第一章 風の王国 〔2〕

「誰だい !? 」
 厳しい誰何の声が飛んだのは、宝物庫を出た直後だった。
 はっとして声の方を見ると、ナバール兵を数人ひきつれた女が廊下の端に立っていた。身にまとった傲慢な空気と凄まじい重圧感プレッシャー
 それだけでもう明白だった。
 この女が、ここの指揮をとる者。
「あな……た……がッ!」
 湧きあがる憤怒にリースはとらわれかけた。
 強く握りしめられたヴァナディースが、わずかにきしみの音をたてる。
 この女が、父を、弟を――!
 女はつまらなさそうな顔でリースを一瞥いちべつし、顎をしゃくった。
「生き残りか。……捕らえろ」
 女の後ろに控えていた影が動く。
 我に返ったリースは身をひるがえして逃げた。
 飛来する飛び道具から身をかわし、牽制のためにヴァナディースをふるう。手にしたばかりの槍は、普段から使われていたかのように手に馴染んだ。
 しかし、敵の数は徐々に増え、執拗に追ってくる。
 必死で槍をふるっていると、父王とエリオットのことが脳裏に浮かんで消えた。
 二人のためにもここで終わるわけにはいかなかった。
「……あッ」
 走る足元に投げつけられた鎖が絡みつき、リースは床に倒れこんだ。
 そこにナバール兵が駆け寄り、肩をつかまれ床に取り押さえられる。
「はなして !! 」
 無論、聞き届けられるわけはない。
 近づいてきた女がリースの前に立った。
 贅沢な刺繍の施された、柔らかそうな布靴。そこから白く細い足首がつながって、透き通るような薄いふんわりしたズボンに、肩をむき出しにした紅の衣装。見おろしてくる目は愉悦に満ちて、どこか肉食獣を思わせる。
 女は、形のいい指先を下顎にあてて、わざとらしく首を傾げた。
「貴石のついた額冠サークレットからして、ただの生き残りってわけじゃあ、なさそうね………。そう言えばこの国は王女さまがいるって聞いていたね。まあでも、男はともかく女は要らないし………」
 取り押さえられたリースの灼けつくような視線と表情を見て、女はくすくすと笑った。
「おお、怖い怖い。お前がもし魔族なら、その視線だけでこの私を殺せたかもねえ?」
 ぐい、とリースの体がナバール兵たちよって引き起こされた。
 睨みつけるリースの喉に、女の白い手がかかる。赤く塗られた爪が毒々しい。
「ローラントの王女さま。お前の国を落とした私はイザベラというのさ。もっともこれは仮の名だけど。冥土のみやげにはこれで充分―――」
「ほんとの名前は美獣―――だろ?」
 イザベラの声に途中から別の男の声がかぶさった。
 短い呻きが立て続けに起こり、リースを押さえつけていた手が離れていく。
 自由になった身体を強く後ろに引き寄せられた。
 見上げると、紫がかった銀の髪をひとつに束ねた青年がまっすぐにイザベラと相対している。
 その口元は悪戯っぽく笑っているが、目の光は鋭い。
「……鷹の目ホークアイかい」
 ホークアイと呼ばれ、青年はニッと美獣の声に笑ってみせた。
「そう、俺だよ」
 言うが早いかその右手が閃いた。幾筋もの銀条がイザベラに向かってはしる。イザベラ――美獣が叩き落として、それが長細い針だということが知れた。
「逃げるぞ」
 ホークアイが鋭く促し、リースはヴァナディースを拾いあげ、無言でその後を追った。
「―――追え!」
 美獣の声が背後から聞こえた。



「あなたは、だれです?」
「―――俺はホークアイ」
 幾つもの廊下を走り抜けながら紡がれる言葉は途切れがちだった。
「俺もナバールの盗賊だったんだが、今は見ての通りあの美獣に歯向かってお尋ね者さ。ローラントに警戒を促すよう来たんだが………遅かったみたいだ」
「あなたもナバールの………?」
「こんな状況下じゃ詳しいことは説明できない。ただ、いまのナバールはナバールじゃない」
 ちらりとリースに視線を向けて、ホークアイは顔を歪めた。もどかしさと申し訳なさが宿る目だった。
 その双眸が、リースにホークアイのことを信じさせた。先刻の状況下はナバール側からすればリースを欺く必要すらない。そのまま殺せばそれで終わっていたはずだ。彼は、真実リースを助けてくれたのだ。
 先を行くホークアイは複雑に交差する通路を右に左に折れていく。確実に逃げ道を把握しているような動きだった。眼前には左右前方三つに通路が分かれている。
 遅れ気味になっているリースの背後から、無数の足音が迫っていた。
「――ッ急げ!」
 舌打ちしたホークアイが、リースの手首をつかんだ。
 リースの顔が暗がりのなかで真っ赤に染まった。
 身の周りにいた男性など、いままで父王か弟ぐらいしかいなかった。ましてや手を握られるなど、小さいときを除いて弟ぐらいにしかされたことがない。うろたえるなというほうが無理だった。
 さっき取り押さえられていたときにも何やら助け起こされたような気がするが、あれは不可抗力でそこまで気が回っていなかった。
 狼狽したあげく、急に身体を前に引っ張られたものだから、リースはつんのめって転んでしまう。
 声をあげるまもなくしたたかに床に顔をぶつけたリースに、今度は逆にホークアイのほうがうろたえた。
「うわっ、ごめん。お姫さん、怪我無いか?」
「……い、いえ。何とか……」
 その"お姫さん"という呼称は一体何なのだ。
 鼻を押さえて立ちあがったリースの背後から、ナバールの兵たちが姿を現した。
「ちっ!」
 問答無用でホークアイはリースを右の通路へ突き飛ばした。反動で自分も左の通路へ飛びこむ。
 たたらを踏んだリースがふり返ると、投げ矢ダーツ投擲刀スローイングダガーが今までいたところを通り過ぎていった。
「ホークアイさん!」
 向こう側の通路でホークアイが手をふった。
「仕方ない。こっから別行動だ。また逢おうな、お姫さん」
 真っ直ぐに視線を向けられて、そう言われた。
 また逢おう、と。
「………はい!」
 リースもホークアイも互いに背を向けて走り出した。今ここで悠長に迷っているひまなどない。
 不意に現れて、自分を助けてくれた。
 あれほど絶望的な状況から奇跡のように。
 そのことが自分を元気づけてくれるような気がした。
 ローラントの女性に宿るという風の加護。
 まだ風は自分を護ってくれている。
(また必ず、逢いましょうね)
 まだ自分は御礼も言っていないのだから。
 遭遇した兵たちはためらうことなくすべて斬り伏せた。見えはじめた城門に、リースは力の限り駆け出した。



「………?」
 気がつくとリースは、城からかなり山を降りたところにある洞窟の入口に座りこんでいた。
 奇跡的に怪我らしい怪我はない。来る途中で転んだらしく、あちこちに土がついているくらいだ。
 どうやって追っ手をふり切ったのだろう。よく憶えていない。
 リースは立ちあがってあたりをよく見回した。間違いなく〈風の回廊〉と呼ばれる洞窟だ。この洞窟は城からやや下った山の中腹にあり、入り口がかなり見つけにくいところにある。ナバールの者にそう簡単に見つけられはしないだろう。
 リースは安堵の溜め息をついた。まだ油断できるわけではないが、当面はだいじょうぶだろう。
 岩壁にそっと手を添わせた。
 目をやった反対側の壁のすみには、汚れた布や古ぼけた茶碗。練習用の棒などが無造作に積みあげられている。
 ここは幼いころからリースの遊び場だった。
 城や城下の者たちは、回廊の奥に出没する魔物を恐れて足を踏み入れようとはしない。
 リースも奥まで入ったことはなかった。洞窟に入ってすぐのところに、奥への通路とは別にもう一本違う道があり、そっちのほうの小部屋のような開けた空間が自分ひとりだけの大切な空間だったのだ。遊び場というよりはもっぱら泣くための場所として―――。
 だれも知らない、だれも来ない場所。
 どんなに泣き叫んでも、だれにも知られることのない場所。
 リースにはそれが必要だった。
 母である女王が亡くなったときにも、リースはこの場所以外では絶対に泣かなかった。
 自分はまだ子どもで、自分を愛してくれる父や城の者たちに何もできないから。だからせめて、その人たちを自分のことで悲しませたりしてはいけない。
 そう思った。
 ただでさえ、女王の崩御で城は悲しみに沈んでいるというのに、自分が泣いて心配をかけてはいけないと考えた。
 そのときから、胸に宿った神聖な誓約。
 幸せでいること。笑うこと。
 強く、毅然と、日々を過ごすこと。
 だが、そうして過ごして行くはずの日常そのものが、あまりにもあっけなくリースの目の前で崩壊してしまった。
 どうして。
 暗闇のなか、ヴァナディースに触れた指がぬるりと滑った。厭だな、と漠然とそう思った。魔物を斬ったことは幾度となくあるが、人を斬ったのは今日が初めてだった。
 何人斬っただろう。そうして、そのうちの何人が死んだのだろう。
 もはや神経も感覚も麻痺しきっていて、何の感慨も罪悪感も起きなかった。
 そんな自分が厭だったが、母の形見が瞬く間に血に汚れてしまったことのほうが厭だった。
 きっと、これからも自分とヴァナディースは血で汚れる。
「………ッ」
 怒りと涙が溢れ出しそうになって、リースは唇を噛んだ。
 またここで自分は泣くのか。
 手のひらをこぼれ落ちていった、穏やかな日常。母と父と弟と、城の者たち。
 ―――ダメだ。
 リースは強くかぶりをふって、洞窟の外に出た。
 射しこむ月の光の中、耳を打つのは聞き慣れた風の唸り。容赦なく髪を乱す、いつにもまして強い風。
「………風が………今頃になって風が戻ったって………ッ」
 全てはもう遅すぎる。
 槍をつかむ手が震えた。
 滲む視界を消し去るように眼を見開く。
 もっとつよくなる。すべてのことに負けないように。
 これからのことに押しつぶされないように。
 迷いなどいらない。弱さなどいらない。
 つよくなる。
 ヴァナディースの槍を改めて眺めた。実用的でありながらも流麗な細工の施された槍は、血にまみれながらも月の光に冴え冴えと刃を光らせている。まるで星を映したように。
 薄れる記憶のなかの母がこれに付けた名前は―――星集うものスターゲイザー
 柄にそっと唇を寄せた。
 自分に残された最後のもの。
「お母さま………お父さまや城の者たちをよろしくお願いします………」
 目の見えぬ父を母が優しく両手を広げて出迎えてくれるように。迷うことなくたどりついて、共に在れるように。
 淋しくないように。苦しくないように。
 ただ、安らかに。
 何ものにも煩わされることなく、ただただ幸せに。
「私は、私は必ず、エリオットを助け出します」
 私はまだここにいる。
 生きている。
 だから。
「だから、どうか………見守っていてください………」
 記憶に残る母の姿はいつも強く凛々しかった。
 あの母のようになりたいと、いつも心から望んでいた。
 リースは山を下りはじめた。
 いつになく明るい月の光に、それでも闇に足を取られそうになりながら、毅然と前を見る。
 背後で、風が唸りをあげて吹きすぎる音が響いた。
「…………」
 風の唸りに、自分が泣いていることをリースは知らない。頬を透明な涙が静かにつたっていく。
 本人にさえ気取られることなく、蒼穹の色の瞳から、涙は溢れ続けていた。