蛍姫 (フローライト・ソング) 〔1〕

 左右に広がる山裾の間に抱かれるように存在する村がある。
 大きくもなく小さくもない、ごく普通の村。麦を育て、背後の山からはわずかばかりの鉄とそれに付随する半貴石などの鉱石がとれる。
 街道から二、三時間も寄り道すればたどりつくことができるため、宿を取るために立ち寄る者も多い。しかし、再び街道に出戻る手間を惜しんで、先を急いで素通りしていく者もいる。
 そんな村。

 山が鮮やかな萌え色に包まれて、音もなく雨が降る季節。


 娘がひとり、立っていた―――




「この村に参られるか」
 細い街道を行くアメリアとゼルガディスに、少女の声がかかった。
 雨滴で煙る視界に目を細めて、ゼルガディスが声のしたほうを見る。
 街道の脇、緑の下草を踏んで、小柄な娘が立っていた。
 視界は悪く、周囲の気配にそれほど神経を尖らせていなかったため、彼女がいつからいたのか見当もつかない。
 濡れるのを嫌がって(何せ白の巫女服では透けてしまう)風の結界をはっていたアメリアは娘が何を言ったのか聞き取れず、きょとんとして結界を解いた。
「この先の村に、今日は泊まられるのか?」
 娘は小首を傾げてそう尋ねてきた。
 ぎょっとするほど鮮緑色の目をした娘だった。
 どこまでも明るいのに、底の見えないクリアな目。自ら蛍光を放ちそうなライトグリーンのその瞳がアメリアをゼルガディスを交互に見ている。
「そのつもりだが………?」
 ゼルガディスが警戒心からわずかに眉をひそめてそう答えると、娘はしばし沈黙して、やがて納得したようにうなずいた。
「そうか」
 言って娘は身をひるがえした。萌黄色の裾が同色の草のうえにふわりと広がって、二人は一瞬それに目を奪われる。
「おい、待て―――」
 慌てて娘を呼び止めようとして、ゼルガディスは絶句した。傍らのアメリアが目をしばたたく。
「え………? いまの娘さん、どこへ行ったんですか………?」
 霧雨のなかに溶けるように、彼女はアメリアたちの前からその姿を消していた。



 細い街道を目的の村に向かって歩きながら、アメリアが尋ねた。
「………ねえ、ゼルガディスさん。さっきの子、濡れてるように見えました?」
「………いや」
 ゼルガディスは小さくかぶりをふる。
 濡れてなかった。それどころか。髪は湿気さえまとわりつかせてはいなかった。
 そこまで考えて、ゼルガディスは気づいた。
「おい、髪は長かったか?」
「は? え………言われてみると………長かったような短かったような………」
 だんだんとアメリアの言葉尻が消え入るように小さくなっていく。
「目は緑だったよな」
「はい。それは確かです………何なんでしょう」
「さあな」
 素っ気なく答えて、ゼルガディスは前方の白くかすむ村の影を見た。
「どっちにしろあそこで一泊はしなきゃならん。それとも魔力が尽きるまで風の結界を唱えているつもりか?」
 また何やら唱えているアメリアに視線をやると呪文を途中で中断した少女がぷうっとふくれた。
「当たり前じゃないですか。それとも濡れてろっていうんですか?」
「んなことは一言も言ってないだろうが。尽きると結局濡れるからマズイだろうと言ってるんだ」
(俺がな)
 内心そう付け足して、ゼルガディスはふくれっ面のアメリアの背を押して先を急がせた。



 たどりついた村の一件しかない宿の女将おかみは身も蓋もなかった。
「泊まる部屋はないよ」
 服の袖から水が滴りそうなゼルガディスが気色ばむ。
「そんなわけないだろうが」
「そうです。あの娘さん、泊まれないなんて一言も言いませんでした」
「娘………?」
 アメリアのセリフに、女将が眉をひそめる。
「この雨のなか、だれに会ったっていうんだい」
 ゼルガディスとアメリアは顔を見合わせた。
 確かにこの雨の中、人に会うのはおかしい。土砂降りではないが、体にまといつくような雨が昨日からずっと降っているのだ。
 アメリアがしどろもどろに答えた。
「あの、その………娘さんです。多分、この村の………。目が明るい緑色をした………」
 女将が目を丸くして、アメリアとゼルガディスは何を馬鹿なと言われるのを覚悟して身構えた。
 そうして言葉が落とされる。
「なら部屋はあるよ」
『………は?』
 思わず間の抜けた声をあげたアメリアとゼルガディスには委細かまわず、女将は奥へと入り、戻ってきたときには山のようなタオルを抱えていた。
「なんだい、あんたたちも。蛍姫に会ったんなら素直にそう言えば、こっちも嘘をつかずにすんだのに」
「蛍姫………?」
 タオルを押しつけられながら、ゼルガディスが呟いた。
 この小さな村で、『姫』とはまた大層な呼び名である。しかもあくまで自然にそう口にされ、娘の名前すら出てこない。
 抱えたタオルがどんどん水気を吸っていくのがわかった。
「ゼルガディスさん」
 アメリアがゼルガディスの濡れた服の袖を引っ張った。
 彼女の視線の先、雨にもかかわらず涼を求めて無造作に開かれた窓の外に目をやって、ゼルガディスも目を見張った。
 濡れた黒土の道をはさんだ向こう側に、あの娘がいた。ふうっと、二人の見ている先で窓を左から右に横切っていく。やはりどこか現実離れした様子だった。
「見ました?」
「ああ、見えた。やっぱり村の娘のようだな」
 呆然と呟いていると、宿の女将がひょいと窓をのぞいた。
「おや、蛍姫かい? ああ、もういないね」
「何だと?」
 ゼルガディスとアメリアは慌てて窓から首をつきだして外を見た。見通しがいいにもかかわらず、ついさっき横切っていたはずの娘の姿は影も形もない。
「いったいどういうことなんですか?」
 アメリアの問いに女将は笑って答えた。
「どうもなにも、祭りがもうすぐだからね」
「祭り? じゃあ、あの娘は巫女か何かか」
 聖職にある女性が神聖視されて姫と呼ばれるのは珍しくない。しかし『蛍』とはまたどういうことだろう。蛍の季節はもう少し先だ。
 いまはただ、雨ばかり。
 訊ねたゼルガディスを、呆れたように女将は眺め回した。
「質問ばっかりしてないで、さっさとまともな恰好におなりよ。いつまでも床を濡らされていたんじゃたまらない。部屋に行って着替えとくれ」
 二人は早々に部屋へと追いやられた。



「ゼルガディスさん。入ってもいいですか?」
 ノックと共にアメリアの声がした。
 ゼルガディスが返事をすると、髪にわずかばかりの湿り気を残したアメリアがひょこっと顔を出した。
「どうしたんだ、その服は」
「宿の女将さんに貸してもらいました。えへへへ、似合います?」
 アメリアが笑って、大きく開いた袖口を手でひっぱった。
 季節柄、少し暑そうにも見えたが、雨が降って気温が下がっているのと、肘のあたりまで大きく切れこみが入っているため、見た目ほどではなさそうだった。切れこみのせいで袖が垂れ下がらないように、紐が飾りのように渡されている。
 あとは腰のところをリボンで締めた、ごく普通のワンピースだった。ただ、このあたりの伝統模様なのか裾にぐるっと刺繍がしてある。
 色は、あの不思議な娘と同じ萌黄色。
「やっぱりわたしもちょこっと濡れちゃいましたから。ゼルガディスさんのほうこそ平気ですか?」
「ああ」
 ゼルガディスも、荷物の中の予備の服を出して着替え終えていた。
 開け放された窓の向こうの雨を見て、アメリアは首を傾げる。
「雨、当分はやみませんね」
「そういう季節だからな。やむのを待っていたらいつまでたっても動けん」
 吹きこんだりするような類の雨ではなく、季節もまだ降り始めの時期だから、嫌な感じはなく、むしろ好ましいものなのだろう。割と平気で家々の窓は開け放たれ、涼を呼びこんでいた。
 水の大気に溶けた花と緑の匂いが涼しい空気と共に、二階にあるこの部屋までも届いてくる。
「そのことなんですけど、ゼルガディスさん」
 アメリアが困ったように言った。
「女将さんが、祭りが終わるまでは人の出入りは一切禁止だというんです」
「………何だと?」
「何でもそういうしきたりだとかで………」
 地方には地方の風習と閉鎖性がある。
 ゼルガディスは眉間を押さえて頭痛をこらえた。
「じゃ、俺たちは何なんだ」
「わたしたちは、蛍姫に会ったから祭りの客人なんだそうです」
「だから何なんだ、その蛍姫とやらは」
「それがさっぱり………。はぐらかされるばかりで………。わたしたちがお祭りの客なら、教えてくれたっていいと思うんですけどね?」
 ゼルガディスは嘆息した。
「で、祭りはいつだ。その蛍姫とやらの祭りなんだろう?」
「一週間後だそうです」
「一週間!?」
 いくらなんでも長すぎる。一週間も人の出入りを禁じるというのか。街道近くにある村だという事実が信じられないくらいである。
「冗談じゃないぞ。いくらなんでもそんな悠長にしてられるか」
 別に監禁までされることはないだろう。祭りに水を差すのは気が引けるが、さっさと出て行くべきだとゼルガディスは判断した。
「ですよね………」
 アメリアも溜め息混じりにそう言った。
 そのとき、扉からが控え目にノックの音がした。
「どなたです?」
 おそらく宿の女将だろう。というか、それしか考えられない。
 しかし、聞こえてきたのは少女の声だった。
「私は蛍姫という。ここを開けてはくれぬだろうか」
 ゼルガディスとアメリアは顔を見合わせた。
「開いている。勝手に入ってこい」
「ならば失礼するぞ」
 果たして入ってきたのは、村に入る手前で二人に声をかけ、さらに先ほど雨のなか村をさまよっていた娘だった。
 艶のある緑の瞳が、何よりもまず先に目にとまる。
「あんたが蛍姫なのか」
「たったいまそう名乗ったではないか。聞いてはおらなんだか?」
 娘が尊大な口調でそう言って、小首を傾げた。左右の髪を編んで前にたらして肩までのベールをかぶり、それよりも遙かに長い、大量のうねる髪を背中に流している。
 アメリアの来ている服に大量の装飾と刺繍を施したような、現実離れした服装だった。
「何の御用ですか?」
 戸惑った表情でアメリアが訊ねると、蛍姫はアメリアを見てまばたきした。
 やはりというか、目の前で相対しているにもかかわらず、実体感の感じられない不思議な雰囲気を持っている。
「祭りの前に出て行かれるか」
「立ち聞きとは感心できない趣味だな」
 ゼルガディスの皮肉に、蛍姫は紅い唇を持ちあげて笑った。
「しかたないのだ。祭りの直前まで私には壁がない。どうか許されよ」
「…………? どういうことだ?」
「言葉通りの意味だ。もしかしてそなたには言葉が通じぬか」
 まじめな顔で問いかけられて、ゼルガディスのこめかみがヒクリとひきつった。
「話を戻してもいいだろうか。そなたたちは、祭りの前に出て行かれるか?」
「そのつもりだ」
「それは困る」
 即座に蛍姫がそう言った。
「どうしてだ。もともとよそ者抜きでやる祭りなんだろう? 俺たちはさっさと出ていく。勝手にやってくれ」
「おかしな話だ」
「何がです?」
 蛍姫は無表情に首を傾げた。
「そなたたちには送る星がある。なのに祭りには参加せぬというのか?」
「は?」
 アメリアがまばたきした。
「星………ですか?」
 蛍姫がうなずく。
「星があるから、私はそなたたちが村に入るのを止めなかったのだぞ?」
「そんな得体の知れないものを持った覚えはない」
 にべもなくゼルガディスが言い切った。
 蛍姫が可愛らしいその顔をしかめた。
「そうか。ならば仕方がない。人の行き来は星を騒がすから禁止されているのだが………ときにそなた」
 やけにあっさり納得すると、蛍姫はアメリアを手招いた。
「アメリアです」
「アメリアか。少しばかり耳を貸してもらえぬか」
「はい………?」
 自分からつつっとアメリアのほうに近寄っていくと、蛍姫は何やら耳元で囁いた。もちろんゼルガディスには聞こえない。
 見る見るうちにアメリアの顔が真っ赤になって、蛍姫を見た。
「だろう?」
「どうしてわかったんです?」
「私にはわかるからな」
「アメリア?」
 ゼルガディスが問いかけると、アメリアは真っ赤な顔のまま小さな声で言った。
「………お祭りまで泊まっていきませんか?」
「いきなり何を………」
 ゼルガディスは蛍姫を睨みつけた。
「おい。お前、アメリアに何を言った」
「何もまずいことは言ってないぞ。ただ指摘しただけだ」
 しれっとした顔で蛍姫はそう答え、かろうじて袖口から覗いている指先を持ち上げた。
「しばらく雨は降り止まぬ。しかたなかろう」
「だから、何がだ !? おい、アメリア?」
 アメリアは何か言いかけてはやめるばかりである。
 蛍姫がくすくす笑った。
「あまり困ることを聞くでない。そなたたちにこれを」
 袖の大きさに比べてあまりにも小さな手のひらが両方とも差し出された。
 左右の手のひらに、同じぐらいの大きさの石が握られていた。八面体―――二つの四角錐の底同士をくっつけた形をした、淡い緑の石だった。
 アメリアが不思議そうに石を見て、蛍姫を見た。
「これは?」
「蛍星だ」
「蛍星? 蛍石の一種か?」
 ゼルガディスが怪訝な顔で石を見た。どこをどう見ても普通の蛍石にしか見えなかった。脆いため細工には適さない、鉄重石が伴う半貴石。
「そうだな。この村でしか採れぬ石だ。祭りにはこれが要る。私にはまだ壁がない。石が逃げる前に受け取ってくれ」
 やはり理解しがたいことを言って、蛍姫は石を取るよう促した。
「だから、祭りに参加する気はないと俺たちは―――」
「ゼルガディスさん!」
 アメリアが両手を合わせてゼルガディスを拝んだ。
「お願いしますッ」
「理由を言え。さっきまで俺と同じ意見だったくせに急にひるがえしやがって」
「妬いておるのか」
 二つの蛍星をアメリアの手に握らせながら蛍姫が笑った。
「なんだと?」
「さて。私は邪魔をせぬ。うまく説明してやるがよかろう、アメリア」
 笑いながら蛍姫は、扉のほうへを身をひるがえし数歩あるいて―――そして扉まで行かずに消えた。
 思わず扉を見直したが、やはり何も変わらない。
 自分が幻覚を見たのかと思ったが、アメリアの手には石がある。
 アメリアが、何とも言えない変な顔で自分の手の中の石を眺めていた。
 不意にその手を開く。
 ふわり、と石が浮いた。
 二人は呆気にとられて、部屋をふよふよ漂う石を目で追った。
「………………なんだこの石は?」
「もしかして、浮く蛍石だから蛍星って言うんでしょうか………」
 アメリアが慌てて石を手でつかまえる。萌黄の袖がふわりとひらめいた。
 ゼルガディスは腕組みしてアメリアをじとりと睨む。
「で、どうして急に意見をひるがえしたんだ?」
「そのぅ………」
 アメリアが両手に石を包んだまま視線を泳がせる。
「雨、当分はやみそうにないじゃないですか」
「それがどうした」
「………濡れるんです」
 ゼルガディスは眉をひそめた。
「いまさら何を言ってるんだ? 第一、俺はともかくお前は結界をはるから、たいして濡れないだろうが」
「………だから」
 アメリアが赤い顔でキッとゼルガディスを睨んだ。石を片手にもちなおすと、傍らのベッドから枕をひっつかんでふりかぶる。
「魔法が使えなくて濡れるんですってばッッ!」
 ゼルガディスはおとなしく枕の直撃を受けることにした。