第一章 風の王国 〔1〕

 地図を広げると東。
 雲をも見おろす山々の麓に、その王国はある。
 山と海岸線が一体化したような起伏に富んだ地形を有する、大陸最東端の王国の名はローラント。
 王国の二つ名に恥じぬ、山肌渡る風の唸りを常に身にまとう国である。
 山を渡る強風と、周囲の崖を利用した天然の城塞に守られて、王城は難攻不落と名高い。
 王国を訪れ、幸運にも城に登る機会を得た者は、城を守る兵たちがみな女性であることに驚かされる。ローラントは軍にいっさいの男性を徴兵せず、その全てがアマゾネスと称される女性兵で構成されていることで有名だった。
 その女性軍の頂点に立ち、王国を統治するのもまた代々女王とされている。王家に女子がいない場合のみ、男王がその玉座に就く。
 現在のローラント国主は盲目のジョスター。
 先の女王であり、ジョスターの妻でもあったミネルバが七年前に崩御し、次の女王となるべき王女もまた若年であったため、亡き妻の後を襲っての即位であった。
 先女王ミネルバと現王ジョスターの間には、二人の子供がいる。
 リース、そしてエリオット。
 リースは父王の跡を継ぎ、次代の女王として立たねばならない。
 よわい十六にして勇猛果敢、若輩ながらも精鋭ローラントの女性軍の筆頭を務め、民からの信頼と人望は厚い。
 光を帯びた金サンライトホワイトの髪。明るい、鮮やかな蒼穹あおの瞳。
 華と謳われる、果敢な姫君であった―――。



 その日、ローラント城はいつになく風が強かった。
 普段から風の扱いに慣れている城の者でさえ、飛ぶはずのないものが吹き飛ばされていることに驚き、慌ててそれらを室内へとしまいこんでは、風の強さに首を傾げて空を見あげた。
 空はいつも通りに澄んで高い。空の青を背景に、灰褐色の外回廊がそびえたっている。
 風が強い日は歩いてはいけないと子どもたちに言い聞かせるその回廊を、リースは弟を探して歩きまわっていた。
 腰まである白金色の髪は邪魔にならぬよう飾布リボンで束ねられ、手には槍の稽古に使う、先に布をあてた長い棒を持っている。
 柔らかな短靴に包まれた足が、音ひとつたてることなく石床の上を移動していく。
「エリオットったら、いったいどこに行ったの?」
 リースの呟きは溜息混じりだった。
 槍の稽古の時間なのだが、八つ年下の弟の姿が見えないのだ。すでに方々を探しまわっていたが、一向に見つからない。
 どうにも泣き虫の感がある弟で、教える者が姉のリースでなければ、こういった稽古も行おうとはしない。甘やかし過ぎたかもしれないと、リースも最近少しばかり反省するようになった。
 母であるミネルバは難産の末、命を賭して生んだ息子の顔を見ることなく亡くなった。
 城の者からすると母親の顔も知らない王子が不憫でならず、彼が聞き分けのないわがままを言いだしても、ついついみなそれを聞き入れ、甘やかしてしまう。
「―――まったくもう………」
 外回廊を歩き回るリースの頭で、額冠サークレットにあしらった白い羽飾りがはばたくように揺れた。風の王国の名にふさわしい強風が、リースの髪をもてあそぶ。
 ふと、風の行方を追うようにリースは空に目を凝らした。
 何の変哲もない空だ。いつもの通り、高く、青く。空気は透明に澄み、乾いて薄い。
 視界にちらつく己の髪を片手で押さえた時だった。
「どうした、リース。さきほどから騒々しい」
「お父さま」
 ふり返ればジョスターが杖を片手に立っていた。隣りへやってこようとする父王に、すぐさまリースは手を貸した。
「お父さま、エリオットを御存知ありませんか?」
「そう言えば、さっきから声が聞こえなくなっておるな………」
 ジョスターはしばし耳を澄ませたあと、首をふる。
「わからぬ。城から出てはいないだろうが、わしの耳に聞こえる範囲にはおらぬようだ」
 ジョスターは妃であるミネルバを亡くした一年後に、病をわずらって目から光を失った。そして現在は、失った視覚を補うように聴覚が鋭敏さを増している。近侍の者はその足音だけで聞き分けるともっぱらの評判だった。
 父の力でも弟の居所はわからぬと知り、リースは何度目かの溜め息をついた。
「ああ、もう。エリオットったら………!」
 その嘆きをさらうように、ひときわ強い風がリースとジョスターに吹きつける。
 複雑な稜線が幾重にも連なって織りなされるバストゥークの山を、取り巻く風。
 それが鈍い唸りと共に、父と娘の間を吹き抜けていく。
 思わずリースは見えないはずの風の行方を目で追っていた。
 漠然とした不安が胸の内を占める。
「風が泣いている………?」
「不吉な………」
 リースは己が手にした稽古用の棒に視線を落とした。
 すぐに顔をあげて、父王に告げる。
「お父さま。私は山の見回りの予定を早めることにしようと思います。もしエリオットを見つけたら、自室で待つようにお言いつけください」
 了承の頷きが返るのを認めてから、一礼してリースは歩き出した。
 ここのところ妙に魔物が多い。
 魔物の掃討は軍の大切な責務であり、ここ二、三ヶ月、リースは忙しい日々を送っていた。
 魔物の跳梁ちょうりょう。風の泣き声。
 漠然とした不安は、根拠のないものではない。
 浮かない顔のジョスターを回廊に残し、リースは自室へと戻った。
 稽古用の棒を愛用の槍と取り替え、山へ向かうために要りような物をあれこれ思案しながら廊下を歩く。
 今日の巡回当番はライザたちの隊だっただろうか。もう一隊ほど増やして別行動させたほうがいいかもしれない。
 思案ながら城内を歩いていたリースは、ジョスターの私室の隣りの部屋の扉が細く開いているのを見つけて、思わず足を止めていた。
 そこには〈鍵〉があるはずだった。
 ローラント城の最大の防壁である「風」を操る風門を操作するための〈鍵〉が。
 この部屋の鍵はジョスターが所有している。非常時以外は何人足りとも入れないはずなのだ。開いているはずがない。
「………エリオット?」
 弟がいるような気がして、リースは小部屋を覗きこんだ。だが小さな部屋の中に弟の姿はない。
 そして鍵もない。
「そんな、まさか………!」
 リースは部屋を飛び出した。風門のある地下へと駆け出す。
 走りながら大声で叫んだ。耳のいいジョスターには必ず届くはずだった。
「お父さま。鍵が………風門が!」
 叫んだその直後だった。
 ふッ、と音が消えた。
 幼い頃から途切れることなく続いてきた風の唸りが唐突に途切れ、不気味な静寂が城全体にのしかかる。
 風門が閉じられた………!
「どうして……!?」
 胸のうちに疑問が溢れ返ったが、答えはでない。
 風が消えたことに気づいた城内では不安げなざわめきが起きていた。
「リースさま!」
「姫さま!」
「第一級非常態勢! 皆、再び風が戻るまで警戒を怠ってはなりません!」
 リースは出会った者すべてに通り過ぎざまそう怒鳴り、飛びおりるように地下への階段を駆けおりた。
 普段は滅多に開けられることのない扉を一息に開け放つ。
 風門の操作を行う基盤の前にエリオットがいた。
 そして、その左右にローラントでは見慣れぬ忍び装束の男が二人。
「エリオット!」
「お姉さま !?」
 駆け寄ってくる姉の姿にエリオットが目をみはり、キッと男たちを睨みあげた。
「お前たち、だましたんだなっ!」
「エリオット、どういうことなの !?
 ―――お前たち、何者です? エリオットから離れなさい!」
 リースが命じるまでもなく、エリオットが姉のもとに駆け寄ろうとする。
 しかし左の男の手がそれを防ぎ、エリオットの体を押さえこんだ。
「エリオット!」
「お姉さま……っ。こいつら、お姉さまを捕まえたからっ、返してほしかったら、風を止めろって、僕に………」
「そんな話を信じたの !?」
「だって、お姉さまの飾布リボン、持ってたから………っ」
 エリオットの手にある若草色の飾布は、自室の衣装箱に入っているはずのものだった。
 リースは舌打ちして槍を構えなおした。幼いエリオット相手には、飾布ひとつでも充分に嘘が通用しただろう。城中の者から溺愛されて育ってきた弟は、人を疑うという意識が稀薄だ。
 基盤に片手を添えて、右の男が傲然と肩をそびやかした。
「難攻不落を誇るこの城も風さえなければ、我がナバールの敵ではない」
 その言葉に呼応するかのように、何かが爆ぜるような鈍く重い音がリースのいるこの地下まで響いてきた。
 思わず上をふり仰ぎ、次いでリースは男たちを睨みつけた。
「ナバール?」
 そんな名の勢力は聞いたことがない………いや、あった。確か、ローラントとは山脈で分断されている南の砂漠の大陸にナバールと名乗る『盗賊団』が勢力を誇っていたはずだ。
 だが、ローラントと砂漠の大陸には何の交易も繋がりもない。
 侵攻される理由が見当たらない。
 リースの内心の疑問を知ってか知らずか、男が喉の奥で低く笑った。
「ローラント城を制圧した時点で、我等はナバール盗賊団改めナバール王国となる」
「ふざけないでっ! 制圧など……ッ」
 槍を持つ手に力がこもった。
 この国は渡さない。
 斬りかかろうとするリースを見て、エリオットを抱えた男が嘲笑わらった。
「おやおや、そんなことをやっているひまはあるのかね?」
「ジョスター王は今頃、見えない目でどうやって戦っているんだろうね………。難儀なことだ」
 その言葉を最後に、男たちの姿はエリオットと共に宙にかき消えた。
「 !! 」
 声もなくリースは目をみはる。
 高い魔力を持つ者が使用、もしくは他者に付与する〈転移〉の魔法だ。
 男たちがいたはずのところまで駆け寄っても、もはやそこには何もない。
「なんてこと………!」
 リースは強く唇を噛んだ。
 父であるジョスターの元にすぐさま飛んでいきたかったが、これ以上の侵攻を防ぐためには風門を再び開かなければならない。
 焦って背後の基盤をふり返った直後、リースは拳を壁に打ちつけた。
「やられた………!」
 〈鍵〉は抜き取られていた。これでは風門を操作できない。
 リースは迷わず身をひるがえした。
 階段を駆けあがったリースの目に最初に飛びこんできたのは、血塗れで倒れている女兵だった。もはや鎧の色もわからないほどに、周囲には血が溢れかえっている。
「しっかりして!」
 抱き起こしたリースの腕を、ふるえる手がつかんだ。
「リースさま、もうしわけありませ………」
「しゃべってはだめです」
「風が止まり、敵が、城内に眠りの花粉を………。王の元へ早く………」
 言葉が途切れ、目から永遠に光が失われた。
 唇を噛んで、リースは女兵の身体を横たえた。
 傍に置いていた槍を手に取ったとき、背後からの殺気を感じてリースはとっさに槍をふるった。
 先ほど地下にいた二人組と同じ装束のナバール兵が、一言も声を発することなく短刀を手に襲いかかってくる。
 その一連の動作の感情のなさに、リースは違和感を感じた。発する気合いも、溜めの呼吸も、まったくといっていいほど感じられない。
 だが、今はそれをいぶかしんでいるひまはなかった。
「どいて………」
 リースは槍を持ち直す。
 湧き起こる怒りに、蒼穹の瞳が蒼い炎となって燃えあがった。
「………そこをどきなさいッ!」
 次の瞬間、リースはただ一槍のもとにナバール兵を斬り伏せていた。
 それから何人かの城に仕えていた者たちの骸と、何人かのナバール兵に出逢ったが、くわしくはもう憶えていない。
 ぶつかるように扉を押し開けて、リースは王の間に飛びこんだ。
「お父さま !!」
 床に倒れているジョスターの姿が視界に入った。あたりの床がどす黒く染まっており、リースの心を寒くする。
「お父さま!」
 悲鳴にも似たリースの叫びに、わずかにジョスターが反応した。
「リース、か?」
 見えない目が、それでも光を求めるかのように開かれた。
 リースは服を裂いて、父王の傷口を押さえた。だが出血は止まらない。傷が深すぎる。
「………すまぬ、リース」
「お父さま、しゃべってはだめです」
「この日が来ることを、風が泣いて、報せていたのに………」
「お願いです。お父さま」
「マナの変動が、わしの勘を鈍らせたのやもしれん………」
 リースはただ首をふった。自分が何に対してそうしているのか、もはや判断がつかなかった。嫌々をする子どものように、駄々をこねていればすべてが解決するのだと信じているかのように。弟がいつもそうするかのように。
「お父さま。私の、私のせいで、エリオットが………!」
 こらえきれずリースは泣きだしていた。
「おぬしのせいではないよ………」
 父王は微かに笑うと、娘の頬に触れた。
 冷たく乾いた手が頬を伝う涙を拭う。
 その手をとろうとリースは手を伸ばした。
「リース………エリオットを、頼む」
 そう囁いて、ジョスターは眠るように目を閉じた。とらえようとしていたその手が、リースの手をすり抜けて力無く落ちた。
 無限の嵐をはらんで空白の時が流れた。
「お父さま………?」
 応えはない。
 床についた手がわけもなく震えた。止まらない。
 降りかかる自身の長い髪が父をリースの視界から隠す。
 何度か唇が開閉し、やがて喉から絶叫がほとばしった。
「――――――――ッ !!」
 だれかに嘘だと言ってほしかった。
 これはすべて悪い夢なのだと。
 どうしてこんなことになったのだろう?
 半刻前には想像もしなかった現実が目の前に横たわっている。半刻前、自分は弟を探して、日課の槍の稽古をつけようと―――。
 よろめくようにリースは立ち上がった。横たわる父の亡骸を見て首をふり、一歩後ずさる。
 血の気のない唇が、うわごとのように呟いた。
「私、私………死ねない。まだ、生きてる………」
 父は自分にエリオットを託したのだ。
 ここで死ぬわけにはいかない。
 もうすでに敵地となってしまったこの城から脱出しなければ。
「行かなきゃ………」
 弔うことすらできぬ父のむくろから背を向けかけたリースの脳裏を、城の宝物庫のことがよぎった。
 あそこには、母の形見であり代々ローラントに伝えられてきた〈ヴァナディースの槍〉がある。
 本来なら成人の儀にリースに授けられるべきもの。
 正統なるローラント国主である証。
 ――――持ち出そう。
 逡巡せずにリースは決めた。
 せめて、せめてあれだけは。
 そろそろ日は落ち、闇の精霊シェイドが支配する刻へと移りゆく。
 昨日まで当たり前に存在していたはずの穏やかな時間はどこにも残ってはいなかった。
 笑っていたはずの最愛の父も弟も、城の者も、もうどこにもいない。
 いないのだ。
 その事実をリースは無理矢理、自身にそう言い聞かせた。もういない。だれもいない。どこにもない。
 思考と感情が麻痺してしまったようだった。廊下を走る自分の体も、どこかふわふわとたよりない。幾つの骸の傍を通り過ぎただろう。ああ、そろそろ日が沈む。何て鮮やかな空だろう。まるで血のような。
 停止しかけた思考を引き戻したのは、血のような夕焼けに重なって目の前に浮かびあがった父の倒れていたあの光景だった。
 リースの内面を鮮やかな怒りと憤りが染めあげていく。
 震えるその手が宝物庫の扉を押し開いた。
 そこにナバールの兵の姿はまだなかった。渓谷や山の急斜面を利用して、地形の起伏に添うように造られているローラント城は、非常にわかりにくい構造をしている。
 リースは迷うことなく宝物庫の最奥部にたどりつくと、香木で作られた細長い箱を押し開けた。
「ヴァナディース―――」
 自分の長槍を置き、それを手に取る。流麗な装飾を施された槍は吸いつくようにリースの手に馴染んだ。氷のように冴え冴えとした光を放つ、優美な曲線を持つ槍の刃。
 かつて母の手で、燦然と輝いていた槍。
「私と一緒に、行きましょう………」
 そっと囁いた声は、暗い宝物庫に溶けて散った。
 締めすぎて切れる寸前の弦のような声だった。