで頭がいっぱいなのだろう。シャルロットは特に気にせず、窓を閉めると寝台まで戻ってその上によじのぼった。
「妖精しゃん、おそとで何をしてたでちか?」
 枕元までやってきた妖精が翅をたたんで、そっと寝台の枠に腰掛けた。虹色の燐光は弱くなったが、それでも薄物のようにその肢体を包んで輝いている。
「何もしてない………どうしていいかわからないの」
「それってさっきのことでちか? どうしてリースしゃんは、急にあんなに怒ったでち?」
 遠慮のないシャルロットの言葉に、妖精のその顔がいまにも泣きだしそうに歪んだ。
「わたしのせいなの。わたしが勝手にリースを選んだから………。そうなるしかなかったなんて、例えそれが本当のことでも言ってはいけなかったんだわ………」
「………よくわからないでち」
 シャルロットは困ったようにそう呟いて、寝台の上に両肘を立てて寝そべった。とても可愛いらしい妖精が泣きそうな顔をしているのに心は痛むが、それとはまた別に、淡く輝くその姿はいつまでも眺めていたいほどに綺麗だった。
「なら、妖精しゃんはリースしゃんにどうしてほしいんでちか?」
「わたしを………受け入れてほしい」
 妖精はシャルロットの指先ほどしかない小さな両膝を抱えると、翅を震わせた。
「わたしを受け入れてほしい。嫌がらないで。怒らないで。ゆるしてほしいの。わたしが勝手にしたことだけど、赦してほしい。わかってほしいの。そして女神さまを助けてほしい。わたしと一緒に聖域に行って、マナの剣を抜いてほしいの………!」
 翅が強く震え、ちりちりと虹色の光の粒子を撒き散らした。敷布にたどり着く前に闇に溶け消えてしまうその光が不思議で、シャルロットは束の間それに見蕩みとれる。
「―――だったら、そう言えばいいでち」
「ダメなの。きっと、いまわたしがそう言っても聞いてくれない。リースはとても怒っているわ」
「でも、妖精しゃんはリースしゃんにどうしてもそうしてほしいから、困ってるんでちよね?」
 妖精は抱えた膝に顔を埋めるようにして、コクンと頷いた。
「だって、このままだと世界は滅んでしまうもの………」
 ここに至ってシャルロットは、そもそも妖精が何だってこんなところまでやった来たのかをよく知らないことに気づいた。聞いたような気もするが、自分に向かって言われたことではなかったので、よくは憶えていない。
「妖精しゃんは、何でここに来たでちか? 妖精しゃんって本当はマナの女神さまのところにいるんでちよね?」
「わたしは、世界中のマナが減って、マナの樹が枯れはじめたことを光の司祭さまにお伝えするために来たの。そして、わたしと一緒に聖域に行って、マナの剣を抜いてくれる人を探すために」
「それがリースしゃんなんでちね?」
「ええ………」
 言って、妖精はうなだれた。
 リースだ。たがうことなく、それは彼女だ。
 なぜなら妖精が選んだからだ。ただそれだけのことだが、それをくつがえすものなど世界中のどこにも存在しない。
 しかしいまの状態では、リースは聖域に行くどころか、妖精の存在すらよしとはしないだろう。
 リースの記憶を知ったいま、彼女が自分に選ばれるべくして選ばれたなどはもう言えない。
 たしかにあのときまでそう思っていた。自分はマナの樹から生まれ落ち、唯一無二の女神に仕えるマナの紡ぎ手。自分が選ぶ、自分に選ばれるということは、それだけで意味があることなのだと。
 それがどれほど愚かしい考えであったかを、この短い時間のうちに妖精は悟っていた。リースの拒絶はそれほど激しかった。
 自分はあまりにも無力で力弱い。自分に剣は抜けない。女神を起こせない。聖域の外では人に縋らなければ、生きていくことすらできない。仲間は次々に絶え果てていった。残った自分も、力尽きるところだった。
 ―――あそこでリースに会わなければ。
 嬉しかった。
 あそこで会えた、そのことが嬉しかった。それだけで涙が出るくらい救われた気持ちになった。
 助けてくれた。だからこそ・・・・・
 だからこそ、運命だと思った。
 そう思うこと自体が、リースにとって許し難いことなのだとわかってはいても。
「ごほうびはないんでちか?」
「え………なに?」
 不意にシャルロットにそう言われ、妖精は我に返ると、慌てて目の前の半人半精の少女に目をやった。
 あえて打ち明けられずとも、妖精には気配でわかる。人間の血と共に、わずかに樹精ドリアードの気配も潜ませているのは、エルフの血が入っているからなのだろう。身のうちを流れるマナも強く、傍にいると気持ちが落ち着いてくるのはそのせいなのだということに、あらためて気づかされる。
「―――だから、ごほうび」
 シャルロットは唇を尖らせて繰り返したが、妖精にはさっぱり意味がわからなかった。
 翅が主の困惑をあらわして、ゆったりと揺れる。
「ヒースは、シャルロットががんばると、いつもごほうびをくれるでち。よくがんばったねって、そのときのシャルロットがいちばんうれしいと思うものをくれるでちよ」
 妖精の困り顔に気づいたのか、シャルロットが「だから」と続けた。
「何かおねがいするときに、ただやってって言ってもダメなんでち。そりゃ、どうしてもっておねがいされたら、やるしかないでちけど、それでもごほうびがあるのとないのとでは、やる気がぜんぜん違うでち。妖精しゃんは、リースしゃんに何かごほうびを用意してあるでちか?」
「え………っ?」
 思いも寄らないことを言われて呆然としている妖精に、シャルロットはしかつめらしい顔で告げた。
「妖精しゃんが、何かリースしゃんの役に立つようなことをしてあげられたら、もしかしたらリースしゃんは妖精しゃんのおねがいを聞いてくれるかもしれないでちよ?」
「わたしが、リースの役に………?」
 呆然と妖精は繰り返した。あまりにも予想外のことを言われ、驚きすぎてまだよく呑みこめないが、とても大事なことを言われたような気がした。
 ―――リースには目的がある。
 弟を助け、故国を取り戻すという、彼女にとっては何よりも大事な目的が。
 リースの内側から様子をうかがった限りでは、彼女と一緒にいた者もみな、それぞれ目的があってここを目指していた。
 そこに妖精の願いをただ押しつけても、聞いてもらえるはずがない。
 当たり前と言えば当たり前すぎるほどの真理だった。
「そっか、そうなんだわ………」
「ごほうび、あるんでちか?」
 翅がちりちりと細かく震えだし、妖精の高揚を伝えていた。それがわかってシャルロットも思わずにっこりとする。
「なら、リースしゃんにもそう言っていればよかったのに」
「ううん。あなたにそう言われるまで思いつかなかったの………。でも、そうよね。勝手にわたしの都合を押しつけても、聞いてもらえるはずがないわよね………」
 急に目の前が明るくなったような気がした。
「ありがとう。シャルロット」
「どういたちまちて、妖精しゃん」
 シャルロットはすました口調でそう言った。
 およそ聖域を旅だってから初めて、妖精は笑った。
 妖精の笑顔を見て、シャルロットも幸福な気持ちになった。ヒースがいないことがあれだけ哀しかったのに、少しだけ気持ちが軽くなった気がする。
 ―――ヒース。
 名案が閃いたのはそのときだった。天啓に打たれた勢いのまま、シャルロットは寝台から跳ね起きた。
「マナの女神さまが起きたら、世界は救われるんでちか?」
「え、ええ。そうよ。だから、マナがなくなってしまう前に、一刻も早くお起こししないといけないの」
 シャルロットの勢いに戸惑った様子で妖精が答える。
「マナの女神さまが起きたら、ヒースも助けてくれるでちか?」
「ヒースって………さらわれたっていう神官さまのこと?」
「そうでち。ヒースをさらっていったヤツは、とてもイヤな気配がしたでち。あれは絶対悪いヤツでち。マナの女神さまが起きたら、そういうヤツもやっつけて、ヒースを助けてくれるでちか?」
 シャルロットの意図を察し、妖精は少しためらったが、すぐにはっきりとうなずいた。
「ええ。マナの女神さまなら、きっとそのお願いをかなえてくださるわ」
「ほんとでちね? 妖精しゃん、シャルロット、女神さまにおねがいがあるでちよ。ヒースはいつもいっぱいお祈りして、とっても女神さまのこと大切にしていたでち。ヒースのお祈りは、女神さまのもとにいっぱい届いているはずでち。ヒースは魔法もいっぱい使えて、どんなケガでも治せるんでち。とても優しくて、強いんでち………!」
 必死に言いつのるうちに、シャルロットの双眸から涙が溢れた。
 妖精が発するほのかな燐光を反射して光る滴となった涙が、顎を伝ってぱたぱたと滴り落ちる。
「シャルロット………」
「おねがいでち。ヒースを助けて………!」
 妖精は寝台の枠からふわりと浮かびあがると、泣く少女の目前まで来て、その頬にそっと手を伸ばした。
 伸ばした指は温かく濡れてしまう。自分の手ではとても受け止めきれない涙。それだけの想い。
 そのヒースという人物は、どれほど想われているのか―――。
 伝わってくる真っ直ぐなその想いに、妖精の胸のうちも溢れて苦しくなる。
「泣かないで………ヒースさんのことは、マナの女神さまにお願いしてみるから」
「うん、おねがいでち………」
「そんなに立派な神官さまなら、きっとマナの女神さまも助けてくださるわ。だから、泣かないで………」
「ん………泣かないでち」
 言って、シャルロットはぐいと目元をこすった。
 実際、彼女が泣いていたのはほんのわずかのあいだだった。すぐに泣きやみ、はあっと全身で息をつく。
 それから腫れぼったい目のまま、シャルロットは妖精を見てにっこりと笑った。
 その笑顔に妖精は思わず惹きつけられていた。部屋の空気さえ変わり、少女を中心に光を放っているようだった。
「シャルロットは、泣くより笑っているほうがだんぜんステキだよって、いつもヒースが言ってくれるでち。―――だから泣かない。ヒースを助けるまで、シャルロットはもう泣くのはお終いにするでち」
 涙も笑顔も全部そのヒースという人物のため―――。
 溢れるようなそのマナに、妖精も包みこまれ、癒されていく。それは妖精の発する虹の燐光に溶け、柔らかく染みとおり深奥に達して、眠っていた何かをわずかに揺さぶった。希望が、芽吹く―――。
 リースのもとに行こう、と妖精は思った。
 宿主として選んだ彼女のことがとても好きだということを、今更のように気づかされていた。
 ろくに言葉も交わしていない。ただその身のうちに潜んで存在を触れあわせていただけだったが、リースの気配はすでに妖精に馴染み、彼女をとらえて離さなくなっていた。
 それは、とてもうつくしい風の気配だ。種を運ぶ、緑の薫風。
 この翅と共に翔ける風。
 どれだけ嫌われても、拒絶されても、あきらめずに話したい。自分の願いを聞いてほしい。彼女の望みをかなえたい。
「ありがとう、シャルロット。あなたの願いもかなえられるよう、わたし、リースのところに行くよ」
 シャルロットはまだ少し涙のにじむ目で笑うと、妖精を両手にそっとすくいあげた。手のひらからぽうっとこぼれる虹色の光に目を細め、晴れ晴れと笑う。
「妖精しゃん、がんばるでち。シャルロットも、がんばるでちよ」
 小さな手が窓を開き、そぼ降る雨のなかに差し出される。
 やがてその手のひらから、虹色の光が闇へと飛びたった。