鋼輝姫 (レディ・マジェスティ) 〔1〕
その日も、セイルーン王国第一王位継承者の執務室は、なかなかかまびすしかった。
「だからそれだと、いまとっている政策のほうに矛盾がでてきてしまうのよ!」
「だからって、誓約を偽るなんて正義じゃありません。のちのち調整すればいいじゃないですかっ。諸侯の不平不満をいまはなだめる時期なんです!」
「不満を漏らすようなロードなんか即刻、罷免すればいいのよッ」
「むちゃくちゃ言わないでくださいっ」
ぜいはあとお互いが息を切らして黙ったところで、執務室の入り口近くに置かれていた長椅子からうんざりした声がした。本来は奏上待ちの侍従が座るための椅子なのだが、アメリア王女は数年前から侍従を一人しか持っていないため、普段は保護している半精霊の少女が寝転がったり、彼女の喧嘩友達である白ネコやその家族がうずくまるだけの代物と化している。
しかし、いま現在そこに座っているのはそのどちらでもなかった。
「で、おれは結局どうすればいいんだ。アメリア?」
議論の元となっている署名待ちの書類を手に持ったまま長椅子に座っているのは、数年前、紆余曲折のすえ彼女の夫になったゼルガディスだった。現在はアメリアの執務の補佐をしているが、いずれアメリアの父親である国王の補佐の方に引き抜かれるのは間違いない。
そう言ったゼルガディスを、同じくアメリア王女の補佐をしている侍従の少女がキッと睨みつけた。もともと目つきが鋭いので、ねめつけるととんでもない迫力がある。
「あなたも傍観していないで何とか言いなさいよ。どう始末をつけるの、その図々しい嘆願書!」
とばっちりを食らって、ゼルガディスは顔をしかめた。
見れば、妻のほうは何やら言いたげにゼルガディスを見ている。
「なら、半分だけ意見を飲んでやればいいだろう。後半分は、おりを見て見当するとでも言っとけばいい」
毒気を抜かれたような表情で、アメリアと侍従の少女が黙った。
「そ、そうですね………」
「ま、まあそれなら、別にあたしとしても不満を我慢できないほどじゃないし………」
げんなりした表情でゼルガディスはアメリアに書類を渡す。手早くアメリアがそこに署名をした。
吸い取り紙にインクを吸わせ、巻いても滲まないようになるまで待っているゼルガディスの横で、侍従長が新しい書類をアメリアの前に置いた。
「これは?」
「いまの件はもう片づいたでしょう? 次のやつよ。目を通しておいてくれる? あたしはいまからこの件に関する過去の書類と資料を取ってくるから」
次の書類と聞いて、嘆息しながらアメリアが書類に目を通し始めた頃には、侍従を勤める少女は執務室から姿を消していた。
「………いつもながらに有能だな」
「もう少し妥協を覚えてくれると、もっと有能なんですけど」
笑いながら、アメリアは数年前この国にたった一人で真っ向から喧嘩を売った少女が消えた扉を見つめた。
「もう十八になりますね。いつまでもわたしの侍従をさせているのは何だか悪い気がしてきます」
「それがあいつの望みなんだろう?」
「それはそうですけど………何だか、女の子らしいことを全部取りあげてしまったような気がして」
「満足しているんならそれでいいじゃないか」
「…………あなたって人は」
少々朴念仁な自分の夫を見上げて、アメリアが何か言おうとしたときだった。
扉が叩かれ、入室を求める女官の声が聞こえてきた。
彼女が戻ってきたというわけではない。第一、彼女はノックなしに扉を開ける権限をアメリアから許されている(もっとも、以前ノックなしで入ってきて二人のキスシーンを目撃して以来、しつこいほどノックをするようにはなってはいたが)。
入ってきた女官は、来客の到来を告げ、その客が携えてきた書簡をアメリアに差し出した。
「………重いわ」
その細腕では負えなさそうな重厚な装丁の本を二冊と、これまた分厚い、書類をまとめた冊子を抱えて、侍従の少女―――イルニーフェは一人そう呟いた。
書庫に向かう途中でユズハを捕まえて手伝わせようと目論んでいたのだが、時の流れから取り残されているあの半精霊は、どこに行ったのやら姿が見えなかった。
しかたなく一人で目的の本と書類を運んでいるのだが、運悪くアメリア王女の執務室と書庫は距離が離れていた。
手が痺れてきて、どこでいったん荷物を降ろそうと思って、イルニーフェはあたりを見回した。
長い髪が頬にかかって気にさわる。
両手がふさがっているので、勢いよく頭をふって髪を払ったとき、背後から声がかかった。
「驚いた。綺麗になったね」
言っていることの内容と、声の調子が全く一致していない。
全然驚いていないその声に、愕然としてイルニーフェはふり返った。
「リーデット? どうしてあなたがここにいるの !?」
そこには、セイルーン属国であるマラード公国の第一公位継承者リーデットその人が、柔らかな陽光のなか、穏やかに笑ってたたずんでいた。
「ずいぶんと重そうだね。持とうか」
呆然としているイルニーフェの手から本と冊子を取りあげると、リーデットはイルニーフェを見おろして首を傾げた。
「もしもし?」
呆けていたイルニーフェはその声にハッと我に返ると、おもむろに空いたばかりの両手でリーデットの頬をひっぱった。
「ひたひっては!」
「何なのよ、この顔は?」
リーデットの抗議には耳を貸さず、イルニーフェは一人わめいていた。
「何? いったい何なの !? アセルス公女もそうだったけど、三十にもなって顔が二十代のときと全然変わらないなんて、あなたたち姉弟って一体顔に何を塗ってるの? 詐欺よこれは。童顔なんてレベルじゃないわよ」
「ったい、痛いよ!」
やっとのことで十二も年下の少女の手から逃れたリーデットは、両手がふさがっていて痛む頬をさすることもできず、情けない顔をした。
「ひどいなあ。数年ぶりに会ったと思ったらいきなりそういうことするかい?」
罰が悪そうな表情でイルニーフェは答える。
「だって、全然変わってないんですもの」
「君は変わったね」
リーデットがそう言って目を細めた。
呆れたようにイルニーフェは言う。
「あたりまえじゃないの。人間にとって見た目が一番変わるときだったんだから、ここ数年間は」
気を取り直したようにイルニーフェはリーデットの手から冊子を一冊だけ取りあげて自分が持つと、連れだって歩き始めた。
「いったいどういう用件でここに来たの? 先触れはなかったから、お忍びなのかしら?」
「お忍びではないよ。一応、公式な使者」
「………? どういうこと? また何か沿岸諸国ともめたの?」
リーデットが治める予定のマラード公国は、沿岸諸国から分離してセイルーンに属した、なかなか複雑な歴史背景を持つ国なので、何かと問題が絶えない。
ここ一年ほどは、何事もなかったのだが。
眉をひそめたイルニーフェの問いに、あっさりリーデットは首をふった。うなじのあたりでひとつにまとめた髪が揺れる。三年ほど前から髪をのばし始めたと聞いていたが、姉であるアセルス公女はやはり以前とかわらず短髪だという。さすがにもう二人を間違えることはないが、まったくどちらが男女かわからない姉弟だ。
「違うよ。僕の即位の許可を求める書状を持ってきただけ。さっき陛下に取り次いでもらったよ」
「即位するの?」
「らしいよ」
他人事のようにリーデットはうなずいた。
「そう。それはおめでとうと言うべきね。フィル陛下もきっと許可するでしょうし。でも、それだけなら何もあなたが直々に来なくてもよかったんじゃないかしら?」
「そうだね。でも用件はそれだけじゃなかったから」
「まだ何かあるの?」
「うん。君を花嫁にもらいに来たんだ」
イルニーフェは立ち止まった。リーデットも立ち止まる。
のどかに陽光は降り注ぎ、鳥がどこかで鳴いていた。
たっぷり数秒、沈黙が流れて、
「…………………………………は?」
どこまでも間抜けなイルニーフェの声がした。
凄まじい足音と共に扉を破らんばかりの勢いで、アメリアのたった一人の侍従が執務室に戻ってきた。
「アメリア王女っっ !!」
やっぱり、と溜め息をついてアメリアはゼルガディスを見る。そのゼルガディスも、似たような表情でアメリアを見た。
冊子を持ったままイルニーフェはアメリア王女の机の正面まで来ると、その分厚い冊子を机に叩きつけた。
「どういうことよっ。どうしてあたしがマラードの公妃にこわれるわけっ !?」
「イルニーフェ、落ち着いてください」
「これで落ち着いていられたら、ただの変人よ!」
至極もっともな言い分である。
髪にさした簪の玉が、走ったせいで大きく揺れていた。
「わたしたちもさっき書状をもらったばっかりですから、どうしてと言われても困ります」
しかしそれでもイルニーフェは収まらなかった。
「いったいッ! どこの国の人間がッ! 主国の侍従の職にある平民を娶るのよ !? 非常識もいい加減にしてちょうだい! まさか許可したりしないでしょうね !?」
すさまじい剣幕である。
内心たじたじとなりながらも、アメリアは首を傾げた。
「こればっかりは父さんに聞いてみないとわかりませんし………」
「君が許可したら良いってさ」
呑気な声が、イルニーフェが開け放したままの扉のところから聞こえた。
ゼルガディスが頭痛をこらえるような表情で呟いた。
「何だと………?」
「リーデ………」
「お久しぶり。はい、これ」
残りの本と冊子を執務机に置くと、リーデットは凄まじい目つきで睨みつけるイルニーフェにはかまわず、小首を傾げてみせた。
「君と本人が承諾したら別にかまわないって言ってたよ」
「冗談でしょう !?」
「いや、本当だよ。さっき会って、確かめてきたんだから」
イルニーフェが口を数度開閉させた。
「フィルさんがそう言ったのか?」
「そうだよ。ただ、そうすると侍従職を辞めなければいけないから、それはアメリアに聞くようにっておっしゃった」
ゼルガディスの問いに答えると、三十になってもいまだ二十代前半と何ら変わらない容貌を保つ公子はアメリアに向かって、再度首を傾げた。
「で、ダメかな?」
相変わらず身も蓋もない幼なじみの物言いに思わず顔を覆って、アメリアは大きく息をついた。
「ダメも何も。わたしに聞くより先に、聞くべき人がいるでしょう」
「うん。だから、君としてはどうなのかって聞いてるんだ」
射殺されそうな視線を感じながら、アメリアは答えた。
「優秀な侍従がいなくなってしまうのは、かなり痛いです」
視線が安堵したようにやわらぐ。
「けど、本人がそうしたいと言うんなら、わたしは止めません」
再び視線が射殺されそうなものに変わった。
「言うわけないでしょうっ」
「どうして?」
リーデットが不思議そうに尋ねてくる。
その不思議そうな表情を見ただけでも、セイルーンの若い夫婦二人が目を覆いたくなるような要領の悪さがある―――もっとも、この二人もあまり要領がいいとは言えなかったが。
イルニーフェはもはや憤死しそうないきおいだった。
「どうしてもこうしてもあるもんですかっ。どこの国に余所の国の平民を、しかも政策にかかわっている侍従を娶る世継ぎの公子がいるのよ!? あなた莫迦 !?」
「莫迦って、ちょっとひどいと思うよ。だいたいこのことは姉さんも父さんも承知してて―――」
「なら一家揃って大莫迦よ !!」
イルニーフェはきびすを返した。
「イルニーフェ?」
「午後からは久しぶりに休みを取らせてもらうわ!」
そう言い捨てると、主の返事を待たずに侍従長は執務室から姿を消した。扉が荒々しい音を立てなかったのは、ひとえに一級以上の建築技術と手入れによるものである。
「怒らせちゃったな………」
苦笑して髪をかきあげるリーデットに、ゼルガディスが深々と嘆息した。
「数年ぶりにあって、いきなり嫁にもらいに来たから結婚してくれと一方的に言ったら、誰だって怒ると思うぞ」
「ちゃんとこうして確認しに来たじゃないか」
「やり方がマズすぎます。だいたいイルニーフェがこんな縁組みを承知するはずないじゃないですか。どうして自国の家臣の娘なりと結婚しないんです?」
自分は頑として初恋を成就させたくせに、かなりドライなことをアメリアは口にした。
もっとも、以前妥協で自分と見合いをし、それから数年経って三十になるいまも結婚する素振りを見せない幼なじみを見ていると、こんなことを言いたくもなる。
長椅子に断りもなく寄っかかりながら、リーデットは笑った。
「じゃあ聞くけどアメリア。僕は『いったい誰と』結婚するべきだと思う?」
気軽なその口調に隠された裏の意味に、鋭くアメリアとゼルガディスが反応した。
「僕の母さんは前宰相の娘だ。二代続けて同じ家から姫をもらうわけにはいかない。血が濁るしね。いまの宰相にはあいにく姫がいない。他国の姫と結婚しようにも、うちと釣り合うのは沿岸諸国ぐらい。かと言って、向こうがこっちを嫌っているから縁談なんか組めるはずがない。まあ他の家臣からもらってもいいかもしれないけど………」
頬杖をついて、リーデットは二人を見やる。
「たまには妥協しなくてもいいだろう?」
ゼルガディスが鼻を鳴らした。アメリアは呆れたように首をふる。
「なら勝手にしろ」
「じゃあ、がんばってください」
「そうするよ」
リーデットは笑いながら、長椅子から立ち上がった。
「追いかけるのか?」
「いや。君たちの双子をまだ見てないから、会いに行こうと思って」
のんびりした返事に、その双子の両親は眩暈を覚えた。

