鋼輝姫 (レディ・マジェスティ) 〔2〕
憤然と歩く王女の侍従長に、すれ違う人間が驚いたように道をあける。
だが、そんなことにも気づかず、イルニーフェはどんどん先へと進んで自分に与えられた一室へと帰り着いた。
イルニーフェは扉を開けて………そしてまた扉を閉めた。
たっぷり数分の間は葛藤してから、今度はそっと扉を開ける。
「………なんでここいるのかしら、ユズハ」
「ン。お邪魔すル」
彼女と一緒で、彼女より先にアメリア王女に引き取られ、その庇護を受けてきたハーフエルフの少女が呑気に片手をあげて合図をしてきた。
ハーフエルフというのは表向きの釈明であって、本来は、半分は炎の精霊なのだという。
「もうとっくにお邪魔しているじゃないの。さっさと出ていって」
「なぜ?」
ベッドのうえに寝転がったユズハがのほほんと訊ね返してきた。
初めて会った時から、なんら変わらぬ幼女の姿で、なんら性格も変わっていない。
「あたしが帰ってきたからよ」
「わかっタ」
なぜかその理由で納得したらしく、ユズハがベッドから降りた。
「じゃあ、せあト、ゆあのところに行ク」
「行ってらっしゃい」
ユズハを追い出すと、イルニーフェは大きな溜め息をついて傍らの壁にかかっていた鏡を見た。
きつい感じのする黒い目。ゆるく波打つ同色の髪。見慣れた自分の顔だった。
数年前までは、年相応にあどけない輪郭を描いていたがそれでも同じ顔だった。
「冗談じゃないわよ」
鏡の中の自分に悪態をついて、イルニーフェは侍従のお仕着せを脱ぎ捨てて着替え始めた。
クロゼットを開けて、ごく普通の服を取り出す。
自分の髪や目と同じ、黒系統が好きで、クロゼットのなかは無彩色ばかりだ。アメリアがもっと明るい色の服もどうかとすすめるが、あまりそういう気にはなれない。
胸のすぐ下あたりで切り返しが入った灰色のワンピースを着ると、イルニーフェは手早く髪をほどいて結いなおした。
髪結いは唯一の趣味だった。あとは強いてあげるなら読書くらいしか趣味と呼べるものはない。
結い上げるのが好きなのだが、それだとただでさえきつい自分の顔がさらにきつくなることを知っているので、左右の髪だけをとって頭の後ろでねじって丸めて飾り櫛をさした。
クロゼットは無彩色ばかりだが、それとは逆に髪飾りを入れてある箱のなかには色彩が溢れかえっている。髪結いの延長線上で、髪飾りを集めることも彼女は好きだった。
飾りの部分に色石を埋めこんであるその櫛が、黒系統一色のなかやけに目立つ。
財布のなかに適当にお金を放り込むと、イルニーフェは部屋を出た。
気分転換に王宮の外に出るつもりだった。
衛兵に挨拶をして門を出て、しばらく歩いてから馬車を拾い、市の立つ広場に向ってくれるように頼む。すぐに体が傾斜を感じて馬車は大陸橋に乗ると、下層区域に向かって走り始めた。結界の役割を果たす六芒星の外壁は、巨大な都市であるセイルーンを移動することにも重要な役割を果たしている。
王宮からそう遠くない広場の手前でイルニーフェは降りると、広場の人混みに混じって市を見てまわり始めた。
様々な物が売られて、人々でごった返し、値段の交渉や井戸端会議、子どもの歓声などであたりはすさまじい騒音に包まれている。
普通に市を楽しめばいいのに、ついマーケティングリサーチをしてしまうあたりがイルニーフェの怖いところだった。
売られている野菜や穀類、生活必需品の価格や品質を確かめて、売られている量や売れ行きをはかってしまうり、行商人にどこから来たのかたずねて、居た先の話を聞いてしまう。
もはや統治者の鑑である。
まあそれでも、売られている種類が装身具の場所まで来ると、さすがにイルニーフェも普通に買い物を楽しみ始めた。
金属板に模様のうちだした腕輪に、ビーズを編んだ指輪。硝子の飾りのついた耳飾りに、蜻蛉玉のペンダント。鈴のついたブローチや貴石細工の首飾り。
なかでも熱心に見ているのはやはり髪飾りの並べられた一角だった。
簪や櫛、髪留めの素材もさまざまで、貝殻や鼈甲、象牙や銀、真鍮、漆塗りの螺鈿細工といった具合で綺羅綺羅しい。
売り手も相手が髪の長い年頃の娘と見るや、あれこれイルニーフェにすすめ始めた。
だが、さすがに髪結いとその飾り集めの趣味には年季が入っている。どの素材も細工のものも一通りは持っていた。王室御用達の目録のなかからアメリアが選ばせてくれたりもするので、とんでもない高級品も持っていたりする。
風が露店の天幕を揺らした。
フッと何気なく視線をあげてイルニーフェは、日よけの布をはるための支柱に小さなフックがかかり、そこから何十本もの組み紐がかけられているのを見つけた。鮮やかに染めた絹糸を編んで作られていて、太さも模様も様々だ。
組み紐やリボンもやはり持ってはいたが、簪などよりは数が多くない。
イルニーフェが目をとめたのは、飾り紐のなかでも模様のないただ一色のものだった。
もちろんそれも凝っていて、微妙に色調の違う同色の糸を丁寧に編んで、色に深みを出してある。その色数も碧瑠璃、真紅、翠と多々あった。
紐の束を選り分けて見ていたイルニーフェの手が、不意に止まった。
濃い琥珀色の組み紐があった。やはり微妙に色調が違う琥珀色の絹糸が編まれていて、絹糸の艶と相まって、動かすたびにその色の濃さを微妙に変えている。両端には赤い瑪瑙のビーズが留めてあった。
「そりゃあ、嬢ちゃんの髪にはちょっとばかし地味じゃないかい? そっちの、翡翠色のやつのほうが似合うと思うがね」
イルニーフェの手元をのぞきこんで売り手の男がそう言った。
「そうね」
イルニーフェはうなずいた。
「でもこれをくれるかしら。気に入ったわ」
「おや。まあそう言うんなら別にかまわないがね。なんなら一本おまけしよう。何色がいい?」
その琥珀の紐をはずしながら売り手が問うと、思いついたようにイルニーフェは言った。
「なら、そこの濃藍色のやつをお願いできるかしら。それから、この浅葱色と朱色もいただくわ」
「おおっ。気前がいいね。なら三本で銀貨三枚ってところを二枚と半分にしといてやろう」
「ちゃっかりしてるわ」
苦笑して、イルニーフェは代金を払って、包みを受け取った。
露店の前を離れて再び歩き始めたところで、唐突に背後から声がかかった。
「何を買ったんだい?」
ぎょっとしてふりむくと、リーデットが立っていた。ゼルガディスから借りでもしたのか、至って普通の服装だった。ただ、顔立ちの良さはさすがに隠しきれないので、通り過ぎる娘たちがちらちらと彼を見ていくが、当の本人はまったく気にしていない。というか、気づいているのかすら謎である。
普段でも、こういう出逢い方には皮肉のひとつもいいたくなるが、まして今回は抱いている感情が最悪だった。
自然、喧嘩腰になる。
「あなたには関係ないでしょう? だいたいどうしてこんなところにいるのかしら?」
「それは、君が街へ出たって聞いたから」
「あたしは、あなたの顔を見たくなくて街へ出たんだけれど」
「ああ、ごめん。でも帰らないから」
数年経っても何ら変わらない物言いに、イルニーフェのこめかみに青筋が浮かんだ。
十二のときは幼さが手伝ってイライラしていたが、十八のいまではシチュエーションも手伝って、非っ常に勘に障る。
「あたしは帰ってほしいわ」
「姉さんと甥っ子にお土産を買っていかないといけないんだ」
リーデットはそう言って、肩をすくめた。
「だけど何を買っていっていいのかさっぱりわからなくて。前、花瓶を買っていったら怒られたし。喜ばれたのは薔薇の花ぐらいだ」
お土産に花瓶を買っていく人間がいったい何人この世にいるというのだ。
「できれば一緒に選んでくれると助かるんだけれど」
「ならその前に、わけのわからない求婚を取り下げなさい」
「それはできない。だいたいお土産選びとは何の関係もない話じゃないか。そういうことで交換条件を持ち出すのはおかしいよ」
「わかっているわよ」
イルニーフェはリーデットを睨みあげた。
十八になったが、相変わらず身長は小柄な部類に入っていた。アメリア王女と同じくらいだろうか。
もはや市などどうでもよかった。イルニーフェはさっさと王宮に帰りたかった。
しかし、ここでリーデットの頼みを断るのもあまりに大人げない。
かといって、あっさり引き受けるのも非常に癪に障る。
しばらく葛藤した後、イルニーフェは唸った。
「いいわよ。じゃ、さっさと選んで帰りましょう。あなたの甥は何歳なのかしら?」
「九歳かな」
「わかったわ。ならさっさと行くわよ」
悪態をついて人混みの中を足早に歩き始めたイルニーフェを見て声を立てずに笑うと、リーデットはその後を追って、隣りに並んで歩き始めた。
アセルスには薔薇のお茶を、その子どもには模型細工を買って、イルニーフェはリーデットに包みをつきだした。
「はい。これでいいんでしょう?」
「どうもありがとう」
リーデットがそう言って包みを受け取った。
その様子にやはりイライラする。
「先に帰ってもらえるかしら。あたし、あなたと馬車に乗り合わせたくないわ」
「帰り先が一緒なんだから、別にいいじゃないか」
「あたしが、イヤなのよっ」
物事をはっきり言うイルニーフェの口調には情け容赦もない。
「どうしてあたしなの! もっと考えてから結婚しなさいっ。まさかアセルス公女に言われたからじゃないでしょうね!?」
「考えたよ」
リーデットがイルニーフェを見た。
琥珀の目。
そうして、気づく。自分が変なものを買ってしまったことに。
「自分で考えて、僕はここに来たんだけれど」
「…………ッ」
びたばっちーん。
「ならばあなたは最低最悪の統治者よ!」
言い捨てて、イルニーフェは憤然とその場から去った。
モミジ跡の残る頬を押さえたリーデットを、すぐそばの露店の売り手が冷やかした。
「よっ、色男だねぇ」
「………本当にそう思うかい?」
リーデットは苦笑した。
機嫌直しに王宮の外に出かけていって、さらに悪化させて帰ってきたイルニーフェを窓から見おろして、アメリアは深々と嘆息した。
「ははうえ、どうしたの?」
そばにいた娘がきょとんとして母親を見上げた。
「何でもないですよ。今日はニーフェお姉さんの機嫌が悪いみたいです」
「ニーフェあねうえ、どうしたの?」
「どうしたんでしょうねぇ」
苦笑して、アメリアは艶やかに黒い娘の髪を撫でた。
「お夕飯までまだ間がありますよ。ニーフェお姉さんのところに行って遊んできますか?」
娘は元気良くうなずいた。
「はい。いこう、クレハ」
チョコレート色の毛並みの子猫が、その小さな腕に抱きかかえられた。
ぱたぱた駆けて行く軽い足音が遠ざかってから、アメリアはふと反対側の廊下に目をやった。
「ゼルガディスさん」
アメリアのところまでやってくると、ゼルガディスは首を傾げた。
「イルニーフェはどうした」
「さっき、さらに機嫌を悪くして戻ってきました」
「…………」
頭を抱えたゼルガディスに、今度はアメリアのほうが訊ねる。
「アセリアはどうしました?」
「ユズハがさっき連れていった。どこぞで遊んでいるだろう。そっちこそユレイアはどうした」
「イルニーフェのところに向かわせました」
「まったく………」
「ええ、まったくです」
二人は嘆息して、並んで窓の外を眺めた。
今度はリーデットの姿が、二人の目に飛びこんできた。
イルニーフェはベッドのうえに買ってきた組み紐を広げた。
濃藍と浅葱の紐は、アメリアの双子の娘であるアセリアとユレイアに。朱色の紐はユズハにだった。ユズハはどういうわけかおみやげにこだわりがあるらしく、買ってこないと拗ねるのだ(どうやら最近拗ねかたを覚えたらしい)。
琥珀の紐は結おうにも自分にはいまいち似合わない。本当にただ何となく買ってきてしまったのだが………。
紐の先についた、赤い瑪瑙の玉を見て、イルニーフェは顔をしかめた。
「瑪瑙色っていうんだわ。いま気がついた」
あの濃い赤とも茶ともつかぬ髪。赤茶色というのかと思ったが、ぴったりの色をした石がここにある。
まったくどうしてこんなものを買ってきてしまったのだろう。忌々しいったらない。
だいたいどうして自分と結婚するのだ。おかしいではないか。
出逢ったとき自分は十二で、たしかに彼の姉から結婚の話は出たがあくまで冗談というかその場限りの話題だった。
まさか自分が王立学院を卒業し、侍従職について落ち着いてから再び話を蒸し返すなど予想もしていなかった。
セイルーンの侍従職。
政策にかかわっていた者を、属国の公子が迎え入れる。
これはマズイ。表向きは平民を娶ったというだけですむが、裏では主国に喧嘩を売っているようなものだ。
(どうせならあたしが国家機密に関わる前に求婚していればよかったのよ。そうすればさっさと断るなり嫁ぐなりしたのに)
そう思って憮然としたとき、扉の低い位置からノックの音が聞こえた。
「ニーフェあねうえ」
「ユレイアね」
扉を開けると、子ネコを抱えた、アメリアそっくりの子どもがイルニーフェを見上げていた。
「どうしたの?」
「おでかけしてきたんだって、ははうえがいってました」
「ええそうよ。市に行って来たわ。ああ、こっちに来てちょうだい」
とことことユレイアが部屋に入ってくると、イルニーフェは扉を閉めてからユレイアをベッドのうえに座らせた。
「おみやげを買ってきたのよ。いま結ってほしい?」
「おねがいします」
嬉しそうにユレイアが座り直した。
両親譲りのその艶やかな黒髪を梳いて、後ろでひとつにまとめると、その根本に買ってきた濃藍色の組み紐で飾り結びをしてやる。
「こっちのみずいろはアセリアで、こっちのあかいのはユズハの?」
「そうよ」
小さな手が最後の一本を指さした。
「このきいろは?」
「………一応、あたしの」
「きれい、です」
無邪気にユレイアがそう言って笑った。
クレハが小さく鳴いてベッドの上に丸まる。
しばらくするとユレイアの片割れのアセリアとユズハが夕飯に彼女を呼びに来た。
「ねえさまは?」
アセリアの問いにイルニーフェは首をふる。
「今日はいいわ。今日はフィル陛下も一緒でしょう? お祖父様に会ってくるといいわ」
昔、脅迫した手前、少し苦手なのである。
「おみやげ、ありがとうございます」
「ますぅ」
ユレイアとアセリアがぺこりと頭を下げて、茶色と白の子ネコを従えてぱたぱたと走っていった。
それを見送ってから、イルニーフェは溜め息をついた。
「………それで? どうしてあなたはここに残っているのかしら」
「今日は、一緒違ウの」
ユズハが紐を持った手をつきだした。
「やっテ」
その髪はどう見ても結える長さではない。
イルニーフェは嫌そうに顔をしかめてユズハを見おろした。
「………お入りなさい」
扉を閉めて、カーテンも閉めてしまうと、ライティングを唱えてイルニーフェはユズハに向き直った。
「あのね、さっきまで髪が短かった人間が急に髪を結って歩くのはおかしいと、あなたは思わないのかしら?」
「いまだけ」
イルニーフェは嘆息して、あきらめたように櫛を取りあげた。
「ならそこに座ってさっさと髪を伸ばしなさい………って伸ばしすぎよそれはッ。だれもベッドから溢れるくらい長くしろって言ってないわ!」
叱りつけながらイルニーフェはさらさらしたクリームブロンドを手ですくいあげた。
次の日の朝、いつも通りにアメリアの執務室に顔を出したイルニーフェに、アメリアはしばらく休みを与えることを彼女に告げた。
「どういうこと?」
「この件が片づくまで、あなたに休暇を与えます」
「もう片づいたわ。あたしはマラードに行く気なんかないわよ」
「だったらリーデをそう納得させてください」
イルニーフェは忌々しげに舌打ちした。
「それまであたしを国策にはかかわらせるわけにはいかないということね」
「そういうことです」
漆黒の瞳がアメリアを見据えた。
背は伸び、外見は段違いに変化をとげても、数年前とまったく変わらない艶を帯びた強い輝き。
「とんだ災難だわ。楽しくおとなしく侍従をやってるあたしがいったい何をしたっていうの」
言って、イルニーフェはアメリアに背を向けた。
「言われた通り話をつけてくるわ。今日中に話がつけば、午後からでも仕事に戻っていいんでしょう?」
「話がつけば」
アメリアの言葉にイルニーフェは肩越しにふりかえった。
「わたしがいうのもなんですが、相手はリーデですよ」
「………………わかってるわよ」
頭痛をこらえるような表情と口調で、イルニーフェはそう言った。
「理由はどうするんです」
「そんな今更なことを聞かないでちょうだい。セイルーンの国政に携わっていた侍従が属国に嫁ぐ。大問題よ。それこそマラードと仲の悪い沿岸諸国を喜ばせるようなもんだわ。自分たちで仲の良さにヒビを入れてるんですもの。重臣たちもいい顔しないでしょうよ」
言い捨てて、イルニーフェは執務室を出ていった。
ひとり座って、アメリアは考えこむ。
「つまり、あくまでも政治的にマズイってことですよね………」
そうしているうちに、今度はゼルガディスが入ってきた。
絨毯を踏んで、机を回りこみ横手に立って訊ねる。
「どうした」
「ちょっと………」
怪訝な顔でゼルガディスがアメリアを覗きこむと、濃紺の瞳が真剣に何かを考えこんでいた。
「そうだっ」
急にアメリアが顔を上げたので、危うくゼルガディスと互いの額をぶつけるところだった。
「ゼルガディスさん、こういうのはどうです?」
同じ艶やかな黒髪をかきわけて、アメリアは夫の耳元である案を囁いた。
「………お前、正気か?」
「本気です」
「…………………とりあえずフィルさんに聞いてきたらどうだ?」
「そうしますっ!」
元気良くアメリアは立ち上がると執務室を出ていった。
「………怒られると思うぞおれは」
誰に、とは言わなかった。
あてがわれた客室の扉がバタンと開いて、本を読んでいたリーデットは顔を上げた。
「どうかしたのかい?」
「話があるわ」
本にしおりをはさんで、リーデットは笑った。
「聞くよ」