強い陽射しを遮ってくれる〈学院〉を燈海は目を細めて見上げ、次いで手にした本日の収穫に目を落とした。
羽根のある兎と、飛べない鳥―――名前は忘れたが、美味しい―――がどれも一羽ずつ。まあこんなものだろう。
ここに来てから一年が経つ。黒地での『捕獲』にもだいぶ馴れた。
「まったく」
知らず燈海はしみじみと呟いていた。
しかし口調とは裏腹、その口元には笑みがある。
「名にしおう〈黒の学院〉が自給自足だとは思ってもみなかったってば」
しかも、その〈学院〉がまさか『浮いて』いようとは。
初夏のきつくなりはじめた陽射しを遮ってくれるのも、学院を構成する建物とその敷地全部がひとつの岩塊のごとく浮遊しているからである。
初めて見たとき、自分の頬を思いっきりつねったことを燈海は覚えている。
自分たち翼晶族の飛べる利点を生かして、上の空間を利用した建築物は多いが、重力を無視して浮いている非常識な建物は生まれて初めてだった。
何でも黒地は、遊石という浮遊鉱物を大量に含んでいる土地らしい。現に〈学院〉以外にも小さな岩がふよふよあたりを漂っている。
その遊石の巨大な岩塊をくり抜き、外側に建物と回廊を取りつけた、他に類を見ない建築物―――それが黒の学院だった。
しかもどういう理屈でか、この岩塊のみが黒地の上空を移動する。他の石や岩は遊石を含んで浮くことはあっても、移動したりすることはない。ごく細かい礫が風に流されることはあるが、それも稀だ。
学院は、六芒星の形をしたこの大陸の、さらにその中央に位置する神帝の神殿を中心に円の軌道を描き、黒地の外周を一年かけて一周するのだ。
そうすると二ヶ月に一度、各六国にそれぞれ接近するわけで、そのときにその国出身の〈学院〉の生徒は年に一度の里帰りをすることになる。生活用品や食品といった細々したものもそのときに仕入れるのだが、肉や野菜などの鮮度を要求されるものはそうはいかない。
そのため大陸最高峰の現実はかなり厳しいものだった。聞けば、学院関係者はその事実にわざと口を閉ざしているので、誰もが何も知らずに入学してきて仰天するらしい。
学院に入学した生徒が部屋を割り当てられた後、まず最初に何をさせられるかと言うと、野菜と肉どちらの調達係になるかの選択を迫られるのである。
それは大陸に六人しかいない選徒といえども例外ではない。
実家が農家だった燈海は当然ながら、土いじりのほうを希望したのだが、農産階級の出身だとわかるやいなや、こちらのほうに回された。何でも、学院にやってくる学生の大半は育ちが良すぎて動物の扱いが下手らしい。弓を持って獲物を追いかけるわけでもなく、ただ罠にかかった動物を捕獲してくるだけにもかかわらず、誤って逃がすことが多々あるとかで、呆れながらも燈海はおとなしく異動を承知した。
学院の移動に合わせて全部の罠の位置を変え直したことを確認して、燈海は学院に帰るために翼を出現させた。手の甲の石核が消えて、変わりに薄い水色の翼が背に現れる。
いままさに浮こうとして、燈海は忙しくまばたいた。
「ええっと、あれって………?」
見上げた先には、燈海以外に〈学院〉に向かって飛ぶ小さな影があった。
「まあ」
翠璃は手にしていた扇子の影で、大仰にその翡翠色の目を見張ってみせた。
書庫の中でも人気のない一角である。
翠璃の前には数人の少女がいた。真ん中の一人がぐしぐし泣いていて、彼女を庇うように残りの少女がいて、それに翠璃が相対しているという、見るからにどういう状況なのかわかりやすい構図だった。
翠璃は内心嘆息しつつ、表面上は意外だという表情を完璧に装って扇子を閉じた。
「それじゃあ何ですの。わたくしが貴女の恋人をたぶらかした、と。そういうことなのかしら」
丁寧な翠璃の物言いは向こうの神経を逆撫でする。もちろん、彼女はわかっててわざとやっている。
翠璃は相手の返事が返ってくるのを待たなかった。
「誤解です」
はっきりきっぱり、ぴしりと扇子を打ち鳴らして言い切った彼女に気圧されて、相手の少女たちは一瞬沈黙した。
「わたくしは、まだ死にたくありません」
「はあ? あなた急に何言いだすわけ?」
相対していた少女の一人が眉間にしわを寄せて聞き返した。
翠璃は淡々と答える。
「わたくしと『本気で』結婚しようとした碧国の貴族の殿方は、その日のうちにわたくしのお兄さまたちに毒杯を飲まされて死にましてよ」
酢を呑んだような表情で、相手の少女たちが押し黙った。
「そういうわけで、わたくし、この〈黒〉で相手をみつくろって、わざわざお兄さまたちの神経を逆撫でさせたくありません。誤解だってわかっていただけたかしら?」
とりつくしまもない翠璃の言動に、彼女を吊し上げる予定だった少女たちは顔を見合わせた。
自分たちがこうしてここにいるのは、ごく普通の自分たちの世代なら誰でもする、真っ当な年頃の恋愛による騒動の延長線上である。それには毒杯を飲まされて死んだだの、実兄の神経を逆撫でさせたくないだのと言った台詞も理由付けも、絶対に出てこない。
ここにきて、彼女たちにもはっきりとわかってきた。相手の生きる次元が自分たちとはかなり違うのだということを。
喧嘩や吊し上げの相手にまわすには、この人物はあまりに危険すぎる。
そんな認識が少女たちの間に、ほぼ同時に生まれ、各人が動揺の表情で互いに目配せをし始めた。
このまま翠璃が黙っていれば、相手の少女たちは引き上げただろう。
だが、次の一言が悪かった。
「貴女もそんな浮気な男など、さっさと見限ってしまいなさい」
「なっ、なんですってえ !?」
少女の恋人が勝手に翠璃に熱を上げている状況だとはいえ、この台詞はまずかった。
気圧されていた少女たちの表情に険が戻る。
泣いている少女を庇っていた集団の筆頭、いちばん気の強そうな少女の口から罵詈雑言が飛び出そうとした、まさにそのときだった。
「取り込み中、失礼する」
淡々とした遠慮のない台詞が、少女たちと翠璃の間をさっくり切断した。
行き場を無くした罵詈雑言に、少女がぱくぱくと口を開閉させる。
翠璃は思いきり溜め息をつくと、顔をしかめて声の主を睨んだ。
「貴女は、もう少し場の空気というものを読むことができないの?」
「それはすまない」
全然すまなさそうにそう謝ったのは、濃い紫の髪をした小柄な少女だった。肩口で切りそろえられた癖のないその髪から覗く左の耳朶には、紫水晶の薄片が飾りのように張りついている―――彼女の石核だ。
顔をしかめたまま、翠璃が扇子を開いて、突然の闖入者に向けて仰いだ。どういうわけか埃まみれでいるその頭や肩から、ふわふわと埃が舞い落ちる。
「それで紫音。何か御用?」
「御用だ。教官が私たちを呼んでいる」
「何事なの?」
軽く眉をひそめた翠璃に、紫音は肩をすくめた。
「わからないが、とにかく呼んでいる。行かないか?」
「わかったわ」
扇子を閉じて、翠璃はさっきまで相手をしていた少女たちをふり返った。
「ごめんなさい。わたくし失礼させていただくわ。後日、機会があったらまたいらしてくださいな」
言い捨てると、さっさと翠璃は書庫を出ていった。紫音がその後に続く。
「翠璃姫はもてるな」
回廊を歩きながらの紫国の選徒の台詞に、碧国王女にして選徒の少女は勢いよく自分の隣りをふり向いた。
「あと一回言ってみる勇気はあるかしら?」
「それはない。だが、似たような別のことを、これまた一回だけ言う勇気ならまだ持ち合わせている」
「ええ、ええ、貴女はそういう人でしてよ」
「お褒めにあずかり光栄だ」
褒めてなどいない―――そう言いかけた台詞を翠璃は途中で飲みこんだ。まったく紫音をまともに相手にしていると、こちらが疲れるだけだ。
「それで、瑳雪教官がわたくしたちを呼ぶわけは?」
「さっき知らないと答えたが?」
「そんなことわかっていてよ。わたくしは貴女の記憶や知識ではなく、王立学院を飛び級したというその埃まみれのおつむに訊いているわ」
「先ほど銀影が空を舞ったそうだ」
翠璃はわずかに目を見張って、次に優雅に頷いた。
「なるほどね。ならば、さっさと行くことにしましょう」
「同感だ」
翡翠と紫の髪がふわりと風にひるがえった。
外回廊を図書室に向かって歩いていた白煉は、自分を呼ぶ声に後ろをふり向いた。
純白の長い髪が、空気をはらんでふわりと広がる。
「白煉ちゃん」
後ろから、薄紅の髪と目と翼を持った少女が白煉のところまでやってきた。
二つに分けたその淡い紅色の髪を左右の高い位置で結い上げ、余りを垂らすという髪型が、この上なくよく似合う可愛らしい少女である。
「紅乃。どうかしたの?」
名前を呼ばれて、紅乃は首を横にふった。
「ううん。白煉ちゃんどこにいくのかなって思って」
この砂糖菓子のようなふんわりした少女が大陸に六人しかいない選徒だというのだから、世の中というものはわからない。
対する白煉の方は、純白の長い髪に白い瞳の艶のある美人で、選徒だと言われれば思わずふさわしいと頷いてしまいそうな奇妙な風格がある。
冷たく淡泊な美貌だと称されるその顔が、ふっと和んだ。
「閲覧書庫にいくところよ」
「あたしも一緒に行ってもいい?」
「ええ。かまわないわよ」
二人は並んで歩き出した。
外回廊のすぐ外では、荒涼とした白っぽい大地が広がっていて、ところどころに黒く大きな岩場があるのが見える。黒地だからといって、何も大地が黒いわけではない。
紅乃はここに来るまで黒地は真っ黒なのだと思いこんでいたから、初めて黒地を見たときはとても驚いた。
「他の人たちは?」
なんとなく訊ねた白煉の問いに、紅乃は首を傾げる。終わりのほうがゆるく波打っている薄紅の髪がその挙動に合わせてふわふわと弾んだ。
「えええっと、紫音ちゃんはたぶんいつものところでえ、燈海ちゃんは午後は〈調達〉だって言ってた。翠璃ちゃんは………どこだろう?」
いくら選徒とはいえ、絶えず六人全員が一緒に行動しているわけではない。
全寮制―――というか、黒の学院そのものがそこに関わる者全員の寝起きの場でもあり、選徒の部屋が固まって割り当てられている以上、いま逢えずとも夜には逢える。
選徒と言えど、学生には違いないのだ。
実際なにが違うのだろう、と白煉は首を傾げる。選徒だと言われ、大変な持ち上げられようでここに来たのはいいものの、普通の学院の生徒に混じって、ごく普通に授業を受けているだけだ。
もっとも、まだ一年しか経っていない。選徒間の学力のばらつきを調整しているのかもしれなかったし、いまだ来ない六人目の選徒を待っているのかもしれなかった。
そう。六人目の選徒。
彼、もしくは彼女だけが期日を遙かに過ぎても〈黒〉に現れなかった。
こんなことは前代未聞だと、前〈選徒〉がいた頃に学生だったという長老の教授たちが騒いでいた。
いま白煉の隣りを歩いている紅乃は、紅水晶の生まれ石で薄紅の翼を持つ紅国の選徒。そして、真っ直ぐな紫の髪を肩口で切りそろえた紫音は、紫水晶を生まれに持つ紫国の出。
淡く薄い水色の青緑柱石の髪をした燈海は蒼国の選徒で、艶やかな翡翠の髪を二つに分けて束ねて無造作に流している碧国選徒の翠璃は、なんと王女でもある。
そして、白煉自身は雪花石膏の白国の選徒。
それから考えるに、いまだ姿を見せない最後の一人は黄国の選徒。石は何であれ、黄または橙、変わったところでは茶や褐色の髪と翼を持っているはずだった。
「あ、ああああぁぁっ!」
突如、隣りの紅乃が素っ頓狂な声をあげたため、白煉は危うく持っていた本を落とすところだった。
「こ、紅乃………?」
回廊を行く他の生徒も何事かと二人を見やる。
紅乃が回廊の手すりの外を指差した。
「白煉ちゃん、あれ。あれ選定烏じゃないの !?」
「?」
言われて白煉は手すりのところまで歩いていった。
優雅に蒼穹を舞う銀色の影。
大陸六国と一地。銀の鳥は選定烏だけだ。
白煉や紅乃たちの選定烏ではない。白煉たちが学院につくと、彼らはいずこかに姿を消してしまい、それ以来見かけたことはなかった。そういう役目で、そういう存在なのだろうと五人とも自然に納得した。
「ねえ、もしかして」
選定烏から目を離すことなく紅乃が言った。
白煉も頷いた。
「そうね。来たんだわ」
黄国の選徒。最後の、一人が。