第五章 運命の渦〈奔流〉 〔7〕
雨が降っていた。
降りはじめもわからなかった雨は、いまは霧とまがうような煙雨となり、ゆるやかに灯火の周囲を漂っている。
ここでは雨の降りかたまでもが、故国とはあまりにも違う。
風の王国では雨季と乾季が明確に別れていた。麓の漁港においては山から吹き下ろす風が、中腹の城においては絶えることのないその守護が、雨を逆巻かせ、霧雨でさえも風の動きを顕わにして流れていくものだった。山の天気は気まぐれで、自分の周りでは降っているのに、遠くに眺められる山は晴れて緑が輝いているようなこともあった。
こんな何もかも包みこみ、なだめて洗い流すかのような雨は知らない。
わずらわしげにリースは頭をふった。微細にまといついていた滴が揺れてひとつにまとまり、自らの重さに絶えきれずに髪のなかに分け入って、地肌を濡らした。
リースの怒りをなだめ、慰撫するかのように、雨は重く柔らかい。
細く、息を吐いた。その呼吸の終わりは震えている。
何もかもが理不尽で、世界すべてがリースの敵に回ったかのようだった。
いったい自分が何をした。どんな赦されないことをした。そう声を張りあげてすべてを呪い、すべてに当たり散らせればよかったが、リースがリースである限り、そんな理性のない自棄的なことはできそうになかった。
大きな形のないものに当たり散らし続けることは難しい。運命を呪えば呪うほど、それは自分を呪うことと同義だった。
だから妖精を呪った。
リースの顔が苦渋に歪む。
叩きつけられたリースの怒りに小さなその顔がはっきりと己の非を悟り、後悔と恐怖に満ちていた。
突き放され、拒絶される恐怖。
その感情をリースは知っていた。嫌わないで―――そうやってひたむきに見あげてくる、無垢なもうひとつの瞳も知っていた。
二つの双眸が重なり、リースの胸に罪悪感を抱かせる。
違う。自分は悪くなどない。妖精は嘘をついた。騙していた。あまりに理不尽な要求に異を唱える権利があってもいいはずだった。
そうでなければ、何のためにここまで―――。
奈落が口を開けて眼前に広がっているのをリースは見た。
恐ろしいことだった。妖精を受け入れるということは、父の死も、風の唸りが絶えた城に立ちこめていた血臭も死臭も、何もかもを仕方のないこととしてしまうことだった。
すべては運命。起きるべくして起き、来たるべくしてここに来た。自分の選択だと思っていたことが、何もかも予測されていた、人のおよびもつなかい大きな何かの意思なのだと―――。
「…………!」
震える息を吐きだし、リースは大きくかぶりをふると、手にした槍に視線を落とした。
部屋を出るとき、つい持ってきてしまった。手放しておくことなどできなかった。この槍を手にし、この槍に誓い、自分は城から落ち延びてここまでやってきたはずだった。自分が頼るものはこの槍だけのはずだった。
氷のようなその穂先にはいまは幾つもの微細な滴が宿り、灯火を受けて無数の星のように煌めいている。
「母さま………」
星集うものと名付けた亡母のことを思いだし、リースは槍に向かって思わず問いかけていた。
「私はどうすればいいんですか―――?」
継承の槍はその問いに光を弾くだけだった。ふと滴が揺れ、隣の滴と惹かれあうように融合し、次々に滴を巻きこみながら滑り落ちてその穂先に到達すると、一瞬ためらうかのように震え―――そして落ちた。
瞬間、閃光のようにリースは槍を薙いでいた。
滴が抗議の声ををあげるかのように一瞬にして散っていった。煙雨の幕が鮮やかに断たれ、夜本来の闇を覗かせたように思えたが、それもまばたきするあいだのことだった。
すぐに四方から、やわりとした霧雨が押し寄せ、何もかもを包んで曖昧にしてしまう。リース自身さえも。
リースは唇を噛んだ。
このままめちゃくちゃに槍を振りまわしてしまいたかった。
そうすることで世界に向かって全身で問いかけたかった。
無限の問いだった。
どうしてここにいるのか。
なぜここにいなければならなかったのか。
どうして自分がそれをやるのか。
なぜ自分がやらなければならないのか
どうして自分なのか―――。
(なぜ、私でなければならないの―――!?)
槍がふるわれていた。問いはおろか、答えごと両断するように。
閃光のような一撃が空気を断ち割り、唸りをあげた。
槍そのものがあげる怒声のようなその唸りに混じって、鋭く息を呑む音が聞こえた。突如として現れた他者の気配にリースは愕然としてそちらを見る。
呆然とした表情で、獣人の少年がそこに立っていた。
「ケヴィンさん………」
慌ててリースは槍を引いた。
まだ目を丸くしたままのケヴィンは名を呼ばれ、はっとしたようにリースに改めて視線を据えた。
「さん、付いてる………」
「え、あ、すいません」
思わず謝ってしまい、リースは自分でも意図せず微かに笑った。
「そうでしたね、すみません。ケヴィン」
「何、してた? 敵、どこにもいない………」
「いえ………」
言葉を濁したリースに、ケヴィンは不思議そうに首を傾げたが、再び問うことはなかった。
何かを言いたげな眼差しのまま、戸惑ったようにリースを見ている少年に、彼女は敢えて違うことを言った。
「私を呼びにいらしたんですか?」
「え?」
驚いたようにケヴィンはまばたきし、すぐに首を横にふった。
「だれも呼んでない。オイラがリース、捜してた」
「では、何の御用ですか? すみませんが、用がないならしばらく一人にしてほしいのですが」
我ながらひどい言い様だと思ったが、いまはだれとも言葉を交わす気になれなかった。
「あ、うん………」
ケヴィンはそのまま口ごもってしまったが、やがて意を決したようにこう言った。
「オイラ、違うと思う」
「え?」
「オイラ、妖精と出逢うためだけにリースがここに来た、違うと思う。リースの国で起きたこと、そんなことのために必要なことなんかじゃない。そう思う」
ひたむきに告げられる言葉とその表情はリースを思いやる心に溢れていた。とても純粋に、それゆえとても残酷に。
いまのリースには触れられるだけでそれは怒りをともなった。
ただケヴィンの優しさだけはわかっていたから、それでも努めて笑顔を作るとひとつ頷く。
「ありがとうございます」
リースのその顔を見て、ケヴィンが哀しげに首をふる。
「違う。そうじゃなくて………オイラ、そんな顔させたいワケじゃない………」
内心リースは溜息をついた。
やはりこの少年は、聡い。
言葉の足りない己にいらだち、獣人の少年はいっとき口をつぐんでしまったが、やがて煙雨に溶けこむように、ぽつりぽつりと言葉が紡がれる。
「もし、オイラがそうだったら………妖精が選んだのがオイラで、妖精と出逢うためだけに、オイラがここに来ることになっていたんだとしたら。オイラ、きっと………妖精を殺してしまう」
リースはわずかに目をみはった。
殺す、などという言葉がこの少年の口から紡がれるとは思わなかった。
「オイラ、カールを生き返らせたくて、ここ来た」
「………そのことはさっき知りました」
それを知り、リースはその言葉に縋ってここまで来た彼を想い、その偽りを教えた者が呪われてしまえばいいと思った。もしそれが叶うことだったならば、リースとて何をおいてもここを目指しただろう。
ケヴィンは淡々と続けた。
「カールを殺したのは、オイラなんだ」
「――――」
「オイラの力を試したくて、獣人王、カールを操ってオイラを襲わせた………オイラ、そんなこと知らなくて、ただ死にたくなくて………」
そのまま後を続けられず、ケヴィンが絶句する。
思わずリースは続く言葉を遮ろうとした。
彼女のために己の痛みを吐露する少年が、耐え難かった。その純粋さがリースを突き刺し、彼に対して拒絶の態度をとったことを、ひどく咎めさせた。
しかしケヴィンは振り切るように後を続けてしまう。
「だからオイラ、獣人王を赦せない。もし、妖精に選ばれていたら、妖精も赦せなかったと思う。そんなことのために、オイラ、カールをこの手にかけたんじゃない。だからいま、リースが赦せないと思っているの、わかる」
篝火に映える琥珀の瞳は、獣のように静かに光り、彼女を捉えている。
その勁く浄い双眸に、いまの己がどのように映っているのか、リースは知りたくなかった。自分の弱さは自分が知っている。厭と言うほど。
視線を外したリースに、ケヴィンは言った。
「でも、そうじゃないと思う。妖精と出逢うためにリースはここに来た、違うと、思う」
「じゃあ、何のためにだと言うんです………?」
思わずリースはそう問うていた。
その答えを出すのは自身であり、すでに出ていたはずの答え―――己のなかで見失ったしまった答えを、リースは他者に求めてしまっていた。
己の弱さに吐き気がしそうだった。
そこにただ静かに、ケヴィンが告げる。
「生きるため」
「――――」
「リースは生きるために、ここに来た」
真摯に、尊ささえ感じられるような声音で、獣人の少年は告げた。
言葉もなかった。
風が吹いた。霧雨を揺らして風が吹き、リースとケヴィンにあたって分かれ、渦を巻いた。細かな雨滴が逆巻く風の動きを顕し、そしてその風が己ごと雨滴を持ち去り、あたりを吹き払っていく―――。
風が―――。
不意にはっきりと、ケヴィンの姿が見えた。
「決められたから、違う。生きたくて、ここに来た………オイラ、そう思う」
ふ、とリースの唇から息がこぼれた。笑おうとしたのかもしれない。
しかしそれは失敗して、ただこぼれる呼吸になっただけだった。
知り得てしまえば、それはあまりにも呆気ない。
いや、そうではなく、すでに見つけだしていたはずの己の動機を、理由をあらためて他者から示されただけのことだった。
怒りに塞がれていた目で見えなくなっていたものを、ここにある、と教えてもらっただけのことだった。
無限の問いに、無限の答えが返される。
死ねなかった。
死ぬわけにはいかなかった。
まだ、生きていた。
まだ、生きていたかった。
だからここに来た。
だからここに来なければならなかった。
それはあまりにも単純な答えだった。
風が止み、霧のような雨が元のようにやわりとリースを包みこんだ。相変わらず、なだめ洗い流すかのようなその雨に、今度こそリースの頬は濡れていた。
怒りをなだめられた跡に残されたものは、ひどく重く、柔らかかった。
「ケヴィン―――」
両手を伸ばして、リースはケヴィンを抱きしめた。弟やライザにそうしていたように。
リースの行動にケヴィンは驚き、ひどくうろたえたが、温もり越しに伝わる純粋な感謝の念に、やがて少し照れくさそうにして頷いた。
「リースが、決めればいいと思う。赦せること、赦せないこと………生きるために」
「ありがとうございます―――」
なぜ自分なのか。
その答えだけがまだ出ていなかったが、それでもそれを怒りにまかせて問うのではなく、静かに質し、受け入れるだけの覚悟は生まれていた。
妖精に会わなければ―――。
会って、話さなければ、前に進むことはできない。
「ありがとうございます」
リースはもう一度言って、ケヴィンを離した。
―――仲間。
その一語が新たな意味を持ってリースのうちに根を下ろし、しっかりと芽吹いていた。
旅の仲間。
自分が得たものを知り、リースははっきりとそのことを風に感謝した。
風はまだ、自分を護ってくれている。こんなにも。
視界の端を淡い虹色がかすめ、ためらうような思念がリースに触れてきたのは、ちょうどそのときだった。
怒りはなかった。
ただ凪いでいた。
凪ぎすらも、風の本質のひとつ。
目の前までやって来た妖精を、リースはただ静かに見つめ返した。