蛍姫 (フローライト・ソング) 〔2〕
夕食をとるために階下に降りてきた二人は、宿の記帳台のうえに、小さな針金細工のカゴと、その中でふよふよ浮いている蛍星を見つけた。
「………これって」
何とも言い難いアメリアの表情を見て、女将がああ、と笑う。
「珍しいかい? 蛍星というのさ」
「はい。さっき習いました。このあたりでしか採れないんですよね?」
アメリアの言葉に、女将が無言で眉を動かした。二人ともさっき二階に上がっていったきり、どこにも行っていない。
「だれから習ったんだい?」
「さっき蛍姫が部屋に来て………」
「あの子がわざわざ来て喋ったのかい !?」
女将の剣幕にアメリアとゼルガディスは絶句した。
「え、ええ………」
「喋ったとはどういうことだ」
「そうか………。あんたたちはお客人だものね。喋っても別に困らないんだろうね。きっとそうなんだろうねぇ」
勝手に一人で納得すると、女将は二人にテーブルにつくようすすめた。
「だから、どういうことなんですか? どうして彼女に話しかけちゃいけないんです?」
料理の皿を持ってきた女将にアメリアがたずねると、女将は困ったように笑った。
その背後の記帳台には、カゴに入れられた蛍星。
「村の者は祭りまで蛍姫に話しかけちゃいけない決まりなんだよ」
「どうしてだ? そもそもあれはなんだ? ずっとこの村にいるのか?」
「あれとは聞き捨てならないね」
ゼルガディスの言葉に、女将はトン、と空のカップ二つをテーブルに置いた。
「あんたは年頃の娘をアレ呼ばわりするのかい? 嬢ちゃん、こんな男にひっついていかないほうがいいとあたしゃ思うよ」
ごふっ。
アメリアが食べ始めたばかりの料理を喉に詰まらせた。
ゼルガディスは女将のセリフそのものを黙殺することにした。
「なら聞くが、あいつは人間なのか? 目の前で消えたぞ。そもそも雨の中歩いていたにもかからわず滴ひとつなかった」
「アメリア。そなたの連れ合いは失礼な男だな」
突然声が戸口のほうから降って湧いた。
ゼルガディスがふりむいて、嫌そうに顔をしかめる。
「直接本人に聞いた方が早かったな」
「聞いても答えぬぞ。それで良ければ聞かせてもらおう」
しれっと答えると、蛍姫は記帳台の蛍石を見た。
「ああ、そなたたちにもカゴが必要だな。放っておくとどこか漂っていってしまうからな」
女将は一言も口をはさまない。
それどころか蛍姫がまるでその場にいないかのようにふるまっている。
蛍姫は開け放たれた窓を見た。
「まだ降りやまぬな」
「そういう季節だろうが」
「祭りには晴れる。そういうものだ」
フッと笑んで次の瞬間、蛍姫はさっきと同じように消えてしまった。まるでそこには誰もいなかったことのほうが正しいかのように。
「………何しにきたんだ。あいつは」
「さあ………」
奥の方に姿を消していた女将が、テーブルまで戻ってきて、そこにトンと再び物を置いた。
針金細工のカゴだった。記帳台に置かれてあるのとそう変わらない造りをしている。
「あんたたちも蛍星を持ってるんだね。ならこれに入れておおきよ。おそらくあの子はそれを言いに来たんだろう」
「どうして直接女将さんに言わないんですか?」
「言ったろう。そういう決まりなのさ」
「だから、どうしてだ」
辛抱強くゼルガディスが問い直す。
女将は苦笑した。
「ひきとめたくなるからね。しかし今年の蛍姫はやっぱり…………」
「やっぱり何です?」
「偉そうだねぇ。どっちのせいかねぇ」
二人は沈黙した。
それからも蛍姫はちょくちょく二人の前に姿を現した。
どうやら会話そのものを楽しみにきているようで、二人の質問をはぐらかし、主にゼルガディスをからかってどこかに消えてゆく。
それ以外にも二人は、やはり雨の降り続く外を、蛍姫がふらふらとさまよっているのを何度か見かけることがあった。
相変わらず、目を離しても離さなくても唐突に消えたり現れたりする。
祭りを翌日に控えたその日、ゼルガディスの部屋に来ていたアメリアが窓際で彼を呼んだ。
二つの蛍星はカゴに入れられてベッドサイドに置かれている。
「どうした」
ゼルガディスが近づくと、アメリアはそっと窓の外を指さした。
小降りになってきた雨の中、蛍姫が立っていた。
そうして、その前に村人とおぼしき青年も立っていた。
必死に蛍姫に話しかけている。どうやら反応を引き出そうとしているようだった。
「話しかけちゃいけない決まりなんだろう?」
「そのはずですけどね」
小声でアメリアとゼルガディスが会話しているあいだにも、眼下で青年は必死に蛍姫に話しかけている。その顔が悲痛に歪んでいた。
黙って彼を見ていた蛍姫がフイとその横を通り過ぎた。
青年がふりかえる。
「イレーネ!」
背中にかかる声にもふりかえらず、やがて蛍姫はフッと消えた。
呆然と突っ立っていた青年は、しばらく経ってからようやく糸の切れた人形のようにふらふらと一軒の家に姿を消した。
どうしようもなく悲しそうだった。
蛍姫のベールが水を吸っていたことに、ゼルガディスはそのときようやく気がついた。
その夜、アメリアが驚いたように声をあげた。
「ゼルガディスさん。見てください!」
「見えている。大声を出すな」
「光ってますよ、この石」
淡い蛍光をカゴのなかの蛍星が放っていた。
思いついたように、アメリアがともしていたライティングに布をかける。
ふわりと闇が降りて、部屋を照らすのはそのほのかな緑の光だけになった。
「綺麗ですねぇ」
カゴを目線まで持ち上げて、アメリアが笑う。
熱のない、しかし不思議にあたたかい光だった。カゴを持つアメリアの指先が淡い緑に染まる。黒い髪が緑の艶をはなった。
その表情と光景に目を奪われる。
「ゼルガディスさん」
アメリアが不意に気づいたようにゼルガディスを見て、ちょっと驚いたような表情をした。
「髪、すごく綺麗な色になってます。銀と、緑で………」
触れようとのばされたその手をゼルガディスがとらえた。
触れる対象をなくして困ったようにのばされた指先に、そっと唇が触れる。
淡い光のなか、アメリアの頬が染まったような気がした。
ノックの音がした。
「………………………………………………」
ゼルガディスがライティングの布をとった。
慌ててアメリアがドアを開けにいく。
軽い足音と共に入ってきた蛍姫が、おや、という表情で二人を見た。
「どうした? 二人とも変な表情をしておるぞ」
「………なんでもないです」
「壁がないんだろう? わからないのか?」
蛍姫は笑って首をふった。
「祭りは明日だ。やっと私にも壁ができた。二人が何を話していたのか、聞き取ることなどできぬ」
「………本当ですか?」
「くどいな。どうしたんだ? 何か聞かれては困ることでも話していたのか?」
「話してませんっ」
アメリアがぶんぶか首をふった。
「怪しいな」
「何でもないですっ」
ゼルガディスが嘆息して蛍姫を訊ねる。
「お前、本当の名前はイレーネと言うのか?」
蛍姫が少し驚いた表情でゼルガディスを見た。
「昼間、聞いていたか」
「こいつもな」
眉根を寄せて蛍姫が呟く。
「盗み聞きは感心せぬぞ」
「そっくりそのままそのセリフを返してやる。宿の前でやるほうが悪い」
「話しかけてはいけないんじゃないんですか?」
「そうだ」
あっさり蛍姫がうなずいた。
「彼は禁を犯した。しかし無理もない。私が現れるたび、毎年一人はそういう者が出る」
「………現れるたび?」
聞きとがめたゼルガディスに、蛍姫は紅い唇で笑んだ。
「困ったな。話す相手がいると、嬉しくてつい喋りすぎてしまう」
「イレーネさん」
呼びかけたアメリアの唇を、蛍姫の人差し指が押さえた。
「私はイレーネではない。蛍姫だ」
「イレーネがお前の名前なんだろう?」
長い髪を揺らして、蛍姫は首をふった。
その髪が湿気を含んで重たそうにしているのがわかる。
「イレーネは確かに私だが、私たちではない」
言っている意味が二人にはさっぱりわからない。
形容しがたい表情で見られていることをまったく気にせず、蛍姫は室内を見まわして、テーブルの上の果実酒とグラスを見つけて顔を輝かせた。
「飲んでもよいか?」
「勝手にしろ」
「勝手にする」
蛍姫は応えて、瓶をつかむとグラスに向かって傾けた。
「よいな」
一口飲んで、蛍姫はぽつりと呟く。
「雨の匂いも、大地の匂いも、ものの味もひさしぶりに感じた。壁ができるのが祭りの前日とは本当によくできていることだ。やっと感じたのに、すぐに祭りだ」
空になったグラスを置いて、蛍姫は二人に向かって微笑んだ。
「二人と話せて楽しかった。話せる相手がいるなんて、私たちはきっと幸運な蛍姫なのだな―――」
アメリアとゼルガディスが何か言う前に。
やはり、蛍姫はふわりとその場から姿を消していた。