第六章 光のまなざし〈精霊〉 〔1〕
神官たちから見送られ、その日のうちにリースたちは滝の洞窟の入口をくぐった。
リースの足首は神官たちの治癒魔法によってきちんと癒され、旅荷や路銀をはじめとした様々な心づくしを受けての、国を出てきたときとは格段に違う出立だった。
アンジェラをはじめデュランもケヴィンも、みなそれぞれリースの旅に同道することを決めていた。
妖精をまじえた司祭との会話のなかで、リースの目的に協力することで己の目的も果たせると知り、その約を妖精から得たからだった。
特にデュランの目的を知ると妖精は「それは魂の階梯の試練のことね」と、こともなげに言った。
聖域へ通ずるマナストーンに触れ、そこから流れきたるマナに身を浸し、魂を洗うことによって己の光と闇を問い、その者の魂に存在の階梯を昇らせる。高みに坐す女神のより近くへと己の心を馳せるのだ。
妖精はデュランに対してそう言って滔々と説明してくれたのだが、難しい話の苦手な彼は「あー、とにかくそれだ」の一言で済ませてしまい、彼女の不興をかった。
そのような一幕をあいだにはさみつつ、デュランはあっさりリースとの同道を決めた。
リースが目指す聖域への扉を開くためには、それぞれのマナストーンの傍らに在るという精霊の助力を得なければならないことが、明らかになっていたからでもある。―――つまりリースの旅のなかにこそ、デュランの求めるものが存在するのだ。
彼と目的が同じであり、国には帰れぬアンジェラもそれにならった。
そして、意外なことにケヴィンも同行を希望した。
妖精の言う〈階梯の試練〉によって己がより強くなれると理解し、それを切望したからである。親友の蘇生がかなわぬいま、彼にとっての目的はその仇を討つことであり、そのための力を欲していた。
少年のひたむきな願いをリースたちは思いとどまらせることができず、どのみち獣人の血をひく彼がウェンデルに居続けることは無用の誤解を生む恐れがあったため、共に行くこととなった。
シャルロットの姿はなかった。
どこに行ったのか姿が見えず、神殿の者も捜してくれたのだが、結局出立の挨拶もできぬまま一行は神殿を後にした。
その足で街に行きいくつかの買い物をすませると、リースたちは滝の洞窟へとおもむいた。
八つの属性を持ち、世界各地に点在する女神の要石のひとつ―――光のマナストーンが、洞窟を抜けた山頂、光の古代遺跡に存在する。
山頂への道は以前にくずれ、塞がれていたが、洞窟のなかでも光の精霊ウィル・オ・ウィスプを見かけたという話も多く、遺跡まで行かずとも精霊と見えることができるやもしれない。
洞窟の入口にいた神官たちがリースたちの姿を認め、棍鎚を下げて礼をした。
「お待ちしておりました。話は聞いております、どうぞお通りを。あなたがたをお通ししてから、結界を再度ほどこすよう命じられております」
「すいません。お待たせして………」
リースが恐縮すると、神官のひとりが笑いながら首をふった。
「いえ。そもそも結界は高位の神官でもない限り、そう短時間でほどこすことはできないものなのです。準備にはすでに取りかかっておりますので、お気になさることはありません。それよりも、マナの祝日までお待ちになられたほうがよかったですのに」
「先を急ぎますから―――」
リースは曖昧に笑って首をふった。
世界を構成する八つの属性の理に、この世界に生きるものたちは支配されている。
空に太陽のある時刻には光の属性を帯びたものが。夜、闇の降りる時刻には闇の気配をまとうものが。七日と定められた日の巡りに添って、月精の日には眩惑の月の力を宿すものが。火精の日には、大気を焦がす炎を身近とするものが、それぞれ活力を帯び、それは水、樹、風、土と続く。
その理に支配されるのは、魔物とて例外ではない。日替わりで殺気立つ魔物たちがおとなしくなるのは、七日に一度の女神の祝日だけだった。
しかし、もともと滝の洞窟に魔物の数は少ない。せっかくの申し出だったが、リースたちはあと二日も聖都で無為に過ごすつもりはなかった。
リースたちが洞窟内に入っていくのを見送った神官たちは、それからいくらも経たないうちに、道の向こうから小さな人影が走ってくるのを見た。
転がる毬のようにウェンデルからの道をやってきたのは、光の司祭の孫娘だった。いつもの丸房のついた帽子に青い上下、日輪の法衣という出で立ちで、手には小さな袋を持っている。
「シャ、シャルロットちゃん?」
「………リ、リースしゃんたちはもう行ってしまったでちか?」
息を整えながら切れ切れにそう尋ねられ、神官たちは顔を見あわせた。
「先ほど、通っていきましたが………それが何か?」
「おじーちゃんから忘れものを預かったでちよ。いまならまだ間にあうでち。渡してくるでち」
洞窟のなかへ走りこもうとしたシャルロットを、慌てて神官たちはさえぎった。
彼女が自分のお気に入りの高位神官を探すと言って再び神殿を出奔をすることのないよう、彼らは司祭から内々に言いつかっていた。ここで通してしまっては、そのままリースたちについていってしまうやもしれない。
「いけません。忘れものなら私たちが預かって追いかけますから」
「何ででちか! シャルロットは寝坊して、さよならも言ってないんでち。ちゃんとさよならして、ヒースのこともお願いしたいんでち。通してほしいでち」
青い瞳が神官たちを見あげた。その顔は寝坊したことを悔やんでか、いまにも泣きそうに歪んでいる。
シャルロットを相手にしていると、本当は十五の少女だということを忘れ、見た目通りの年齢だとついつい勘違いしてしまいそうになる。
いまもその表情にほだされてしまい、拘束している神官たちの腕がゆるんだ。
見れば、小さな袋以外は何も手に持っていなかった。神殿のなかで過ごしているときと同じ軽装であり、出奔時に持ちだす思われる旅荷なども隠し持っている様子はない。
これは本当に見送りたいだけなのかも知れないと思い、神官たちは目でやりとりし、しばらく相談した結果、シャルロットを行かせてやることにした。
彼女の顔がぱっと明るくなり、輝くような笑顔で礼を言う。
「渡したらすぐに帰ってきてくださいね。結界をほどこしていますから、完成する前に戻ってくるんですよ」
「わかってるでち。情けないでちねぇ。ヒースは何にもしなくてもすぐに張れるでちよ」
「ヒース殿が特別なんですよ。あの方と比べないでください」
馬鹿にされても怒りもせずに、神官たちはシャルロットを送りだした。
彼らに手をふり、シャルロットは洞窟のなかへと走りこんだ。
なかへと入った途端、彼女は壁にはりつくようにして入口近くに身を隠し、神官たちの注意がそれたところを見計らって、昨夜のうちに近くの茂みに隠してあった包みを引き寄せる。
連接棍棒にまんまる花飴。ルク硬貨が少しと、外出用のマントと着替え。
包みを隠していた場所には、代わりに書きおきを置いた。目立つようにと枝に明るい色の手巾を結びつける。
忘れものだと称した小さな巾着袋を逆さにすると、ちぎれた金鎖がこぼれでた。
嘘は言ってない。忘れものに違いはない。リースたちのものではないが。
金鎖を見つめ、シャルロットはぎゅっと唇をひき結んだ。それからまた袋のなかに戻すと、首から下げて服のなかにたくしこむ。
準備は整った。
光の司祭の孫娘は外の神官たちに向かって一度だけ、謝るように手を合わせると、今度こそ洞窟の奥へと走り去った。
―――小さく舌を出しながら。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら」
そう言って妖精が一行を立ち止まらせたのは、はた迷惑にも滝の洞窟いちばんの名所―――はるか頭上の水脈の亀裂から真下の淵まで、滔々と水の流れ落ちる瀑布の前でだった。
昨日、シャルロットが濡れた石橋に足を滑らせ、間一髪でケヴィンに助けられた場所でもある。
滝の真正面を横切るかたちになっている天然の石橋は、濛々たる水煙で行く先が白く霞んでおり、そもそも大気をふるわす滝の轟音に自身がしゃべる声さえ聞こえない。
(ちょっと待って。昨日もだったけど、この滝の水からマナの力を感じるの………)
ひとり、思念で語る妖精の声だけが音に妨げられずに届く。リースのなかにいる彼女だけ、何ら滝の影響を受けることなく濡れずにすむが、はっきりいって他の四人はこんなところで立ち止まるのは勘弁してほしかった。
「ちょっと待て! こんな話もできねぇところで立ち止まるな!」
デュランが怒鳴るが、それさえも水音にかき消されて他の面々には聞こえない。
しかし妖精だけはその意を悟ったらしく、罰が悪そうな顔をしながらリースのなかから現れた。
(ごめんなさい。でも滝の流れとマナの流れが同じなの。もしかするとこの上流―――ッ!)
出てきた途端になかば霧と化した微細な滝の水にまといつかれ、重くなった翅で飛べずによろめいたところを、危ういところでケヴィンが両手で受け止める。
(ご、ごめんなさい。少し先まで行ってから話しましょう)
獣人の少年の両手にそっと包まれる形で運ばれていた妖精は、壁一枚へだてて瀑布の轟音が遠ざかると、申し訳なさそうに翅を震わせて水を散らした。
「ごめんなさい。何も考えずにあんなところで立ち止まらせてしまったわ」
「過ぎたことは仕方ねぇよ。次から気をつけてくれ」
「で、マナが何ですって?」
アンジェラが肩をすくめ、すっかり水気で重くなってしまった髪を指ですく。
(滝の水からマナの流れを感じたわ。滝のはじまりとなる、水脈の亀裂の部分はどこに繋がっているのかしら………?)
鈍い低音となって轟く滝の唸りに負けがちな肉声をやめ、思念に切りかえた妖精はそう語りながら頭上の岩天井を仰いだ。
「もう少しジャド寄りなら真上は湖になると思いますが、このあたりなら司祭さまが仰っていた古代遺跡のある山の中なのではないでしょうか」
「遺跡には光のマナストーンがあるんだろ? マナを感じるっつーんなら、水はそっからじゃねえのか?」
滝の洞窟は以前ならば山頂の遺跡のほうにも道が通じていたというが、落盤で石橋が崩れて行き来ができなくなってしまったと聞いている。
(上のほうに行ってみたいわね)
妖精が思いついたようにそう言った。
「そりゃ飛べるあなたは行けると思うけど―――」
(濡れると翅が重くなってしまって飛べないわ。さっきもケヴィンに助けてもらったもの。―――上に行く道はない?)
会話が噛みあわないまま、またも無理難題を言いだした妖精に一同は渋面を作りつつも、来るときに通ったいくつかの分岐を思いだし、そこに行ってみることにした。分岐のひとつが、行き止まりではあるものの、ちょうどさっきいた石橋の真上―――滝の上方に、岩棚のように張りだしていたのを思いだしたからだった。
「んじゃ、さっさと行っちまおーぜ」
歩きだした一行の最後尾にいたケヴィンが、ふと背後をふりかえる。
そのときだった。何かに足をとられ、小柄な体躯がよろめいた。
よろめいたのは彼だけではない。頭上で起きた地響きのような振動に洞窟全体が大きく揺れていた。
「な―――!?」
ぱらぱらと細かな土や石が天井からこぼれ、一行の肝を冷やす。慌てて妖精がリースのなかへと姿を消した。
やがて徐々に揺れはおさまっていった。
期せずして、一同の口から揃って大きな溜息が洩れる。
「………天井が落ちてきたらどうしようかと思ったわ」
「何だったんだ、いまのは」
「地震でしょうか」
「でも、地震って下から揺れるもんじゃないの? 何だか上から何か落ちてきそうな感じだったわよ」
(とにかく上に行ってみましょう。ウィスプと何か関係があるかもしれないわ)
妖精が急かした。たしかに、ここで議論していても埒があかない。
「地震っていうのはさぁ、光精じゃなくて地精の管轄じゃないの?」
ぶつぶつ文句を言いながらも、アンジェラが杖を手に坂道をのぼりだす。
後ろをふり向いていたケヴィンを怪訝に思ったリースが、声をかけた。
「どうかしましたか?」
「うん。………何か変な気配、した。気がする。でも揺れたし、たぶんそのせい」
首を傾げながらも、ケヴィンは一行の後を追った。
露台のように大きく張りだした岩場の上に立つと、そのすぐ右斜め前を瀑布が叩きつけるような激しい勢いで真下へ落ちていくのが見えた。水飛沫は先ほどの石橋にいたときよりは少ないが、轟音は相変わらずだ。
滝をはさんで対岸を眺めると、同じような岩棚がこちらに向かってせりだしていた。前は気づかなかったのだが、奥へと続く入り口の輪郭も見てとれる。
おそらく落盤で崩れてしまった石橋とやらが、以前はここに架かっていたのだろう。
濛々たる水煙に霞がかった深い翠の淵が真下に見える。覗きこんだアンジェラが両肩を抱き、ぶるりと身を震わせた。
「まさかと思うけど、向こう側に行きたいなんて言いだすんじゃないでしょうね?」
リースが渋面で胸元に手をあてた。
「そのまさかのようです」
「無理よ! 跳べっていうの !?」
「オ、オイラ、跳んでも落ちると、思う………」
「おい―――」
妖精を呼ぼうとして、ふとデュランはこの妖精の名前を知らないことに気づいた。しかし、声を張りあげないと会話もままならないこの状況下で、問いただしているような余裕はない。思いなおして、そのまま言葉を続ける。
「おい。いくら翅のあるあんたでも、滝に打ち落とされて淵に叩きつけられるのがオチだと思うぞ」
(………ちょっと出てもいいかしら?)
今度は注意深く姿を現した妖精は、差しだされたケヴィンの手のなかから、しばらく滝を見あげた。
水源となっている水脈の亀裂よりもさらに上のほうにある地上へと口を開けた亀裂からは、外の光が幾筋も射しこみ、滝を白くきらめかせている。
(上に行くほどマナは強くなっている………。ここからなら滝の水からマナの力を取りだせると思うわ。貴方たちが渡れるか、ちょっとやってみるね………)
妖精が何を言いだしたのか、リースたちにはまったくわからなかった。
「ち、ちょっと待ってください! 何をやってみるんですか !?」
滝の音に負けじとリースが声を張りあげる。
妖精はケヴィンの手のひらから身を乗りだして、滝のほうへと腕を伸べていたところだった。
(だから、滝の水からマナを取りだして………)
「そうじゃなくて!」
妖精の願いを呑み、引き替えに望みをかなえてもらうことを約して、共に旅をすることにはなったが、お互いに交わした会話の量が絶対的に足りていなかった。妖精には言葉が不足していたし、リースはいまだに応対に戸惑っている。
妖精が途方に暮れた顔で己の宿主を見た。
(ええと………何がいけないのかしら?)
「だから! マナを取りだしたとして、それでどうやってあたしたちを向こう側に渡すのよッ。マナで橋でも作る気なの !?」
ようやく妖精が合点のいった顔をした。
(………ああ。マナを使って、向こう側まで短距離の〈転移〉を貴方たちに付与するわ)
「最初からそう言ってよ………」
疲れた顔でアンジェラが呟き、一同は妖精の注文を受けてひとところに集まった。
洞窟の結界を解いたときのように、妖精の姿が淡く発光しはじめる。
虹色の光の明滅が激しくなり、ひときわ強く発光したとき、再び地鳴りとともに岩棚が大きく揺れた。
焦ったリースたちが頭上を見あげるなか、ただひとりケヴィンが愕然と背後をふり返った。
滝の唸りと鈍い地響きに、名前を呼ぶ声はかき消される。
妖精の体から溢れた光がリースたちを包んで球形を成す寸前、小さなその影がまろぶように光のなかに飛びこんでいた。
視界が白く灼け、思わず閉じた目を次に開いたときには、リースたちは対岸の岩棚の上に立っていた。いままで自分たちがいたところが滝をはさんだ向こう側に見えている。
感心する間もなく、デュランとアンジェラの叫び声が狭い岩棚に響き渡った。瀑布の轟音に負けない大音声だった。
「ちょっ、なんであんたがここに !?」
「お前―――シャルロット !? なんでこんなとこいるんだよ。どうやってここ渡ってきたっ!」
(その子、転移の直前に飛びこんできたのよ。咄嗟に止められなくて、そのまま一緒に………)
妖精は蒼白な顔で答えると、そのままふらふらとリースのなかに消えてしまった。
何にせよ、いちいち声を張りあげるのは疲れると一同はその場を離れて奥へと進んだ。
どうにか滝の轟きが小さいところまでやって来ると、アンジェラが怒鳴りつけるより早く、シャルロットが両手を胸の前で握りしめて叫ぶ。
「おねがいでちっ! シャルロットもついていかせて!」
機先を制されたアンジェラが鼻白んで黙りこむ。
出逢ったときと同じいでたちの上から旅用のマントを羽織り、使いこなせるのかも危ぶまれる連接棍棒を一人前にも背負った少女は、目を潤ませて必死にリースに頼みこんだ。
「シャルロットはヒースのことが心配なんでち。じっと神殿にいるなんてイヤでち」
「いけません」
リースが毅然として首を横にふった。
「司祭さまがすごく心配なさっておられるわ。ヒースさんのことは司祭さまからもお願いされていますから、あなたはお祖父さまのところにお帰りなさい」
シャルロットも頑固に首を横にふった。
「ヒースがさらわれたのはシャルロットのせいでち………! マナの女神さまにも、シャルロットが直接おねがいしたいでち!」
「あのね。そのヒースさんだって、あんたが危険な目に遭うのはお断りなはずよ。さっさと帰りなさいよ」
アンジェラが言い、デュランが苦り切った顔でがしがしと髪を掻いた。
「こいつの言う通り、お前みたいに小さいやつがついてこられるような旅にはならねェよ。悪いこた言わねェから、帰れ」
「うん………シャルロット、小さい。きっとムリ………」
「さっきから小さい小さいって何でちかーッ!」
激怒したシャルロットが顔を真っ赤にして、ケヴィンを怒鳴りつけた。
「こないだも言ったでちけど、シャルロットは十五でち! あんたしゃんと一緒でち! あんたしゃんに行けて、シャルロットに行けないはずはありまちぇん!」
「い、いや。あの、そうじゃなくて。それ違う………」
「違わないでちッ!」
それからしばらく揉めに揉めたのち、とりあえずウィル・オ・ウィスプを見つけるまで、シャルロットはリースたちに同行することになった。何のことはない、妖精がおのれの余力ではあと一度しか転移を行うことができないと述べたため、一緒に対岸に戻らねばならなくなっただけの話だった。
結論が先送りにされたシャルロットはもちろん納得していなかったが、不承不承リースたちの後に従った。ウィスプに会わなければ、ウェンデルに戻るにしろ逃げだすにしろ、帰りの入り口のある対岸に戻ることができない。
薄暗い洞窟はかつては人が通った痕跡があり、松明を差しこむ穴も壁に穿たれていたが、いまでは吸血蝙蝠の巣穴になってしまっている。
ことあるごとに同道をねだるシャルロットと、拒否する一行のあいだで口論が巻きおこり、騒ぎを聞きつけた魔物が顔を出すという椿事も起きたが、そのうち学習したシャルロットが黙りこんだため、その騒ぎも減った。
デュランとアンジェラの持つ松明の灯りを先頭に五人は刻まれた石段を登り、上へと進んでいった。
やがて、縦に大きく亀裂のはしった岩壁の前に行き当たる。
「おい。この道ってのは山頂の古代遺跡まで通じてるんじゃなかったのかよ」
「教えたらつれてってくれるでちか?」
「それとこれとは話が別だ。そういうごねかたしてると終いにゃ怒るぞ」
「ぶう。もう怒ってるじゃないでちか。―――だからぁ、聞いてないでちか? 落盤でくずれて行けなくなってるって」
シャルロットが拗ねた口調でそう言った。
「それはあの石橋の話じゃなかったのかよ」
「知らないでちよ。でもあっちがくずれるぐらいなら、他がくずれてたっておかしくないでち」
もっともな言い分だった。
ケヴィンが亀裂のそばに耳を寄せる。
「風が流れてる………どっか、通じてるんだと、思う」
「ウィスプの気配とかはするの? 何か言ってない?」
リースはしばし耳を傾けるような仕草をしていたが、やがて横にふった。
「まだ何も感じられないそうです。でも、奥からマナを感じると」
「またマナぁ? んもう、どっか通じてるっていうんなら、さっさと行きましょ」
亀裂のなかに身を押しこむようにして横ばいに進むと、唐突に開けた空間に出た。
二人が持つ松明の灯りだけでは、奥まで照らしだせそうになかった。近くの茶色い岩肌と枯れかけた苔だけが、ぼんやりと灯りにのなかに浮かびあがっていたが、その大半は闇のなかに溶けこんだままだ。
「なに………ここ」
アンジェラが不安げにあたりを見回した。
風の流れと匂いが、空間の広さと高さを一同に知らせる。
奥へと踏みだすことをためらっていたときだった。
不意にケヴィンとシャルロットが、共に上をふり仰いだ。
「何か、いるッ!」
その声に残りの三人が一斉に上を見る。
闇一色に塗りつぶされている頭上から、松明の輪のなかに巨大な影が降りたった。
ズズンッ、と重く響いた着地の衝撃に、シャルロットとアンジェラが均衡をくずし尻餅をつく。
「な、何………?」
呆然と呟いたアンジェラの疑問に応えるように、巨大な眼球がぎょろりと動いて一同を睥睨した。
シャルロットが、ヒッと短く息を呑む。デュランでさえ呆然とした。
それは巨大な蟹を思わせる怪物だった。
トゲだらけの甲殻に包まれた小山のような体から、左右に四本の足が突きだしている。その左右に広がった脚の端から端までは、大人五人が手を広げたほどもありそうだった。
脚を包む節々の殻にも鋭いトゲが生え、こびりついた苔と土がこそげ落ちた部分からは鈍い鋼の輝きが覗いていた。本物の蟹のように螯がないのがまだ救いだが、がちがちと噛み合わされる牙のあいだから嫌な緑色の泡を吹いている。
我に返ったデュランが松明を投げ捨て、剣を抜いた。リースが槍を包んでいた布をむしりとる。ケヴィンも拳をかまえた。
「アンジェラ、シャルロット! 死にたくなかったら、松明拾ってかざせ!」
「気をつけて―――来ますッ!」
あたりが白く灼熱した。