蛍姫 (フローライト・ソング) 〔3〕

 次の日の夕方、ゼルガディスの部屋の扉がノックされた。
 アメリアが開けると、女将が蛍星の入ったカゴを手に立っていた。
「祭りに行くんだろう?」
「いまから始まるのか?」
 女将はうなずいた。
「その蛍星を持っておいで」
 アメリアがカゴを抱えた。
 女将のあとに続いて外に出ると、雨はあがっていた。ところどころに水たまりができて、地面はぬかるんでいる。
 空は曇って灰色だったが、雨が降ってくる様子はなかった。蛍姫の言葉通りに晴れていると言えないことはない。
 アメリアとゼルガディスが連れて行かれたのは村の真ん中にある広場だった。
 円形に広がる広場のその中央に、蛍姫がひとり立っていた。
 思わず声をかけようとしたアメリアを、女将が制する。
「声をかけちゃいけないよ」
「どうしてです?」
 灰色の雲に覆われた西の空が、その向こうにある落日で、まだらな朱と夜の藍に染まっている。
 あたりはもうすでに暗い。
 女将が蛍姫を見て言った。
「祭りはもう始まってるんだよ」
 蛍姫は辺りを見回すでもなく、ただ黙ってたたずんでいる。
 やがて、ぽつぽつと広場に村人が集まり始めた。家族単位で連れ立ってくるその影の塊の中には、ぽうっと光る蛍星を持ってくる者もいる。
 夕日の色が、黒雲と夜の闇に負けて、濃い赤の筋を残して西の端に消え去る頃には、ほぼ全員と思われる人数が広場の周囲に集まっていた。
 しかし、だれも蛍姫のところには近づこうとしない。ぽっかりと、蛍姫とその周囲だけが広く空間が空いていた。
 アメリアが持つ蛍星の緑色の明かりが、淡く二人の姿を照らす。
 ―――やがて、人々が動いた。
 最初の一人が、蛍姫のところに行くと二言、三言言葉を交わし、その前に蛍星を置いてまた戻っていく。
 蛍姫の周囲に、ぽっと光がひとつ、ともった。
 そうして、また別のひとりが同じ事をくり返す。
 次々と蛍姫の周囲に光がともっていった。
 濃藍の闇のなか、浮遊するいくつもの淡い緑の光に照らされて、蛍姫の姿が浮かび上がる。
「綺麗………」
 アメリアが呟いた。
 その肩を、たったいま蛍姫のところに行って石を渡してきた女将が、ぽんと叩いた。
「あんたたちも行っといで」
 アメリアとゼルガディスは顔を見合わせた。
「でも………」
「俺たちは部外者だぞ」
 いったい何の祭りで、いま行っていることにどういう意味があるのか、アメリアとゼルガディスにはさっぱりわからなかったが、それでも邪魔をするべきではないということぐらいはわかっていた。
 しかし女将は首をふる。
「何言ってんだい。あんたたちも立派な祭りの一員なんだよ。蛍星を持ってるだろう?」
「えっ………」
 アメリアは手の中の蛍星に視線を落とした。相変わらず、淡い光を放ってカゴの中を漂っている。
「行っといで。もう村の者はみんな蛍星を預け終わった。あとはあんたたちだけだ。行けば蛍姫が尋ねてくるから、それに従えばいいんだよ」
 背中を強く押されて、二人は前に出た。
 しかたなく、薄闇のなか光を放つ蛍姫のところへと歩いていく。
 同色の光をまとって、より蛍光の艶を帯びた瞳がアメリアとゼルガディスを見た。
「…………」
 アメリアが無言で蛍星を差し出す。
「そなたの星はひとつだ」
 言われて、アメリアはカゴをゼルガディスに渡し、ひとつだけ取り出した蛍星を再び差し出した。
 しばらくそれに視線を落とすと、蛍姫は囁いた。
「だれの魂だ?」
「…………」
「そなたは誰の魂を天に帰す? 誰の御霊みたまのやすらかなるを願うのだ?」
 アメリアは声もなく目を見張る。
 祭りの意味がここに来てようやくわかった。
 ひとつ息を吸って、吐き出す。
 急に問われたことだが、それでも答えは決まっていた。
 迷うわけがなかった。
「アル………。わたしの従兄の、魂を………」
「導こう」
 両手を揃えて、蛍姫がアメリアの手からそっと蛍星を受け取った。
 ふわ………と御霊を宿した石は、その手から漂いだし、宙へとどまる。
「そなたは、誰の死を弔う?」
 ゼルガディスは無言で石を蛍姫に押しつけた。
 嘆息混じりの声。
「………一応、俺の血縁のくそジジイの死でも弔ってくれ。いくら何でも魔王に捕らわれっぱなしだと寝覚めが悪いからな」
 フッと蛍姫の紅い唇が笑んだ。
「導こう」
 女将の元に戻ってから、ゼルガディスが軽く女将を睨んだ。
「死者送りの祭りだったのか」
「そういうことだよ。蛍星は死んだ者の魂。毎年この日に、天へと還す。だから星送りの祭りと呼ぶんだよ」
 死者は現世にとどまっていてはいけない。輪廻の環へ戻さねばならない。
 だから天へと還す。
「蛍姫がその導き手なんですね」
 アメリアの言葉に女将はほろ苦く笑ってうなずいた。
「そうだね。あの子がいない年は迷い星が出ることがある。でも、蛍姫もおんなじなんだよ」
 女将は燐光に包まれて立つ蛍姫に目をやった。
「魂を導く彼女も、天へ還る死者なんだよ」
「え………っ?」
 アメリアとゼルガディスは広場の中央を見た。
 蛍星―――人の魂を従えて立つ、巫女。
 女将は続けた。
「村に未婚の娘の死者が出た年の祭りだけ、蛍姫は現れる。今年は二人死んだ。だから、あそこに立っている石と同じ目の色をした娘は、その二人………イレーネとダーナの化身なんだよ」
 蛍姫はあのとき、首をふって二人に言った。

(イレーネは確かに私だが、私たちではない)

 アメリアとゼルガディスが見守るなか、祭りは次の段階へと進んでいく。
「あいつは………」
 蛍姫の前に進み出てきた人物を見て、ゼルガディスが呟いた。
 それは昨日、蛍姫に話しかけていた青年だった。
 ゼルガディスの呟きを聞きとがめた女将がちらりと彼を見た。
「知ってるのかい?」
「………昨日、蛍姫に話しかけていた」
 ああ、と女将は悲しそうに笑った。
「やっちまったかい。まあ、無理もないね………」
「あの………彼は?」
「イレーネの恋人だったんだよ。この春には、結婚するはずだったんだ」
 青年が泣く。
 蛍姫―――イレーネが笑って何事かを言う。
 手が伸ばされて、頬に触れて、首をふる。
 頬に口づけを落とされて、青年は他の村人に肩を叩かれて蛍姫のところから、人の環の中へと帰ってゆく。嗚咽を殺しながら。
 そうして、今度前に進み出てきたのは、白い花を胸一杯に抱えた少女だった。
 泣きながら蛍姫に抱きつく。
 もはやアメリアとゼルガディスは何も訊ねようとしなかった。
「ダーナの妹だよ。去年の夏、祭りが終わったばかりの頃、二人で花を摘みに行って土砂崩れに巻きこまれた」
 姉は死に、妹だけ助かった。
 泣きながら謝り続ける少女の体を、蛍姫―――ダーナはそっと引き離した。
 白い花を受け取って、一輪抜き出し、少女の髪に飾る。
 そしてやはり、頬に口づけを。
 少女が声をあげて泣き出した。
 蛍姫に預ける蛍星を、青年と、少女とその家族たちは持たない。その必要がない。
 娘たちの星はこごって形をとるのだから。
 そうして目の前に確かに現れる。知った姿をとらずとも。知った声音を聞かずとも。死んだ娘は甦る。
 萌える瞳の少女となって。
 祭りが近づくにつれて姿を現す彼女に、話しかけてはいけない。もてなしてはいけない。
 死者は生者と交わってはいけない。ひきとめてはいけない。
 離れがたくなるから。
 未練が残るから。
 けれど誰もが彼女を愛しく思う。祭りの夜を待ちわびて、けれどこなければいいとも思う。
 彼女と言葉を交わすのは、祭りのひとときだけだから。
 けれど、祭りの夜に彼女は逝ってしまうから。
 星を導き、間違いなく天へと還し、そうして娘も還るから。
「哀しい………」
 アメリアがそっと呟いた。
 二人は招かれた。ほんの偶然。だけど迎え入れられた。

 送る星があったから。

 泣きじゃくる少女を家族が引き離して、そうして蛍姫はまたひとりになった。
 蛍星を従えて、蛍姫はすっと片手をあげた。
 袖に隠れた手が天をさす。雲の切れ間に現れた夜の空。
 そうして唄が、流れ出した。空間に声が満ちて行く。
 蛍星たちがさわりと動いた――――


   逝きて還らん このそら
   往きて帰らん この土地つち

   嘆きの唄はときを越え 送りの唄はゆき交いて
   愛しき者らの手を離れ 我らと共に還ろうか
   天のみなもに沈まぬと 再び彼らに逢えぬゆえ
   我が手をとって 還ろうか
  


 ひとつ、またひとつと蛍星がのばされた手に添って空へと昇ってゆく。
 アメリアが託した星も。
 ゼルガディスが預けた光も。
 蛍姫の唄はあたりを満たして流れて行く。
 そうして、昇ってゆく星と共に、蛍姫の体から光の粒がほろほろと立ちのぼった。


   迷いも嘆きもありはせぬ みなの土に眠らせば
   頬に口づけ手をふりて ただ一筋に還ろうか
   金のみなものそのふち
   ゆかしいこの地を 愛でようか
   いまはひとまず 眠ろうか
   そうして再び 戻ろうか
  


 蛍姫の体から光の粒子はどんどん立ちのぼる。
 それに反して、その姿は淡くおぼろに溶けていく。
 ふうっと閉じられていたその目が開き、蛍の瞳が二人を見て、たしかに笑んだ。


   逝きて孵らん 愛しきはら
   往きて帰らん この土地つち
   再びそなたに逢うために………
   
  


 声が溶けて、そうして最後の光の粒が空へと溶けた。




 数百人を越えるだろう村人がいるのに、しわぶきひとつ起こらなかった。
 もはや広場の中央には何もない。
 さきほどまで淡く輝いていた光も、石も、娘も。
 魂は空へと還っていったのだから。
 アメリアの頬に、ゼルガディスの服の袖が触れた。
(………泣くな)
(泣いてません………)
 ぎゅっと目を閉じたとき、ぽつ、と冷たい滴がアメリアの顔にあたった。
 さあっと涼しい風が吹き抜けて、見上げる間もなく雨が降り出す。
 ひそやかな、優しい雨だった。
 誰も雨宿りののきを探そうとしなかった。黙って空を仰いで濡れている。
 そうしていると、いままで蛍姫がいた場所に、人の環の中から何人もの娘が走りこんできた。さっき蛍姫に抱きついて泣いていた少女もいる。
 女将がゼルガディスとアメリアをふり返った。
「さあ、雨が降りだした。あんたたちも歌っておくれ」
「え………」
 女将は神妙な表情で、歌の節のように言った。
「祭りの間は晴れている。祭りのあとは雨が降る。逝った星たちが降らしてくれるのさ。今年の豊穣を約束する恵みの雨を」
 穀雨、という言葉をゼルガディスは思い出していた。
 この季節に降る雨をさす言葉。大地の実りを約して降る雨。
 豊穣の雨。
 おそらく前々から定められていたのだろう。萌黄の服を着けた娘たちは寄り添って、そうして雨のなか歌いだした。



「お前、そういえばその服………」
 ゼルガディスが気づいたようにアメリアの恰好を見おろした。広場の中央で歌っている少女たちと同じものである。
 女将が雨に濡れた手でアメリアの背を押した。
「それはあたしが昔祭りで着た服だよ。行っといで。あんたも歌える。あんたも巫女だ」
「でも………」
 アメリアが戸惑ったように女将を見た。
「歌っておくれよ。蛍姫の代わりに」
「………行ってくればいい」
 ゼルガディスの言葉に、アメリアは迷ったすえにうなずいた。
 雨は降り続ける。
 アメリアが泣いていたのかどうか、もうわからない。
 走り寄ったアメリアが、歌の環の中に加わった。
 歌声は水の大気に溶けてゆく。



「ああ言ったけど、あの子は巫女だろうね?」
 女将が小声でゼルガディスにそう訊ねた。
「あいつはああ見えてもセイルーンの巫女頭だぞ」
「そういう意味じゃないよ。あんた手を出してないだろうね?」
 ゼルガディスは危うくぬかるみに足をとられるところだった。



「………いい祭りだな」
 雨に濡れるまま、ゼルガディスがそう呟いた。
「そうだろう?」
 女将が誇らしそうにうなずいた。
 ゼルガディスのかぶったフードの縁から、雨の滴がしたたった。
 歌はまだ続いている――――。







「晴れたな」
 祭りの翌日、ゼルガディスがまぶしそうに目を細めて空を見上げた。
「珍しいですね」
 アメリアもそう言って空を見上げる。
 見送りに出た女将が笑った。
「この天気だと夕方からまた雨になるよ。さっさとお行き」
「うそ」
 アメリアは目をしばたたいてまた空を見た。
 どう見ても綺麗に晴れている。
 女将はまた笑った。
「農民の勘をおなめでないよ。たしかだよ」
「そういうんならそうなんだろうな」
 ゼルガディスは呟いて、アメリアをうながした。
「またここに来たときには、部屋がなくて追い返されるんだろう?」
「蛍姫に会えなけりゃね。でもそうそう送る星を持ちたいかい?」
 アメリアとゼルガディスは首をふった。
「ありがとうございました」
「別の季節に普通にお寄りよ。そうすれば部屋は空いているさ」
 うなずくとアメリアは女将にぺこりとお辞儀して、先に行ったゼルガディスを追いかけた。
 追いついてからふり返り、手をふる。
 それに手をふり返して、女将は宿の中へと戻っていった。
 今日が、送った亭主の命日だった。