紅乃と紫音が喫茶室に姿を現した途端、ざわりと空気が動いた。二人に続いて入ってきた月羽に視線が集中し、そこかしこで囁きがかわされる。
一瞬立ちすくみそうになった月羽だが、手をつないでいた紅乃からさりげなく引っぱられ、そのまま喫茶室を突っ切るようにして回廊側の円卓を目指した。先に席取りをしていた燈海がにこりと笑って、三人に手をふってくる。
手で座るように示され、背もたれのない丸椅子に腰を下ろした月羽はもの珍しそうにあたりを見まわした。
燈海が確保した円卓は回廊のいちばん外側。手すり間際の上席で、透かし彫りの衝立が月羽が座った椅子の後ろに置かれて視界を遮り、会話のための空間を確保している。
屋内へ背を向ける形で座った月羽の眼前には、手すり越しに荒涼とした黒地の風景が広がっていた。
「こんな良い席をこの短時間でよく確保できたものだ」
席に着きながら、紫音が感心する。
喫茶室とたいそうな名がついているが、実際は回廊の一区画とそこに隣接したいくつかの部屋の仕切りをとりはらい、円卓と椅子を並べただけの場所である。ただ外と直結した開放感と、厨房が近いため飲みものや軽食の持ちこみが簡単にできることから人気があり、ここを利用する学徒は多い。
「本当はあちらさんが座ってたんだ。いちばんに紹介するからって譲ってもらったの」
燈海は笑って、離れたところからこちらの様子をうかがっている学徒数人を手で示した。
「なるほど」
「運が良かったよ。あてにしてたのはあちらさんたちだったから、偶然ここに座っててくれて助かった」
月羽を紹介するにあたって、選徒のなかで最も顔が広い燈海が選んだ一般学徒たちが彼女たちなのだと知り、紫音は感心したように再びそちらを一瞥し、軽く頷いた。
「たしかにそれは運が良い。幸先が良くて何よりだ」
「そだ。あたし、なんか飲みものもらってくるね。みんな何がいい?」
「んー、薄荷水がいいや。冷たいの。お風呂入ったら喉乾いちゃった」
「私は果汁を」
「月羽ちゃんは?」
紅乃に問われ、月羽がびくりと肩をふるわせる。何でそう話しかけるたびに一度ふるえるのかなぁと紅乃は思ったが、口には出さなかった。誰が話しかけてもそうなので、純粋に驚いているか身構えているかで、他意はないのだろう。
「わ、わたし………?」
「うん、そう。何か飲みたいのある?」
「飲みたいの………?」
考えこんでしまった月羽の横から、紫音が口をはさんだ。
「紅乃、無難なお茶でかまわない。月羽はここを利用したことはないだろう。真剣に検討して厨房で用意できないものを希望されては、月羽も厨房も気の毒だ。あとの二人の分も含めて、何か適当に選んでくるといい」
「了解ー♪」
立ちあがった紅乃に、燈海が釘をさす。
「紅乃、まだ名前だけしかダメだよ」
「うん、わかってる」
背を向けている月羽にはわからなかったが、厨房へ向かった紅乃をさっそく誰かが呼び止めていた。足を止めないまま紅乃が「うん、月羽ちゃんって言うんだよー」と楽しそうに答えている。
考えこんだままの月羽に、念のためにと紫音は口を開いた。
「いまから紅乃が飲みものを持ってくるが、飲みたかったら仮面をとって飲んでもかまわないし、飲みたくなかったらそのままでかまわない。あまり気にしなくていい」
「はい。………あの、紫音、さん」
「『さん』は不要だ。何だ?」
「ここに、たくさんいる人たちは、なんですか?」
紫音は質問の意味を正確に把握するべく、しばらく沈黙した。
半分ぐらい呆れた顔で燈海が月羽に尋ねかえす。
「えっと、それって、あたしたち以外の人たちってこと?」
布をかぶった頭を揺らし、月羽は小さく頷いた。燈海が口のなかで紗雪の名と何事かを一緒に呟いた。何を言ってるかまでは聞きとれなかったが、紫音が考えていることとおそらく同じだろう。
「彼らは一般学徒だ」
「いっぱんがくと?」
「我々は選徒で、彼らは一般学徒だ。通常はただ『学徒』と呼ばれる。我々は選定烏による強制的な入学だが、彼らは自らここを目指して入学してきた者たちだ―――わからない言葉はひとつひとつ聞き返すといい。燈海がわかりやすく話してくれる」
「何であたし?」
「どうやら私の口調は難解であるらしい。これまでに多方面から指摘されている」
「うん、たしかに紫音の口調はときどきわけわかんなくなるよ。月羽、わからないならわからないって言って」
「わ、わかりません………」
困り果てて泣きそうな声が布の奥から聞こえてきた。
「どのあたりがわかんないの?」
「………全部、です………」
月羽は消え入らんばかりに身を縮こまらせている。
「えっと、さすがに選徒はわかるよね?」
あきらかに「困ったぞー」と言いたげな表情の燈海に、月羽はようやく頷いた。
「わたしたち六人だけが、そう呼ばれると………瑳雪さまから習いました。あのきれいな銀色の鳥が………選ぶと」
「うん、だいたいはあってる。まあ、あたしも一年前まで畑耕すだけだったから、くわしいことはよくわかんないんだけどさ。とりあえず、あたしたち六人が選徒。あたしたちはあのカラスが飛んできた時点で、ここに招待された」
「………じゃあ、ここは。このおおきな場所は………」
しゃべることに慣れていないようで、考え考え月羽は言葉を紡ぐ。
「ここは、来ていいと言われないと、来ちゃいけないところなんですか………?」
紫音がかすかに目を細めた。与えられた情報をもとにきちんと思考手順を踏んで結論を出している。語彙は幼く、話しかたもたどたどしいが、頭が悪いというわけではないらしい。ただすさまじいまでに無知なのだ。
「そうだ。ここは大陸最高峰の教育機関だ。ここに入るには色々と厳しい条件が化される。学徒はその条件を満たし、ここまで自力でやってきた者たちだ」
「わりと変人多いけどね」
軽く肩をすくめた燈海は、続く月羽の言葉で卓上に顔を打ちつけそうになった。
「きょういくきかん?」
「うそぉ………そこから?」
紫音が深々と息を吐いた。
「素晴らしい………。自我の発達や語彙力といったものがどれだけ周囲の環境に因るものなのか知らしめる存在だ。これは入念に記録をとらなければ。滅多にできない経験だ」
「紫音、あんた時々コワイよね」
「だいじょうぶだ。怖がらせるような真似は決してしない。どうせ長いつきあいなのだ。記録をとらねば損だろう」
「まあ、あたしたちに迷惑かけないんならいいけど」
他人の趣味や嗜好に関して、徹底的に不干渉―――というより無関心な選徒の最年長者はあっさりと最年少者の問題発言を許した。残りの選徒たちがこの場にいればただではすまないところである。
「あ、姫君たちだ。何だか救いの手に見えるなあ………」
紅乃と合流してこちらへと向かってくる白と碧の選徒の姿に、燈海は深々と溜息をついた。
「姫君たちは目立つねえ」
「美人だからな。さて、やってくる前にせめて話に一段落をつけておこう、月羽」
「は、はい………っ」
「学校や私塾というものは知っているか?」
またもや少し黙りこみ、月羽は首を横にふった。
「だめだな。一段落つきそうにない」
あっさり紫音が前言をひるがえす。
燈海が完全に頭を抱えこんでしまったところで、残りの三人が到着した。これで選徒全員が喫茶室に顔を揃えたことになり、もはや視線が痛いどころの騒ぎではなかった。場の全員がこちらに注目している。
飲みものの盆を持った紅乃が頭を抱えた燈海を見て、首を傾げる。
「どうしたの、燈海ちゃん。やっぱり薄荷水じゃなくて別のがよかった?」
「………紅乃は良い子だよね、うん」
「珍しいわね、荒縄並の神経を持っている貴女にしては」
「………ぜっったい姫は頭抱えるどころか癇癪起こすよ。賭けてもいいや。すごいよ、月羽」
何の話だと翠璃が眉をひそめたところで、紫音が別のことを尋ねた。
「首尾はどうだったのだ?」
「だいじょうぶよ。ちょっと無理をお願いしたけど、選徒全員が揃ったお祝いをまず六人でやりたいって言ったら、何とか空きを作ってもらえたわ。夕食は個室よ」
「よかったあ。うん、それがいいよ。みんなの目の前で食事するより、一度あたしたちで食事しといたほうがいい。絶対」
「うむ。先刻の部屋を出る前の白煉の提案は実に的確なものだった」
しみじみと頷きあう燈海と紫音に、ますます翠璃が怪訝な顔をする。
「何だというの、いったい」
「話す前に、とりあえず当初の目的を達成するべきだな。話したら翠璃姫は絶叫するだろうからその前に」
「………貴女たち、先ほどからわたくしに対して非常に礼を失していてよ」
おそろしく剣呑な表情のまま、翠璃は己の飲みものをとって席についた。紅乃と白煉もそれにならう。
「月羽ちゃん、燈海ちゃんや紫音ちゃんたちと何のお話してたの?」
冷茶の椀を両手に包みこみ、紅乃が首を傾げる。
「選徒と学徒の違いについて話していた―――さて月羽」
紫音の口調が変わったことを敏感に察し、月羽が居住まいを正して頷いた。
「先ほど選徒は我々六人だけで、残りは学徒と呼ばれる者たちだと話をしたと思うが、厳しい条件を満たし、自力でやってきた彼らと違って、我々六人だけは招かれてここにやってきた」
やたらと一部分を強調したあと、おごそかに紫音は告げた。
「つまり、とても目立つ」
一瞬、月羽はぽかんとしたようだった。仮面の奥でまばたきをくり返したような微妙な間のあとに慌てて、こくこくと頷く。
「あ、はい。とても目立ってます」
「うむ。とても目立っている」
「他のひとが、みんなこっちを見てるのは、そのせいなんですか」
「そうだ。我々は珍しいし、新しくやって来た月羽はもっと珍しい」
「そうですね………。そうだと思います」
「理解してくれて何よりだ」
新しくおろした扇子を眉間に押しあてて、翠璃が小声で唸った。
「………どうして紫音が口火を切るのを止められなかったのかしら。この馬鹿馬鹿しい会話ときたら………」
傍らの白煉がわずかに苦笑する。
「―――そこで、先ほど月羽が瑳雪から我々に紹介されたように、今度は我々が学徒に月羽を紹介したいと思うのだがよいだろうか」
月羽は首を傾げたが、すぐに頷いた。何もわかっていないと思われるその仕草に、紫音をのぞく四人は目を見交わしたが、続く月羽の言葉に軽く目をみはった。
「………さっき………翠璃さん、と白煉、さん………が部屋で、わたしの姓を隠したほうがいいと、言ってました。………わたしはこんな体だし、これ以上、お母さまに嫌な思いをさせたくない。だから、わたしも隠したいと思う………。でも、わたしは隠しかたがわからない、ので、瑳雪さまが言ったように、みなさんにまかせても、いいですか………?」
初めて長文をしゃべっているという驚き以上に、その内容に絶句している白煉と翠璃に紫音がちらりと目をやり、そのまま月羽に頷いた。
「月羽はとても飲みこみがよくて助かる。そういうことだ」
「お待ちなさい。瑳雪が何を言ったのですって?」
衝撃から立ちなおった翠璃が口をはさんだ。
月羽は首を傾げ、おぼえていた言葉をそっくりそのままくり返した。
「えっと………あなたがへいおんぶじに暮らすのに必要なことは全部あの五人が知っているのであの五人にまかせなさい、と言いました」
「………………!」
「翠璃、落ちついて。人の目があるわよ」
「姫、また扇子が折れるよ。せっかく新しくしてきたのに」
「ここはこらえたほうがいいだろう」
「翠璃ちゃん、怒らないで〜」
ぶるぶる全身をふるわせている翠璃をなだめつつ、残りの四人も天を仰いで教官に向かってそれぞれ文句を胸のうちに並べたてた。
白煉が溜息をついた。
「まかされるしかないわね」
「神帝の御心のままに。我々六人が当代の選徒だ」
「ま、しかたないか」
「がんばろうねっ」
「………どこまでわたくしたちを侮れば気がすむのかしら」
地を這うような声で翠璃が呟く。
燈海が手の甲の石核をひと撫でし、唇に笑みを浮かべた。
「んじゃ、呼びますかね」