第1話 銀翼の告げるもの [3]

 目の前で飛び交っている会話の応酬に、月羽ツキハは目を回さんばかりだった。
 恐慌状態の一歩手前、と言ってもいい。
 頼りにしていた―――とより、ほとんど縋りついていたた瑳雪サユキは、どういうつもりなのかさっさと出ていってしまい、彼女は途方に暮れていた。
 月羽は自分の置かれた状況が一年経ったいまでも、まだよくわかっていなかった。
 生みの親に厭われて、あの暗い、日の射さない部屋にいたというのに、よくわからないままにあそこから連れ出され、今度はうってかわって丁重に扱われた。
 ここに連れてこられるまでに出会った人も、ここに来てから出会った人も、みんな信じられないくらい月羽に優しく、丁寧に月羽が訊いたことに答えてくれる。
 あまりに丁寧に扱われるので、もしかして自分を弟の翼陽ヨクヒと間違えているのではないかと、なかば真剣に月羽はそう考えていたのだ。
 何も知らない月羽には、周囲の者の自分を見る目に、憐憫と同情が含まれていることまではわからなかった。
 生まれた時から与えられていた境遇が同情されるべきものなのだと、全然わかっていなかった。
 ―――双子の弟である翼陽が死んでから、ひと月後。
 月羽の前に初めて、世話役の老夫婦と両親以外の人物が姿を現した。
 人らしい人の姿をこれまで見たことのない月羽の目から見ても、立派な身なりの人物だった。
 自分とその肩にとまった銀の鳥を見て絶句していたその人物は―――後で知ったのだが、彼らは黄国の使者だった―――すぐに月羽にここから出るようにと告げた。
 わけがわからなかったが、月羽は即座に首を横にふった。
 だって自分が居てもいい場所はここだけなのだ。皆からここにいるようにと言われた。出て行くなどという考え自体、思いつきもしないことだった。
(わたしはここにいなければならない)
(そうしろと母さまはおっしゃった)
(外に出てはいけないと言われた)
(ここ以外に、わたしがいていいところはないから)
 そう主張し続けた月羽を、黄国の使者は実に根気よく何日もかけて説得した。
 月羽がそれに応じたのは、ひとえにあの銀の烏がそうしろと促したからだ。
 この鳥はあなたを外に連れ出すためにやってきたのだと言われて、月羽は肩の烏を見た。銀色の烏が、そうだとばかりに一声鳴くのを聞いて、ようやく月羽は使者の言うとおりに部屋の外に出て、次に家の外に出た。
 自分と、自分の肩に止まっている銀色の烏を見て、また母親が半狂乱になってしまったことだけが哀しかった。
 いまでも時々思うのだ。
 あの銀色の鳥―――選定烏せんていうというのだと教わった―――は、自分と弟を間違えたのではないだろうか、と。
 鳥が弟と月羽を間違えて、自分のもとにやってきたと考えることは、とても辛かったが、それしか思い浮かばなかった。
 どうして自分は、いま、あのいるべき部屋を出て、こんなところにいるのだろう。
 よくはわからないが、とにかく何かに選ばれて、丁重に扱われるはずなのは、自分ではなく弟だったのではないだろうか。
 だって自分が、こんな自分が、何かに選ばれるなんてあり得るはずがない。
 一度、瑳雪にそう言ったことがある。
 白い髪の老婦人は、目を見張って、次に笑いながらきっぱりと答えた。
 違う、と。
 選定烏は間違えたりしない。あなたが選ばれたのだと。
 選ばれた?
 いったい、何に?
 何もかもがわからないことだらけだった。
 瑳雪も、あの鳥もいまここにはいない。どうしていいかわからない。
 目の前には、さっき初めて会ったばかりの少女たちがいる。
 瑳雪の話では、これからこの五人とずっと一緒に暮らすという。
 そう聞かされたとき、月羽は何がどうなるのかさえしばらくわからなかった。あまりにぽかんと呆けていたので、瑳雪が実に根気よく同じ事を繰り返し説明してくれたほどだ。
 一緒に暮らすということは、一緒に食事をし、一緒に寝、何かをする時も一緒で、相手の顔を見ない日はなく、お互いに話をしたいときにはいつでも話ができる機会があるということだと、実に根気よく―――。
 月羽はふるえた。
 ようやく、自分の世界に自分が想像し得ないものが、境界を破って侵入してきたことを初めて実感した。
 実感した途端、怖くなった。
 一緒に暮らすとはどういうことだろう?
 誰かと一緒に食事をするなんて想像もつかなかった。
 月羽は嫌だと言って瑳雪に泣きついたが、当然のことながら彼女はそれを聞き入れてくれなかった。それどころか、あなたは絶対そうする必要があると言ったのだ。
 どうしてそんな必要があるのか、全然わからなかった。
 いまでもわからない。
 とりあえず、いま自分はこの状況下でどうすればいい?
「ツキハさん?」
「は、はい………!」
 かぶった布の下でおろおろしていた月羽は、不意に名前を呼ばれて飛び上がるほど驚いた。
 この場の全員の視線が彼女に集中していて、月羽はますます身を縮こまらせる。
「どうしてそんなに怯えてんの?」
 何の遠慮もない燈海トウミの言葉に、逆にその周囲の人間のほうが慌てた。
「そういうこと言う人がいて?」
「何はともあれ自己紹介。そう言ったのは燈海だ。私は間違った意見ではないと思う。何よりこの部屋を出て好奇の視線さらされる前に相互理解を深めるのは非常に重要なことだろう」
 紫音シオンの言葉に、白煉ビャクレンが苦笑気味に頷いた。
「そうね。瑳雪さまが油をふりまいていってくれたみたいだし」
「そして火種はここにあってよ」
 噛みつくように翠璃スイリが答える。
「あ、あの………わたし、あの………」
 もはや月羽はこの場から逃げ出したくなっていた。
 どうして瑳雪は自分をほったらかして出ていってしまったのだろう。こんなに心細いのに!
「ちょっとみんなってば! ツキハさん困ってるじゃないっ !! 」
 突如あがった紅乃コウノのけたたましい声に、びくりとして月羽は立ちすくんだ。
 残りの四人も呆気にとられたように紅乃を見ている。
 砂糖菓子みたいな薄紅色の前髪の奥から、同じ色の瞳が白煉たち四人を睨みつけていた。
「とにかくあたしたちの名前ツキハさんに教えて、この部屋から出ないとどうしようもないじゃないっ。ツキハさんの荷ほどきとかも手伝ってあげなきゃいけないし! ご飯だってもうすぐだしっ」
「貴女の頭から食事の二文字が抜けることはないの? まあ、それはともかく、いまは紅乃の言い分が正しいわね」
 罰が悪そうに翠璃が肩をすくめた。
「ツキハ、さん? とりあえず、貴女の名前の記し方を教えてちょうだい。発音にいまひとつ自信が持てないわ」
「………はい」
 とりあえず、何かしろと言われてホッとした月羽は、部屋の中央に置かれていた小卓のところまで行くと、指でそこに六国共通の表意文字を書いた。
 怪訝な顔で燈海が、書かれた文字をくり返した。
「月の、羽、でツキハ? でいいの?」
 黄国なら、生まれ石は黄色もしくは橙系統。珍しいところでは茶系統。呼び名にはその国の色を表す文字が入っているはずなのだが。
 白煉が形の良い眉をひそめる。
「あなたは黄国の生まれなのでしょう? どうして名前にその色を表す字がないの? これでは白国の名になるわ。まあ、何事にも例外はあるけれど………」
「そうなんですか………? 名前ってそんな決まりがあるの?」
 消え入るような声で逆に聞き返されて、五人は思わず顔を見合わせた。
「あなたいったい、いままでどういう暮らしをしてきたの? ………まあ、生活環境を聞くのは後回しにするわ。とりあえず、月羽でいいのね?」
 頭痛をこらえたような表情の翠璃に、ためらいがちに月羽のかぶった布が揺れた。
「はい。そう、呼んでください………」
「じゃあ、月羽」
 翠璃があっさりそう呼んで、月羽の顔を布越しに見据えた。
名告なのりはまた次の機会にしましょう。わたくしは翠璃。何とでも呼んでちょうだい」
 翠璃、と月羽が口の中で名前をくり返す前に、紫音が横から口をはさんできた。
「彼女は碧国の王女だ。よって、非常に呼び名がたくさんある。ちなみに私は翠璃姫とよんでいるが」
「ひ、姫………?」
 思わず月羽はまじまじと翠璃を見つめた。
 このとき彼女が思ったことは、お姫さまって本当にいるんだ―――だった。翼陽が話してくれたお姫さまたちとはずいぶん印象が違う。双子の弟のお話に出てくるお姫さまは、王宮というとても広くてきれいなところに住んでいて、きらきらした黄色の髪に黄色の瞳をしたとてもきれいな女の子たちのことを指すのだ。目の前の翠璃みたいなお姫さまのお話しなんて聞いたことがなかった。
 そのお姫様は、憤然として紫の髪の少女に食ってかかっている。
「あ、な、た、がっ! いちばん得体の知れない呼び名でわたくしを呼んでいてよッ !! 」
「何とでも呼んでかまわないと言ったのは、翠璃姫だろう?」
「ええ、言ったわ。わたくしに二言はなくてよ。だから得体の知れない呼び名でも我慢しているわ。けれどそれを他人に広めるのはやめてちょうだいッ」
「考慮しよう」
 淡々とそう述べると、紫の髪の少女は月羽に向き直って一礼した。
「申し遅れた。私は紫音。紫国の選徒だ」
「………翠璃さん、と、紫音さん。………覚えました」
「さん付けはいらないわ。まあ、そのうちとれるとは思うけれど。―――私は白煉よ。国は白」
「そんで、あたしが燈海。見ての通りだけど蒼、ね。で、最後に残ったこのコが」
「紅乃、です。生まれ石は紅水晶だよ」
 一度に言われて、目を回しそうになった月羽は指を折りながら、ひとつずつ確認をとった。
「………翠璃さんに、紫音さん………白煉さんに燈海さん、あと………紅乃さん」
 これでいいのかと、布のなかで顔をあげた月羽は、びくりと肩をふるわせた。
 どの顔も真剣で、真っ直ぐに、布の奥にある見えないはずの月羽の目をとらえている。
 月羽を、見ている。
 他人の視線がこの体を突き抜けて向こう側にいくことに慣れた自分にとって、まるで強烈な光の矢のような。
 まっすぐに、ただ、この自分を。
 影ができる。
 この影さえ持たなかった自分に、五つの光で影ができる。
(あ………)
 不思議な感覚が胸のうちに満ちた。
 生きてきたこれまでの時間、覚えたことのない感覚だった。
 いつか、この感情に名前を見いだせる日が来ることを。そんな生き方が、これからできることを、理屈ではなく直感的に月羽は理解した。
(翼陽)
 なぜか、死を分かちあうことなく逝った双子の弟。
 彼が生きていたとき、自分は自分が何も知らないということすら知らなかった。
 今は。
 少なくとも、自分が何も知らないと言うことを知っている。
(翼陽。わたし………ここで生きてく)
(生きてくよ。ごめんね………)
 ―――きっと。
 きっと、上手くやっていける。
 そんな確信が胸のうちに湧きあがって、月羽は思わず胸の前で両手を組み合わせた。
 祈るように。
「………ハク家の月羽ツキハです。これから、よろしくお願いします」
 五人は、それぞれの表情で黄国の選徒に頷いた。
 のちに、この時のことを彼女たちは幾つもの感慨と記憶と共にふり返ることになる。
 運命の扉をくぐった瞬間だった――――