光の扉 (オープン・ザ・ゲート) 〔序〕
その日、リナはゼフィールシティの魔道士協会本部で個人の研究室をもらっている数少ない人物のうち一人を尋ねるところだった。
そこまで行く途中の廊下で見覚えのある職員に出逢って、思いっきりガンを飛ばす。
だれが忘れようか、あの忌まわしいローブを手渡した魔道士の顔を。
しばらくにっこり笑って睨みつけていたリナの背後から、冷ややかな女性の声がした。
「やめたまえ、リナ。その表情と発汗の量からして彼は非常に怯えている」
リナは溜め息と共に視線を外すと、背後の人物をふり返った。
くすんだ金褐色の髪をうなじのところで、棒のようにきっちりとまとめ、飾り気も何もない魔道士の標準ローブにその細身の体を包んでいる。
濃い紫色の瞳がきまじめな表情でリナを見返していた。
「おひさしぶり。イフェル」
「ああ、実にひさしぶりだ。逢えて嬉しく思っている」
皮肉でも何でもなく、これは本音である。こういう人物なのだ。
クローラー=イフェル=シオン。いったいどれが姓でどれが名前なのかさっぱりわからない名前を持った、リナとは同期の友人である。一応クローラーが名前なのだが、名前がいちばん姓らしく聞こえる。
魔道士協会の建物内に個人の研究室をもらっている、数少ない魔道士の一人だった。
「あたし、あなたに逢いにきたんだけど?」
「わかっている。約束の物を取りにきたのだろう?」
リナと並んで本部の廊下を歩きながら、クローラーは左眼にはめた片眼鏡を直した。
「しかし、意外だ」
「何が?」
「全てがだ。君が結婚して既に娘もいるという事実も、優秀な魔道士たる君が他人の研究の成果に興味を示すことも、さらにはその研究が、全く君が興味を持っていなかった分野であることも」
さらりと無表情に告げると、クローラーはさっさと自分の研究室のドアを開けて入っていく。
くどいようだが、こういう人物なのである。もちろん悪い人物ではないし、リナの数少ない同期の友人なのだが。
「だから、それは前にも言ったでしょう?」
「知っている。君がこの冊子を――――」
そう言って、クローラーは机の上に置いてあった薄い本を取り上げた。
「私の未発表の論文を取りに来た理由に関してはすでに聞いた。もちろんそれについては私も了解している。むしろ、全面的に協力を惜しまないつもりだ」
「だったら―――」
片眼鏡の奥で、濃紫色の瞳がキラリと光った。
もしかして、おもしろがっているのかもしれない。
「だから、意外であるという点と私の個人的な興味は、君のハートを射止めた男性と君の娘の魔道的資質に関してだリナ=インバース。聞くところによると君の配偶者は非常に美形なのだとか?」
「イフェルっ !!」
「しかし私が君という個人を判断考察した結果によれば、君が最終的に人の内面より見た目に重きをおく傾向があるという事実はあまり見られない。よって、その美形であるという属性は後から付随してきたものなのだろう。真実を知りたいと切に願うのだが?」
ようするにガウリイのどこに惹かれて結婚したのかと聞いているのである。くそややこしい言い回しを省けば。
野次馬根性が理論武装しているようなものだ。
(だから、あんたの手は借りたくなかったのよーーーーーーーっ !!)
心の中でリナは絶叫した。
内心絶叫しつつも、羊皮紙を薄い板ではさんで紐で綴じてある冊子を受け取ってパラリとめくる。
「これでいいのか?」
クローラーの問いに、リナはうなずいた。
「ありがとう、充分だわ。もしかして、また何かわかんないことがあったら聞くかもしれないけど、そのときはよろしく」
最悪の場合―――いや最悪などと言ってはいけないこの分野に関してこの同年の女性は第一人者なのだから、まず間違いなく彼女の手を借りることになるだろう。
「遠慮なくきいてくれ。私も話を聞く限り、彼には非常に学術的興味をそそられる。ぜひ一度逢ってみたい」
「………その場で解剖したりとかしないでしょうね?」
クローラーは胸に手をあてて心外だという表情をしてみせた。
「おおリナ、君は私をそのように見ていたのかね」
「うん、すっごく」
ためらいもなくリナは頷いた。普通の人物ならここで絶句して会話が途切れる。
だが、リナの反撃にいっこうに痛痒を感じないのが、この彼女の彼女たるゆえんなのである。
「それは心外だ。その場でだなどと不用意なことがどうしてできよう。きちんと設備の整った私の研究室に連れてきてから、ゆっくり―――」
「解剖すなッ!」
「………いったい何の会話をしているんだ、君たちは」
「おお、ユーリス。いつからそこに」
クローラーの声にリナがふり返ると、入り口のところに頭痛をこらえるような表情で茶色の髪をした青年が立っていた。
「さっきからだ。話が終わるまで待ってるつもりだったんだが、どうしてこう君たちの会話は際限なくズレていくんだ?」
「きっと愛だろう」
「………相変わらず彼女の冗談のセンスは向上していないみたいね、ユリシス」
ユリシス=ログラント。
こちらもリナの同期の魔道士だった。リナとは友人と知人の微妙な位置にいる青年である。天才肌の神経質な性格で、リナとは常に魔道の才能争いをしていた。二人の間にクローラーがいなければ、とっくに対立していただろうことは否めない。
ユリシスが眉間にしわを寄せて、こめかみを指で揉んだ。
「向上をはかるとしたら、クローラーの思考形態を一度無に帰す必要性がある。それは彼女の魔道士としての実績を考えるだに、あまり得策とは思えなくてね」
「何やらひどい言われようだが………」
クローラーが無表情にそう呟いて、かくんと首を傾げた。
「ところで何の用だ、ユーリス?」
「いや、次の学会での発表案に関してなんだが………」
あっという間に専門的な話に突入した二人を眺めながら、リナはわずかに顔をしかめた。
個人プレーが激しい魔道の研究世界において、この二人は非常に珍しい共同研究者なのである。リナとユリシスは親友ではないが、クローラーと彼は間違いなく親友だろう。
リナが顔をしかめたのは、いつまで『親友』なのかということである。現在、クローラーの名前を呼ぶことが許されているのはユリシスただ一人である。特別なのは間違いない。
だがしかし、それはリナにはいまのところ関係のないことだ。
やっかいごとに首を突っこむのは好きだが、ここ数年は妹分にあたる女性の恋愛だけで手一杯である。
つい先日は、その妹分から素晴らしい贈り物を届けてもらった。
そのおかげで私事が片付きそうなので、そろそろ向こうの恋愛も本腰を入れて助けてやらねばならない。
辞去の挨拶をして研究室を出ていこうとしたリナの背中に、クローラーの声がかかった。
「ああ、いずれまた遊びにきてくれ。そのときはぜひ、君の配偶者と娘をつれてきてくれると嬉しい」
「冗談じゃないわよおおおおっ!」
絶叫して、リナは研究室のドアを閉めた。
「ったく………」
大きく息を吐き出して、リナは手元の冊子に視線を落とす。
無意識のうちに口元に苦笑が浮かんだ。
「やれやれ………これは、どうやったら役に立てることができるのかしらね」
早くクローラーとユリシスがこの成果を公に発表してくれればいいのだが。
彼女に送るのがいちばん確実に彼の手元に届くだろうか。先日、リナのところからセイルーンに戻って行った彼女の使いに渡せれば良かったのだが、あいにくと間に合わなかった。
「おみやげ買ってから帰んなきゃね………」
帰りを待ってる娘の顔を思い出して、リナはくすりと笑った。

