第五章 運命の渦〈奔流〉 〔8〕
すでにも日も高く昇り、細かな大気の塵に光の筋が立ち現れては聖堂へと射しこむなかを、光の司祭はひとりたたずんでいた。
女神像を見あげるその背中は、常とは違い老いた疲れを滲ませている。
今朝の礼拝に、いつも司祭の介添えを努めている青年の姿はなかった。短く削いだ白銀の髪に高位神官の証である金鎖がよく映える、実の子のように愛していた青年の立ち姿は、どこにも―――。
この自分が、アストリアに赴かせたばかりに。
「我が咎ぞ。ベルガー、すまぬ………」
苦渋に満ちた声音で呟き、司祭は瞑目した。
しかしすぐに、回廊をこちらへと向かい来る複数の足音に気づいて目を開ける。
昨日、シャルロットとともにこの神殿を訪れ、ヒースの身に起きた災禍を伝えた者たちの足音だった。
その足音の主のなかに、重いさだめを担う者がいる。
光の司祭としての責を果たさねばならなかった。
女神信仰の総本山において、すべての信徒の首座として数多の秘儀と伝承を与る己の立場は、たった一人の高位神官の安否だけを案じているわけにはいかなかった。それがどれほど辛いことであろうとも。
紅い涙を流し続ける背後の女神像が、それを司祭に命じていた。
(早く、起こしてあげないと可哀想でちね―――)
エルフの血をひく愛孫の言葉の、なんと鋭く正しいことか。
妖精の出現は世界の危機と呼応する。
そして危機にあって妖精は見出す。女神が創世に用いた〈黄金の杖〉の形代である剣を手に、眠りについた女神を呼び起こす者を、この地上において。
かつて地上と聖域との接点を担っていたのは、この神殿が祀る光の聖地だった。その聖地が遺跡と化したいま、それを担うのは―――言うまでもない。
女神に仕える聖域の妖精にすら頼られるほどの重職に在る以上、例え何があろうとも、この老体を以て妖精に選ばれし宿主を導かねばならなかった。
昨夜この聖堂で吹き荒れた、怒りの風を思いだす。
受けた傷の多さゆえに、知らされた真実を拒絶することしかできなかった、蒼穹の風の悲鳴だった。
「運命などではないのだよ、リース殿………」
徐々に近づく足音を聞きながら、司祭は呟いた。
妖精との邂逅が謀られた運命だと激怒していた王女に、それは誤りなのだと伝えねばならない。
大いなる流れをだれも謀ることなどできない。妖精は流れの外から至る存在。その妖精を宿す者は、妖精とともに運命の輪を外れる者。そして新たなるその輪を創りだす者。
「運命などではないのだ………。ただ重なっただけなのだ。世界の生と、そなたの生が………」
この身はただの翁。かつて過ちを犯し友と子を失い、いまは息子とも思う青年と愛孫をただ案じるだけの老人でしかない。
しかしこの身は同時に光の司祭。高みから世界を見極め、その行く末に心を砕き、責を負わねばならなかった。多くの義務と約束、願いと希望が、この一身に集っている。
いかなる答えを抱いてこちらへ向かおうとも、司祭がとるべき道はひとつしかない。
誰何の声がし、扉が開いた。
いらえとともに司祭はそちらをふり向いた。
白金の髪に貴石を飾った額冠を置き、革鎧を身にまとった少女が静かにそこに立っている。
風遊ぶ蒼穹そのもののような澄んだ双眸と目を合わせたとき、司祭は己が為す役割などすでに何もないのだと一瞬で悟っていた。
―――定まったか。
風は怒りをおさめ、平らかに凪ぎ、新たなるさだめを受け入れることをすでに決意している。
そして風の傍らにある仲間が、共にそのさだめに添うことを最初は偶然のうちに、いまは決意とともに、すでに風に約していた。
新たに定まり流れはじめた運命の奔流。渦を巻く、その中心に立つ者。
風の王国を担う者。山と空の守護精霊〈翼あるものの父〉の神託を聞き、その信託を享ける、風の愛ぐし子。
マナの剣を抜く、勇者―――。