それからしばらくもしないうちに、選徒五人は学院の一室に互いの顔を見いだした。
「ああ。やっぱりあれ選定烏だったんだ。よかった、見間違いかと思った」
しみじみと燈海が頷く。
壁にもたれて扇子を玩んでいた翠璃が、無言で眉を動かした。
「まるまる一年も遅刻とは良い度胸だわね」
「何か理由があったのかもしんないよ?」
椅子の上で片膝を抱えて座るという、行儀悪い恰好の燈海がそれに反論した。
その言葉に、じろりと翠璃はその翡翠の双眸をそっちに向けて、表向きは全く別のことを口にした。
「燈海、その素敵な香水は何なの?」
言われて、燈海は自分の服の袖を鼻まで持っていって匂いを嗅いだ。
「そんなに匂う?」
「ええ、それはもう鼻が曲がるくらいに」
「燈海ちゃん、何してきたの?」
「別に。獲ってきた動物をさばくの手伝ってきただけ」
それを聞いた残りの五人がげんなりとした表情を見せた。
ひとり、実にさり気なく窓際にいる白煉が、控え目に苦言を呈する。
「入浴してきたほうがいいんじゃないかしら」
「だから、お風呂行こうとしたら呼び出されたんだってば」
「獲ってきた動物の解体作業まで、学徒にまかされているという話は聞いていないが?」
「うん、自主作業。夕飯のお菓子おまけしてくれるっていうから」
紫音の問いにあっさりそう答えて、燈海は首を傾げた。
「そういう紫音こそどうして埃まみれなわけ?」
「書庫にいた」
「閉架のほう?」
無言で頷いた紫音がその紫の頭を軽くふると、たちまち翠璃が眉をつりあげた。
「埃を落とすなら外でやってちょうだい!」
「翠璃姫は潔癖性だな」
肩をすくめながら、紫音は素直に翠璃の言葉に従って窓から頭を突き出した。
「どんな子かなぁ?」
紅乃の呟きを、やんわりと白煉が否定する。
「子とは限らないわ。選徒の年齢はだいたい十五から三十までらしいから、もしかしたら私たちよりずっと年上かもしれないわよ?」
「だよねぇ。あたしたち若いし」
燈海がくすくす笑いながらそう言った。事実、ここにいる五人全員がまだ二十年も生きていない。
「歴代選徒の記録を漁ってみたのだが、ここまで年齢と性別が固まっているのはやはり珍しいことのようだ」
「貴女がこの薄紅娘より二つも年少だということが、わたくしいまだに信じられなくてよ」
翠璃の科白を聞いて、紅乃が情けない顔になる。
「どーしてぇ? あたしそんなに童顔なの?」
「ああもうッ、そういうことではなくってよ!」
額に青筋たてて怒鳴り返した翠璃を、片手をあげて紫音が制した。
「紅乃。これが翠璃姫の愛情表現なのだ。黙って受け止めてやるのがいいだろう」
「…………ッ!」
べきり、と無惨な音がした。
淡々と白煉が指摘する。
「二十一本目ね」
「快調に記録更新だ」
折れた扇子を目の当たりにして、燈海が笑いながら白煉の後に付け足す。
「折られるために持ち歩いてるんじゃ、扇子も可哀想に」
「あら、でも最近は折ることを前提にしているのか、安物になってきているみたいよ」
「そこの純白娘と水色頭ッ。わたくしに喧嘩を売りたいのなら、いつでも付けた値以上で買い取ってあげるわよ !?」
「良品安値が信条なんだ。もっとちゃんとした喧嘩になってから姫には売りにくるよ」
「そのうち扇子を贈らせてもらうわね」
燈海と白煉は口々にそう言うと、話の矛先をそらした。
しばらく二人を白い目で睨みつけていた翠璃は、軽いため息と共に折れた扇子を卓の上に放り出した。
「喧嘩は良くない」
相変わらず論点のずれた答えを大まじめに紫音が返す。
しかし、今回は翠璃も大まじめに返答した。
「そうかしら? 陰にこもられるよりは正面衝突したほうが後腐れがなくてよ。貴女が言うのが、そういった喧嘩ではなくて決別の衝突なら、確かに良くはないけれどね」
紫音が無言で眉を動かす。翠璃はわずかに目を細めた。
「あの鳥が舞い降りた瞬間から、わたくしたちは運命共同体よ。泣いても笑っても、それが事実なのだから仕方がないわ」
白煉がその端正な顔を扉のほうに向けた。
「その最後の一人が、ほら―――来たわ」
燈海が椅子から足を降ろす。紅乃が不安な表情で残りの四人を見た。
間をおかず、扉が静かに叩かれた。
「みんな集まっているようね。白煉、翠璃、紅乃、燈海、紫音」
扉を開けて入ってきたのは、選徒の生活や勉強全ての担当教官である瑳雪だった。初老の穏和そうな婦人で、ふわりとした白い髪を綺麗に頭の後ろでまとめあげている。
順繰りに五人に視線を移したあとで、瑳雪は微笑んだ。
「その顔だと、だいたい呼ばれた理由は予想がついているみたいね」
「選定烏を見ましたから」
燈海の答えに、瑳雪はあら、と軽く笑った。
「まあ、見えたのね。それは幸運なこと。なら、さっさと紹介しましょうか。月羽、どうぞ入ってらっしゃい。誰もとって食いやしませんから」
入ってきた人物を見て、五人は一様に沈黙してしまった。
「………布のおばけ?」
紅乃が呆気にとられた様子でそう呟いたが、他の四人もそれを咎める気にはなれなかった。
第一、紅乃の言葉は事実を端的に証明していた。
何せ、服から出ているところが手しかなかった。
初夏を通り過ぎ、夏へと移ろうかという、その季節感を無視しまくった服だった。喉元まである襟に、裾は地面すれすれで、辛うじて沓の先が覗いている。当然のごとく袖も長く、とどめとばかりに頭から布をかぶっていた。
裕福な貴婦人たちがよく外出時にかぶる薄織りの布というのならまだわかるが、柔らかで艶のある、しかし不透明な大判の布を文字通り"かぶって"いる。
よって、露出している―――六人目の選徒たる部分はその手しか、彼女たちには見えなかった。翼はしまってあるのだろう、背には何もない。
ただ一カ所だけ露出しているその手を見て、細い手だと白煉は思った。
白く、そして小さい。手首など片手で掴めそうで、骨の部分が尖って浮き出していた。
五人の戸惑いなどどこ吹く風で瑳雪はにっこり笑って言った。
「黄国の選徒の月羽です。これで六人全員がやっと揃ったわねぇ」
「いや、あの………瑳雪さま。紹介されても……」
「その………なんというか」
どこから突っ込んでいいのかわからず、言葉を濁した白煉と燈海だったが、翠璃と紫音は遠慮しなかった。
「顔もわからない相手と共同生活はできませんわよ、瑳雪教官」
「教官、それで前は見えるんですか? どうやってここまで引率してきました?」
翠璃が紫音を睨んだ。
「そんなくだらないことを聞いてどうするのッ」
「疑問は大切だ」
「まあまあ。そう思うのも当然ですよ。翠璃、そんなことをしていると、また扇子を折りますよ」
「その心配はご無用です、瑳雪教官。もうとっくに折りました」
「あら、あら………」
百二十歳を越えている初老の女性は強かった。
ころころ笑うと、紫国と碧国の選徒の疑問にきちんと答えを返す。
「そんな緞子のような分厚い布じゃありません。わたしもかぶってみたけれど、結構前は見えるものなのよ。だから普通に歩いてきたの。これでいいかしら、紫音」
「結構です。ありがとうございました」
「それで、翠璃の当然と言える疑問だけれど、これは仕方ありません」
わずかに月羽が身じろぎした。
「どういうことですの、瑳雪教官」
「どうして一年も、あなたたちと合流するのが遅れたと思いますか?」
唐突な質問に、五人は顔を見合わせた。
互いに返答を譲りあったあとで、最年長の燈海が口を開く。
「ええと、それはつまり? その布が合流が遅れた理由なんですか?」
「そういうことです。まあ実際、月羽は自分が選徒だと知るまで一ヶ月以上かかったみたいですから、理由はそれだけとは言いきれませんがね」
五人は驚いた。
選定烏がそれぞれの選徒を見いだすまでに多少の時間差はあっても、これほど遅くまでかかるものだとは聞いていない。
「瑳雪さま、それはいったいどういうことです? まさか選定烏が来るのに時間がかかったとか………」
白煉の問いに、瑳雪は笑って答えなかった。
「そう言うことはじかに月羽からお聞きなさい。わたしはまず説明するべきことをすませますから」
瑳雪は背後の月羽をふり返った。
「直接見てもらったほうがいちばん早いのだけれど、それでは無駄に月羽とあなたたちがおびえますからね。一応断っておきます」
「まだるっこしいですわ、瑳雪教官」
翠璃の言葉を瑳雪は無視して、続けた。
「月羽は姿が見えません」
『……………………は?』
五人の声が綺麗に重なった。
「月羽には、生まれたときから強い透過の術がかけられていたそうです。どうしてそうだったのかは天帝のみが知ることでしょう。ここ一年、上層部の力の強い術士全員で解呪にあたりましたが――――」
瑳雪は月羽の手をとった。白く華奢なその手を掴んで、袖をまくりあげる。
白煉と翠璃が息を呑んだ。紅乃が悲鳴を押し殺す。
肘から先がなかった。文字通りすっぱりと肘から先にあるべき腕がそこにはなかった。
瑳雪が素早く袖を元に戻す。
「解呪は手しか成功しませんでした」
絶句している五人の選徒たちを見て、瑳雪は困ったように嘆息する。
その手が今度は、服の上から月羽の二の腕を掴んだ。
すると、さっき見たときは何もなく、ただ向こう側の服地を見せていた部分がしっかりとその手に掴まれる。
「わかりますか? ちゃんと体はあるんですよ。ただ見えないだけです。それ以外はあなたたちと月羽は何も変わりません」
瑳雪がその表情を改めた。
「術士たちは、これ以上の解呪はもはや見込めそうにないとの結論を出しました。よって本日をもって、月羽をあなたたちと合流させ、選徒の授業を開始します。反論は認めません。これは学院の決定です」
選徒の少女たちは、凝然と教官の顔を見つめた。
選徒を預かる〈黒学府〉がそう決定した以上、もはや何を言っても無駄なことだった。
自分たちにはその決定を受け入れるしかない。
何をどうあがいても、六人が運命共同体であることは変わらない。何が何でも、この黄国の選徒と互いに歩み寄る努力が必要だった。
対立しても何も良いことはないということを、この一年の間に五人は学んでいたのだから。
そんな決意を胸に抱いた五人を見て、不意に瑳雪が『にっこり』と笑う。
全員その笑顔に嫌な予感を覚えた。
ここに来て一年。この穏和な老婦人がこんな笑い方をした後は、大抵いつも、ろくでもないことが起きている。
案の定、教官は火種を投げこんだ。
「紅乃」
「は、はいいいいっ !?」
あたし一体何したかしら、というような半泣きの表情で紅国の選徒が返事をした。
「選定烏を見たとき、あなたずいぶん大騒ぎしたんですって?」
「えっ、ええええっ!?」
「一般生徒の間では、選徒の最後の一人が来たとそれはもう大騒ぎになってます。
――――では、六人全員、力を合わせて乗り切ってくださいね」
『はっ!?』
全員、何を言われたのかわからなかった。
瑳雪は月羽の背を押しやって、五人の方へと近づける。
「いまのうちに仲良くなっておきなさい。あなたたちは大陸に六人しかいない選徒なのですからね。仲が悪いのはもったいないことです。ああ、とっても良い子ですから心配はいりません。月羽、五人とも優しい子たちですから、そう怯えなくても平気ですよ。
―――それじゃ、わたしはこれで」
「ちょ、ちょっと瑳雪さま!」
「お待ちなさい瑳雪ッ。これではあまりに無責任と言うものでしてよ!」
白煉が慌てて呼び止め、もはや師の名前を呼び捨てにしながら翠璃が怒鳴る。
「あら、何のことかしら。ああそうだ。お夕飯は六人揃ったお祝いに、料理長が奮発してくれるそうですよ」
ころころ笑いながら瑳雪は、言うだけ言うと、さっさと部屋を出ていってしまった。
後には不気味な沈黙とともに、六人の選徒が残される。
不安げな面もちで、六人はお互い顔を見合わせた。
「あの食わせ者はッ!」
憤然と翠璃が唸る。扇子がすでに折れていなければ、今頃ばっきりいったことだろう。
「ど、どうしよう、あたしのせい?」
半泣きで紅乃が部屋に残された面子を見た。
意外にも庇いに入ったのは翠璃だった。
翡翠の瞳が苦々しげに瑳雪の出ていった扉に向けられる。
「あの様子では、あなたが騒がなくとも煙を立てていたでしょうよ。何のつもりかは知らないけれどね!」
「どっちにしろやるべきことは決まってるんじゃない?」
燈海の言葉に、残り全員がそっちをふり向いた。
明るい水色の瞳に悪戯っぽい笑みを浮かべて、蒼国の選徒はぴっと指を立てた。
「何はともあれ自己紹介。これって基本じゃん?」