翼の舞姫 (テイク・レボリューション) 〔18〕

 アメリアから優しい言葉をかけられたのは、隔幻話ヴィジョン越しだった。
『全部終わりましたよ。早く帰ってきてくれませんか?』
 どうしてだか、イルニーフェはその言葉に詰まってしまった。
「………わかったわ。なるたけ早く、そっちに行くから………」
『待ってますね』
 隔幻話室を出たところで、リナが待っていた。もともと、リナが隔幻話に用があると言って近くの街の魔道士協会まで出かけたので、それに便乗してイルニーフェも使わせてもらったのだ。リーデットやリナの家族は、彼女の家で帰りを待っている。
「明日、発つわ」
 イルニーフェの言葉に、くすっとリナが笑う。
「そう。残念だわ。ちょうどいい子守りだったのに」
「………いきなり浄結水アクアクリエイトかまされたときには、どうしてくれようかと思ったわよ」
「あれは、あんたが水が欲しいって言ったからじゃないの」
「かけられたかったわけじゃないわ。この寒空に」
「ま、ね」
 言って、リナは軽く肩をすくめる。イルニーフェも笑った。
「あたしも残念だわ。もうちょっとあなたのことを知りたかったのに」
「観察されるのは気分が良くないわね」
「あら、ごめんなさい。そんなつもりは全然なかったわよ」
 しれっとイルニーフェが答えると、リナは苦笑した。
 真紅の目が彼女を見た。光の宿る、真摯な目。
「アメリアをよろしくね」
 イルニーフェはかすかに眉をひそめたものの、尋ね返すことはしなかった。




 セイルーン側からの通達が行き届いていて、帰りは馬を使って行きの半分の十日で帰ることができた。
 イルニーフェにとっては、実に一ヶ月余りを過ぎてから、王宮へと戻ってきたことになる。色を付けていた葉はもう大部分が土の上へとその場所を移動していた。
「お帰りなさい」
 旅の埃を落とした二人を、アメリアが私室で出迎えた。彼女の他、アセルスとユズハがテーブルに座している。お茶の用意がされていて、テーブルの上には白い羽根と花が飾られていた。羽根に怪訝な顔をすると、舞姫の名を持つ鳥の羽根だとアセルスに教えられ、とりあえず曖昧にうなずく。
「シルフィールは?」
 長い黒髪の女性の姿が見えないことに気がついてイルニーフェが首を傾げると、アメリアが困ったように笑った。
「それが、わたしにつきあわせちゃったせいで風邪をひかせてしまって………さっきお見舞いに行って来ました」
「そうなの」
 答えて、茶菓子を頬張っているユズハをイルニーフェはじろりと見た。
「あなたはいつ見ても、何かしら食べているわね」
「いる、も食べル?」
「イルニーフェよ。ちゃんと呼びなさい」
「にーへ」
「………………イルでいいわ、半精霊」
 テーブルに頬杖をつきながら、アセルスが椅子に座ったばかりの弟公子を眺めた。
「それで? 危ない目にはあわせなかったんだろうね?」
「………ちょっと待ってくれよ、姉さん。石を狙っている奴らがいるのにどうやったらそんな安全で快適な旅ができるんだい?」
 慌てるリーデットに、すました顔で横から助け船が入った。
「だいじょうぶよ。善意の人助けをしてもらったから。それで、結局どうなったのか聞かせてもらえないかしら」
 イルニーフェの言葉の前半部分に眉をひそめたものの、アメリアは問われて素直に事後処理の報告をした。
 それを聞いて、イルニーフェが思いっきり顔をしかめる。
「それでどうしてあたしだけお咎めがなしなの。納得がいかないわ。どう考えても職権乱用じゃない。法を曲げているわ。体裁が悪いわよ」
「そうですね」
 アメリアはあっさりうなずくと、香茶のお代わりを自分に注いだ。
「いくらそそのかされて利用されたということになっているとはいえ、犯罪は犯罪。そういうわけで更生の道を歩んでもらいます。監視をかねてわたし付きの女官ということでどうでしょう?」
 イルニーフェが香茶を吹き出しかけた。
「―――!?」
「本当は侍従にしたかったんですけど、さすがにそれは反対されましたから。でも王立学院を卒業したら侍従になってもらうということで―――」
「ちょっと待ちなさいよ!」
 イルニーフェが声を荒げた。きょとんとしてアメリアがそっちを見る。
「どうかしました?」
「ええ、どうかしてるわ。話を要約すると、あたしはあなたの元で女官として働いて王立学院に通わせてもらえるということなの?」
「そうですよ」
「どうしてそこまでする必要があるの!? あたしは確かにあなたに身柄を預けるといったけど、そこまでしてもらえる理由なんか……全、然………」
 イルニーフェはアメリアの表情を見て、語尾を途切れさせた。
「だって………あたしは犯罪人で………」
「そのことはもう忘れてもいいと思うよ」
 アセルスが口をはさんだ。
「イルニーフェ」
「なによ………?」
 アメリアの濃紺の瞳に真剣な光が宿る。
「わたしは味方がほしいんです」
「…………」
 その手がそっと香茶のカップを包みこんだ。
「わたし、ずっと待ってる人がいますから。その人はここに帰ってきてくれるって言ってくれました」
 嬉しそうにそう落とされる言葉。かすかに耳元で瑠璃の飾りが揺れる。
「だから、それまでにおかえりなさいって言う場所を居心地良くしておきたいんです。わたしの母さんのように政変に巻きこまれて謀殺されたりすることがないように―――」
 イルニーフェが驚いた表情でアメリアを見つめた。
 アメリアはひっそりと笑う。
「病死と発表されていますけど、本当はそうなんです。お祖父様はいまでもそのことを悔やんで、わたしには普通の結婚をさせようとしていますけど、わたしはそうは思いません。そうならないように、王宮ここを変えたい。でもそれには、わたし一人では無理なんです。だから、あなたの力がほしい」
「あたし?」
「わたしに力を貸してください。あなたほどの頭の良さなら王立学院を飛び級で卒業できます。そうしてわたしの執務を補佐して統括する侍従になって、くれませんか」
 真っ直ぐに見つめられて、イルニーフェは狼狽した。
 こんなことを言われるとは思いもしなかった。
 王宮を旅立つ前、自分の元に来ないかと言われたとき、まさかこんなふうに求められるとは思わなかった。ただの好意なのだと思った。
 考えてみれば、それはかなり虫の良い考えだ。
 こういうのも、悪くない。
「あたしの力なんかが、必要なの?」
「あなたの力が必要なんです」
 なんていい言葉だろう。
 そう思った。
 そして気づく。自分がお家騒動に巻き込まれて姉を失ったのと同じで、この王女は母親を失っているのだ。
 イルニーフェはまばたいた。


(アメリアをよろしくね―――)


 世界が開ける瞬間とはきっと今のようなことを言うのだろう。
 何だか全てのものがいままでとは違って見えた。光を弾いて見えるのは黒い髪。窓の外の冬の影。薄い色の空。濃紺の瞳。
(………逝く寸前の義姉さまの微笑みも、違った想いで甦らせることができるようになる?)
 やりたいことは、見つかった。
「ダメですか? わたしの補佐をしてくれれば政策にも関われますから、あなたの利害とも一致すると思うんですけど」
 アメリアが不安げな表情で首を傾げた。
 イルニーフェは大きく息を吸いこんだ。泣きそうだったが、むりやり笑った。
「しょうがないわねぇ。そこまで言うんなら、なってあげる」
 アセルスがそれを聞いて小さく吹き出した。アメリアがホッとしたように笑う。
「ありがとうございます。急いで卒業してくださいね」
「人使い、荒いのね」
「時間がないですから。待ってますよ」
 そのとき、アセルスが不意に思い出したように口を開いた。
「あ、じゃあ、うちのリーデとは結婚してくれないの?」
 その場にいたユズハ以外の全員が、茶なり菓子なりを吹き出したり詰まらせたりした。
 騒々しい部屋のなかで、ひとりユズハだけがマイペースにお気に入りの蜂蜜菓子を頬張っている。
「あれって冗談じゃなかったんですか、アセルス姉さんッ !?」
「そうだよ。僕もてっきりそうだと………」
「いや、本気だけれど」
 あっさりアセルスはそう言ってくれた。
「いくら何でもそれは犯―――」
 顔に向かって飛んできたフォークをリーデットはひょいとよける。
 しかしそこに別方向から第二弾が来た。
「―――罪うぁだっ」
 不意をつかれたリーデットの眉間に、陶器のソーサーが直撃した。
 割れずに落下するソーサーを隣りに座っていたユズハが、テーブルの上に手を伸ばしてキャッチする。
「私も一国を継ぐ弟を犯罪者にしたくないよ。安心してほしいな」
 どっしりしたテーブルに足をかけ、椅子の前足を浮かせてゆらゆらさせているアセルスが情け容赦のない声でそう言った。
「それまでにリーデが誰かと結婚してくれれば私は何も言ったりしないけれど?」
(それまでっていつまで………?)
 同じ疑問がユズハ以外の全員の頭に浮かんだ。
「とにかく!」
 アメリアが新しいフォークを手に取りながら、やや強い口調で言った。
「イルニーフェはわたしが引き取ります。ダメです。マラードにこんな貴重な人材は渡せません」
「残念」
 アセルスが肩をすくめて椅子を戻すと、香茶を一口すすった。
「ユズハ、オルハにも一口あげてやってください」
「ヤ」
「………オルハ、こっちへおいでよ」
 見かねたリーデットが眉間をさすりつつ白ネコを手招いた。自分用の陶器の小皿を鼻面で押しながらオルハが移動を開始する(喰わえるのは顎が痛くてやめたらしい)。
 肩の力のようやく抜けたイルニーフェが、ユズハからソーサーを返してもらい、思い出したように茶菓子に手を伸ばした。
 それを何とはなしに見ながら、アメリアはふと窓の外に目をやる。
 空の色はどんどんと薄くなる。大地も色数は減るものの豊かで深みのある色へと変わっていく。枝ばかりの梢を風が揺らしていった。
「あとひと月もすれば雪が降り始めますね………」
 妹弟子の視線の先を目で追ったアセルスが優しい声で囁いた。
「早く帰ってくるといいね」
「はい………」
 卓の上の白い羽根が、かすかに揺れた。


 王宮に戻ってから、五度目の冬が来る――――。