鋼輝姫 (レディ・マジェスティ) 〔4〕
言うまでもなく、セイルーン王宮は広い。本宮とは別に、無数の庭やら離宮やら神殿やらが存在する。
そのなかのひとつ、掘り下げ式の庭園へと続いている石段の一番上に、イルニーフェは腰掛けていた。
そこから、暗い夜の庭園が見下ろせる。白系統の花だけが、夜の闇にぼんやりと浮かんで見えた。
さわさわと気持ちのいい風が吹いている。
イルニーフェはこめかみを指で揉んで唸った。
本当に今朝から頭痛がしているのだ。
そうしているうちに、さくりと芝を踏む足音がして、誰かが隣りに座った。
もはや誰だか確認する必要もない。
「………何の用?」
「何唸ってるんだい?」
「頭痛がするのよ。だれかさんのせいで」
「僕のせいなら謝るよ」
「謝られても頭痛はすぐには治らないわよ」
「そうだね」
いつものようにあっさり同意されて、イルニーフェは溜め息と共に顔をあげた。
もはや怒る気力も失せてくる。
こういう人物なのだ。
顔を上げて、相手の顔を見て、イルニーフェは目を丸くした。
「………髪、どうして降ろしてるの」
思わず頭痛を忘れて問いかけていた。
セイルーンにいる間はずっと、後ろで緩くまとめていたはずのその髪が、いまは肩のあたりでさらさらと風に流れている。
「いや、何となくだけど…………変かい?」
リーデットが指で自分の髪をつまむ。
イルニーフェは即答した。
「ええ。すっごく変」
「………正直な感想、ありがとう」
「だって、初めて見るもの。降ろしたところ」
「困ったな。髪紐は部屋に置いてきたんだ。我慢してくれる?」
「あるわよ。はい」
イルニーフェは舌打ちしそうな表情で、腰のあたりをさぐると、先日市で買ってきた琥珀の組紐をリーデットに手渡した。
「あげるわ。それ」
「どうしてだい?」
髪をまとめようとしたリーデットがきょとんとした表情で手に持った組紐をぶら下げた。
「どうせ持っていても使わないもの。その色」
「ふうん。なら、ありがとう」
納得のいかない表情で、首を傾げながらもリーデットが礼を言って、髪をまとめた。
案の定というべきか、イルニーフェの見立て通り、組紐はこの上もなくリーデットの髪の色と似合っていた。
「似合ってるわよ」
「………なんかこう、ものすごく不満そうに言わないでくれるかい?」
「あら、ごめんなさい」
さっきから今までのリーデットの言動は、普段と違ってあまりイルニーフェの勘に障らない。例の話題を持ち出してこないせいかもしれない。
月の光を浴びて、不思議な光沢を帯びている赤褐色の髪を眺めて、イルニーフェはいつぞやの初接触の光景を思い出していた。
そうだ。敵だと思ったのだ。それでもって、その次にはアセルス公女だと思った。
いまはもう間違えることはないが、やはり似ている。髪の色など完璧に同じだ。
「………何色なの、その髪」
「よく言われるなぁ、それ」
リーデットはイルニーフェを見て笑った。
「姉さんは香茶色って言うね。姉さんの旦那さんは、アズキ色だとか言ってた」
「………普通、自分の奥さんの髪の色をアズキ色だなんて言う?」
「職柄じゃないかなぁ」
「あなたは何色だと思ってるの。自分の髪」
赤とも茶ともつかぬ、澄んだ濃い色の髪。
リーデットは困ったように自分の髪を肩から前に持ってくると、見下ろした。
「えっと………錆び色?」
「あなた、色彩感覚ゼロでしょう………?」
「うーん。どうだろう」
唸ったリーデットが不意に目を細めてイルニーフェを見た。
「なら、君なら何て言うの?」
イルニーフェは言葉に詰まった。
しばらく沈黙してから、しぶしぶ言い出す。
「瑪瑙色………」
「ああ。なるほど。それいいな。今度姉さんにもそう言おう」
納得したようにリーデットがうなずいた。
同じ石段にちんまりと腰掛けているイルニーフェと、その横のリーデット。
後ろから見れば、実にいい雰囲気である。少なくとも、喧嘩真っ最中には絶対見えない。
後ろ姿の二人が見える、少し離れた植え込みの陰にドレスを広がらせて座りこんでいる人影があった。
「………すっごいじれったいですね、あの二人」
小声でぼそっと呟いたアメリアを、ゼルガディスが軽く小突いた。
「あのな。なんでおれまでお前につきあわされなきゃならないんだ?」
「何言ってるんですか。夫婦は一心同体です」
ふんわりとドレスを広がらせて芝に座りこんでいるアメリアの横で、ゼルガディスは腹這いに寝転がって両肘をついて上体を起こしている。
そのゼルガディスは脱力して芝の上に突っ伏してしまった。
「だめですよ。こんなところで寝ないでください」
「頼まれたって寝ないから安心しろ………」
実に仲良く夫婦漫才をやっている二人の前で、別の二人は仲良くとは言い難いが、それでも何とか会話を続けている。
「イルニーフェは、どうしてこの紐を使わないの」
「だってこの色はあたしの髪には似合わないわ」
「そうかな」
「そうよ」
「綺麗な色なのに、もったいない」
リーデットが名残惜しそうに呟いた。
「その髪」
「…………はあ?」
てっきり自分があげた組紐のことを言っているのだと思っていたイルニーフェは、思いっきり妙な顔でリーデットを見た。
「やっぱりあなた、目がおかしいわ」
「どうしてだい?」
イルニーフェは嘆息して、自分の髪をつかみとると、ひらひら振って見せた。
「これのどこが綺麗に見えるの? こういう髪は、質の悪い髪っていうのよ」
その通りに、固くて癖のある、うねった針金のような髪だ。
黒のようなそうでないような、純粋でない色。
リーデットは納得のいかない顔でイルニーフェの髪を手に取った。
「どこが悪いのか、悪いけど僕にはさっぱりだ。女の人の基準はよくわからないよ。綺麗な鋼色だと思うんだけれどな」
「鋼色………?」
イルニーフェは眉をひそめた。
「そういう色だと思うよ。黒で、金属みたいに光るから」
「初めて聞いたわ」
「そう?」
イルニーフェはリーデットの手から髪を取り返した。
「でも、やっぱり髪質は悪いのよ。変な癖がついてうねって結いにくいんだから」
「なら、どんな髪がいいんだい」
「そうね。アメリア王女のとか、シルフィールの髪は綺麗だわ」
イルニーフェは話しながらその二人の髪を思い出しているようだった。
「アメリア王女のは、固いんだけど癖がなくてまっすぐだから、とても綺麗だわ。シルフィールのは柔らかくてこれも綺麗なの。あなたはそうは思わないの?」
リーデットは首を傾げた。
「言われてみれば、そんなものかな」
「………もったいない」
嘆息混じりに言われた言葉に、さらにリーデットは首を傾げる。
「何が?」
「同じくらい良い髪してるのに、こんな色彩感覚ゼロの人間が持ち主だなんて」
「なら、君がなんとかしてくれると助かるな」
さらっと言われたセリフをイルニーフェが飲み込むのには、数秒かかった。
彼女にしては驚異的な遅さである。
思わず半眼で問いかけた。
「……………………えっと、それは、ナニ。もしかして口説かれてるの、あたし」
「一応」
「…………そう…………」
もはや怒る気力もどこかに蒸発し果てて、額を押さえてしまったイルニーフェである。
「それはもう少し何とかするべきだと思うわ。ゼルガディスもそこまでひどくはなかったと思うわよ」
めちゃくちゃな引き合いに出されたゼルガディスが飛び出そうとするのを、アメリアが必死で押しとどめる。
リーデットは不本意そうな顔で隣りに座った少女を見た。
「なら、君は何て言うの」
「あたし?」
イルニーフェは眉間にしわを寄せながら答えた。
「ぐずぐずしてるのも無駄なことも大嫌いだもの。さっさと聞いて終わるわね。あたし、あなたのことが好きだけど、あなた、あたしのことが嫌いなの? 好きなの? はっきりさせてちょうだいって」
「………それはそれで、何とかするべきだと僕は思うよ」
「失礼ね。どこがいけないっていうのかしら」
もはや断じて、口説こうとしている男性と口説かれようとしている女性の会話ではない。
アメリアは何やら眩暈のしてきた頭を押さえ、ゼルガディスは再び芝に突っ伏している。
だが、二人は至って平然としていた。
「はっきりしないのは嫌いなんだね」
「大嫌い。だからさっさとはっきりさせてちょうだい」
リーデットが珍しくムッとした表情をする。
「失礼だよ、それ。僕は最初っからはっきりさせていると思うんだけれど」
「それなら、あたしだってそうよ」
「君ははっきりしていないよ」
「それはどういう意味かしら?」
険悪な雰囲気が、再び二人の間に漂い始めた。これまでと違うのはリーデットも憮然としていることだろう。
「そのままの意味だよ。はっきり言うけれど、周りの状況なんか、それこそ最後にはどうでもいいんだ。アメリアの場合がそうだ。僕は、君が断るちゃんとした理由をまだ聞いていない」
「あたしも、あたしに求婚するちゃんとした理由を聞いていないわ」
リーデットは目をしばたたいた。
「言ってなかったっけ?」
「言ってないわ」
「そうだったっけ?」
「君がいいとしか聞いてないわよ」
苦虫を噛み潰したような表情でイルニーフェが答える。
「それはしまったな」
イルニーフェは深々と嘆息した。
「あなた、やっぱりどこかおかしいわよ………」
「うん。そうかもしれない。でも、君がいいのは本当だよ」
「だから、どうして?」
「君だから」
イルニーフェはスッと目を細めた。
「なら、あたしも言うけれど、あなただから、嫌なの。リーデット立太子」
リーデットが面白そうに膝の上に頬杖をついてイルニーフェを見た。
「それはつまり、僕がマラードの公主になるのをやめて、アセルス姉さんみたいに一般人として求婚するなら受けても良かったってことになるのかい?」
イルニーフェは大きく息を吸った。
「……………………そうよ」
「なら、無理だね。僕にはそんなことはできない。公主になる。それは絶対だ。アメリアがここを出ていかなかったのと同じ理由は、僕にもあるんだ」
イルニーフェはリーデットを見つめて、わずかに顔をほころばせた。
「あなたのそういうところ、あたしは好きよ」
リーデットが目を細めて笑う。
「そういう君が、僕はいいんだ」
イルニーフェは盛大に顔をしかめた。
「あなた、それってかなり趣味が悪いわよ」
「………だから悪いけど、どこが悪いのか僕にはさっぱりだ。僕にとっては君がいいと思えるんだから、ほっといてくれ」
「呆れた………」
イルニーフェは頭を軽く振った。
「何だか、あなたと話しているとこっちまで頭がおかしくなりそうよ」
「馴れてほしいんだけれど」
「むちゃくちゃなことを言わないで。馴れるようになったら人格の崩壊だわ」
「そこまで言うかい?」
「言わせてもらうわよ」
イルニーフェは少しだけ笑って、そう言った。
「なら、馴れなくてもいいから、それにつきあってほしいんだ。僕は絶対条件変えないから、君になんとか曲げてもらうしかないんだれど」
「………やっぱりあなた、こういうのものすごく下手よ」
「だからって、君がさっき言ってたものもどうかと思うよ」
イルニーフェは視線を眼下の掘り下げ式の庭園に向けたあと、あきらめたようにがくっと首を落とした。
「………ああもう、しょうがないわね」
植え込みの陰の二人が思わず身を乗り出す。
イルニーフェはこめかみを押さえて、リーデットを睨んだ。
「条件があるわ」
「なんだい?」
「言っておくけど、あたし本当に容赦ないわよ」
「知ってるよ」
何を今更という表情でリーデットが答えた。
「勝手するわよ」
「いいよ」
「ひっぱたくわよ」
「手加減してくれないか」
「髪いじるわよ」
「好きなだけどうぞ」
「浮気するわよ」
「それはダメ。………ってするの?」
「しないわよ。莫迦らしい。興味ないもの。勝手に政策を出すことはやると思うけれど」
「それはいいよ」
「これっきり妥協、しないわ」
「それがいいんだ」
呆れかえった表情でイルニーフェが首をふった。
「あなた、やっぱり趣味が悪いわ、絶対」
肩を揺らしてリーデットが笑った。
「立ってくれるかい?」
「は?」
まじめな表情に戻ると、リーデットはイルニーフェに立つように促した。
「どうして立たなくちゃいけないのよ」
「ちゃんとした求婚ができないから」
絶句して、イルニーフェは吹き出しそうになった。
妙なところで律儀な性格である。
素直に立つ気は端からなかった。
「言いなさい。いまこのまま。ちゃんとしたもへったくれもあるものですか」
珍しくリーデットの方が顔をしかめてイルニーフェを見たが、やがてあきらめたように口を開いた。
「ええと。ならリーデット=アルス=セラ=マラードは、イルニーフェ=テュストに結婚を申し込みます。どうか受けて下さい」
イルニーフェが、それに応えて口を開きかけた時だった。
「その求婚、もう一度やり直してください」
二人は盛大に顔をしかめて、揃って声の聞こえた後ろの方を振り向いた。
アメリアが、嫌そうな顔のゼルガディスを引っ張って、二人の方までやってきた。
「もう一度やり直してください。リーデ。イルニーフェの名前が間違ってますから」
「はぁ?」
イルニーフェが変な物を見るような目つきでアメリアを見返した。
「あなたの記憶の方が間違っているわよ、それ。あたしはあなたと出逢ったときからイルニーフェ=テュストよ」
「あのね、アメリア………」
さすがに頭痛をこらえるような表情で、リーデットが幼なじみを呼んだ。
「いったい、急に出てきて何をどう言い直せっていうの」
「イルニーフェ=テュスト=シージェ=セイルーンに言い直してください」
『……………………は?』
イルニーフェとリーデットが揃って間の抜けた声をあげた。
当の本人が聞き返す。
「………何ですって?」
「だから、求婚をやりなおしてください。イルニーフェ=テュスト=シージェ=セイルーンで」
そうくり返して、アメリアはにっこりと笑って言った。
「結婚祝いということで」
「うわ、すごい持参金がついてきた」
リーデットがかなりズレた感想を呟いた。
「…………」
イルニーフェがぶるぶると拳をふるわせる。
この後の事態を予測したリーデットとゼルガディスが耳をふさぐと同時に、立ち上がったイルニーフェが絶叫した。
「あなたいったい何考えてるのよおおおおおおッッ !!」
「………ほら見ろ、やっぱり怒ったぞ」
ゼルガディスが後ろでぼそりと呟いたが、アメリアは全くこたえていないきゃろーんとした様子で続けた。
「ですから、わたしからの結婚祝いということで。これなら、侍従が嫁ぐという政治的な問題もなくなりますし、数年前に言った冗談も実現できます。主国からマラードへの降嫁が成立すれば繋がりも深まりますし、万事めでたしめでたしですよね」
「ぜんっぜん、めでたくないわッ !!」
「ダメです」
「何が !?」
「もう決定したことですから」
言って、アメリアはぺろっと羊皮紙を広げて見せた。いつぞやかっぱらったことのある見覚えのある印と、現国王フィリオネルの署名。アメリア王女の署名。
これでもかとばかりに、セイルーンの最高決定の三つが揃い踏みである。
顔を真っ赤にしたイルニーフェが二、三度何か言いかけて、やがてあきらめたらしく、一生分に相当しそうな深い深い溜め息をついた。
「………………シージェの部分をローゼに直してちょうだい。アメリアお義姉さま」
「わかりました」
あっさりとアメリアはそう言って、くるくると羊皮紙を巻いた。
そうしてゼルガディスの腕に自分の腕をからませて、笑いながら告げる。
「それじゃあ、わたしたちは退散しますから、ちゃんと求婚をやりなおしてくださいね。ちゃんとした名前で。では、おやすみなさーい」
嘆息しながら、ゼルガディスが二人に片手をあげる。
たっぷり二人の姿が本宮に消えるまで見送ってから、イルニーフェは頭を抱えた。
「何なのよ。この非常識の塊のような国は !!」
「いまに始まった事じゃないよ」
「それは良く知ってるわよ! だからあたしがここにいるんじゃないの!」
現国王とアメリアを脅して、セイルーンに喧嘩を売った自分が、そのアメリアに王立学院に通わせてもらって侍従長になっているである。
非常識と理不尽さが積み重なってイルニーフェのいまがあるようなものだ。
この分だと、この先もそうなりそうである。
「知っているなら別にいいじゃないか。いまでも充分非常識な目にあっているんだろう?」
「それでもこれは極めつきよ………。ロードの庶子。認知されてなくて平民で、おまけにセイルーンに謀反をしかけたこのあたしが、『セイルーン』?」
悪い冗談のようにしか聞こえない。
「立派な王族だねぇ」
「………あと一回言ったらひっぱたくわよ」
「最初に言ったのは君だよ」
リーデットがそう言って、膝をついてイルニーフェの手を取った。
「ちょうどいいや。立ってくれてるし、やり直してもいいかい?」
「ダメよ」
イルニーフェはきっぱりそう言うと、腰に手を当てて言い放った。
「あたしだって、見下ろすのも見上げるのも嫌いなのよ」
しばらくイルニーフェを見つめていたリーデットはフッと笑って、立ち上がった。
石段の一番上から一段降りると、ちょうど身長差が埋められて互いの目線がきっちりと合う。
「なら、これは?」
「結構よ」
あくまでも偉そうなイルニーフェに、リーデットはくすりと笑う。
「なら。リーデット=アルス=セラ=マラードは、イルニーフェ=テュスト=ローゼ=セイルーンに結婚を申し込みます。マラードの共同統治者として、そして妻として、私の隣りにいてください」
「―――いいわ」
顎をつんとあげて、イルニーフェは応えた。
「なってあげる。リーデット=アルス=セラ=マラード公太子」
「リーデでいいよ。ずっと前に一度だけ、そう呼んでくれたことがあった」
「なら、リーデ」
イルニーフェは、それこそ今日何度目かもわからない溜め息を吐いて、それから気を取り直したように、にっこり笑った。
「あなたと結婚するわ」
―――嫁ぎ先のマラードで、鋼輝姫という呼び名を奉られることになるのは、それから数年先の話である。

