夢飾り (ツイン・ラピス) 〔序〕
冬は終わり、春に移り変わろうとする季節だった。
聖王国の第二王女―――このまま姉姫が帰ってこなければ、おそらく次の次の統治者となるだろう女性は、固く強張った表情で言った。
「それは、命令ですか?」
相手はしばし沈黙してから答えた。
「ご命令です」
「わかりました。わたしが行かず後家になるのがそんなに心配ですか」
毒舌に相手は完全に沈黙した。
「いったいそんな言葉遣いをどこで―――」
「外で覚えてきたんじゃないことはたしかです。では、下がらせてもらいますね。安心してください。行かず後家なんかにはなりませんから、絶対に」
宮廷大臣は白っぽい顔色で沈黙したまま、出ていく王女を見送った。
アメリアは独り、両手で顔を覆った。
「できることなら、やらずにすませたかったのに………!」
しかし、すでに肚は決まっていた。
「クローラー=イフェル=シオンっ!」
名前を叫びながら研究室のドアをぶち開けたリナを、落ち着き払ってクローラーが出迎えた。
「及第点だな」
「そりゃあどーも」
『クローラー』の発音の評価にぞんざいに礼を述べてから、リナは単刀直入に切り込んだ。
「急げるだけ急いで、どれくらいかかる?」
クローラーとその相棒が無言で眉を動かした。
リナが返答を急かした。
「時間がなくなったの」
「十回」
端的にクローラーが答えた。
「組成を完全に取り出して入れ替えるまで、最低でも十回以上だ。しかもそれは一度にはできない」
「一度にやったら?」
「リナ=インバース。君は自分の友人を殺す気か?」
冷ややかにクローラーが片眼鏡を直した。
「一度にやって、もし仮に成功したとして、旅に耐えられるようになるまで最低でも、ひと月」
「成功確立を含めて余裕をもったら?」
「それこそ無期限だ」
ユリシスが両手を広げた。
「いくらあの赤法師レゾのノウハウと、私たちの研究成果を合わせて行っているといっても、時間がいる。現に邪妖精と髪の組成を入れ替えるのにいったい何ヶ月―――」
「時間がないのよ」
リナがユリシスの言葉をさえぎった。
真紅の瞳には激しい焦燥の色が浮かんでいる。
「どうかしたのか、リナ?」
「どうもしないわ。単に―――」
クローラーの問いに、リナは難しい表情で答えた。その手には、開封された封筒と便箋が握られている。
「王手がかかっただけ―――」
その話が聞こえてきたとき、イルニーフェは持って帰って勉強するべき本と棚に置いて帰るべき本を分けて整理している最中だった。
どの本も、世代を越えて使用していくべきものだから、保存がきくように中身は羊皮紙、外は金属補強の箔押し皮装丁でめちゃくちゃ重い。たいていは学院が生徒に在学している間だけ貸し出している。
イルニーフェもそうだった。
本来なら買うことなど造作もなかったが、どうせ短期間しかいない。在学期間は短ければ短いほどよかった。
急がないといけないのだ。時間がない。
行儀作法と礼節、話術の本を真っ先に棚に戻して、法律を持って帰るべきか、経済を持って帰るべきか悩んでいたときだった。
「―――乗り気なんですって」
講義室の入り口近くに溜まって話をしている少女たちの方からこぼれてきた声だった。
もちろん最年少はイルニーフェだから、全員が彼女より年上の少女たちである。
聞くともなしに聞いていたイルニーフェだったが、さすがに手を止めてそっちのほうをふり返った。
「わざわざ仕立て師にデザインの注文をつけたんですって」
「もちろん、色は白なんでしょう?」
「当たり前じゃないの。細部のデザインや細かい飾りについてだわ、きっと」
「いいわね。見てみたい」
イルニーフェは結局法律の本をカバンに入れて経済を棚に押しこむと、入り口のほうへと歩いていった。
少女たちが口をつぐんでイルニーフェを見やる。
飛び級しまくって全課程の半分を終了させている少女は良くも悪くも有名人だ。
イルニーフェは立ち止まって首を傾げて見せた。
「いまの会話は、アメリア王女のことかしら?」
「そ、そうよ」
「そう。ありがとう。いいことを聞いたわ」
イルニーフェはにっこり笑ってから講義室を出ていった。
呆気にとられたような顔で、少女たちがイルニーフェを見送った。
帰る途中で、イルニーフェがシルフィールの家によって彼女をたずねると、運良く在宅中だった。
「何か、言ってきた?」
「まだです」
手紙を出した相手との距離をおもんぱかってシルフィールの顔が曇る。
「まあ、距離が離れているもの。しかたないわね」
軽く溜め息をついて、イルニーフェは辞去の挨拶を告げた。
「どうかしましたか?」
「ちょっとね。不思議な話を聞いたものだから、それを問いただしに行くのよ」
シルフィールが怪訝な顔をしたが、イルニーフェは答えずさっさと馬車に乗りこんだ。
馬車の振動を体に感じながら、イルニーフェは何ヶ月か前の会話を思い出していた―――
窓の外では、粉雪がちらついていた午後だった。
王立学院は休みで、イルニーフェはアメリアの私室で控えながら学院から持ってきた本を読んでいた。
こまごまとした用事をこなしていたアメリアが、一息ついてお茶を飲もうと言ってきたため、イルニーフェは本を閉じてその準備を始めた。
ユズハが椅子の上から足をぶらぶらさせてお茶菓子を待っているのには頭痛を覚えたが、とにかくお茶を用意する。
「お疲れさまです。ありがとう」
「何を言っているの。これはあたしの仕事なのよ?」
イルニーフェが呆れたような顔をした。
彼女はいま王立学院生とアメリア付きの女官という二つの肩書きを持っている。
朝起きてアメリアの身支度を手伝ってから学院に通い、帰ってきてまた女官の仕事に戻るというめちゃくちゃな日々である。試験や何かの行事があるときだけは、シルフィールの家のほうに泊まり込む。
それを心配したアメリアが女官の仕事はやらなくてもいいと言うと、逆に怒られる始末である。
ここにいるための方便でも仕事は仕事であり、ちゃんとやらずにどうするのかというのだ。
しかもこれで学院を入学したその時から飛び級をしまくって、いま現在も飛び級試験を受けている最中なのだから何ともはや頭が下がる思いである。
しかし、これでは友人が持てない。
アメリアがお茶をしながらそのことを口に出すと、イルニーフェはいったい何を言い出すのかという表情で自分の被保護者を見た。
「あなたはいったいなに見当違いのことを心配しているの。あたしは学院で友人を作る気なんか最初っからないわよ?」
「どうしてそんなことを言うんです?」
イルニーフェはますます渋面になった。
「じゃあ、逆に聞くけど、あたしが王立学院で同年―――は無理ね、飛び級してるもの。えっと、とにかく友人を作ったとするわよ。あたしはいったいその友達に、自分のことをどう説明すればいいの? 王宮の女官をやってて、アメリア王女の好意で国費で王立学院に通わせてもらってるなんて言えるわけないでしょう? 例えそれを話したとしても、そうなったいきさつを問われたらそれこそ絶対に答えられないわ。国家機密ですもの。まあ、陛下を人質にとって国璽を盗み出して継承権の譲渡を迫ったおかげなんて言っても信じてくれないでしょうけど。あたしなら信じないし」
「…………」
「それはともかく。言えないことがあるなんて対等じゃないわ。あたしはお互いに対等じゃない人を友人だとは認めない」
漆黒の瞳が苛烈な光を放つ。
「それに、あたしを理解してくれる人は必ずしも歳の近い友人である必要はないわ。幸いなことにあたしには、あなたがいてくれるし、アセルス公女もいてくれる」
「リーデは?」
「入れてもいいけど、時々子ども扱いと女性扱いするから却下。変な茶々入れないでちょうだい」
にべもなくイルニーフェは言い切った。
「だから別にあたしは学院内に友人がいないことに、それほど痛痒を感じてないの。わかってくれたかしら?」
アメリアにとっては決して賛同しかねる意見だったが、これ以上はないほど筋の通った(イルニーフェなりに)信念のある意見だったので、彼女は嘆息するにとどめておいた。
そういうのなら、そうさせるしかない。
軽く息を吐くとアメリアは首を傾げて、それから話し始めた。
「………わたしは、わたしと歳の近い友人が欲しくて欲しくてたまりませんでした」
イルニーフェが突然自分のことを話し始めたアメリアを驚いた顔で見た。
驚いてはいるものの何も言わずに、彼女は視線で先を促した。
それを受けてアメリアは続ける。
「わたしには姉さんもいましたし、父さんもいましたけれど、父さんは執務で忙しかったし、姉さんは母さんが殺されてからここを出ていってしまったので、結局わたしには話し相手がいなかったんです」
窓の外では風が枝ばかりの木々を揺らして、積もった雪をはらはらと落としていく。
アメリアはテーブルの上でそっと指を組み合わせた。
「たしかに女官たちはみんなわたしのことを好いてくれて、優しくしてくれましたし、巫女頭をしながら知り合った気のいい人たちはいましたけど、みんなわたしより年上で、わたしより身分が低かった。わたしは身分なんか気にしないのに。向こうが気にしていました」
本が好きだった。
丁寧に丁寧に彩色された挿し絵。その横に連ねられた、ここではない、ここにはない物語。
「本の中の英雄たちに、いつも憧れていました。彼らのかたわらには、必ず彼らの冒険を助け、一緒に困難に立ち向かい、彼らと剣の誓いを交わし、信頼し合って何でも話し合える友人たちがいて、わたしはそれにものすごく憧れてたんです」
「…………」
過去のこととして語られる静かな語りに、イルニーフェは珍しく困ったような、ほっとしたような表情で指摘した。
「いまは、いるじゃないの」
「はい」
本当に嬉しそうにアメリアはうなずいた。
剣の誓いなんてものは交わしてない。
助けられるばかりだったなどと、嘘は言わない。
自分だって助けたし、そして助けられもした。
信じていた。信じてくれた。
時として死にそうなほどの窮地に立たされても、ずっと一緒だった。
仲間たち。
そうしていつのまにか、ただの仲間や友人ではくくれない人ができていた。
「わたし、とっても幸せ者なんです」
そうアメリアが言うと、イルニーフェは呆れたように鼻を鳴らした。
「何を言っているのかしら。もっと幸せになる気でいるくせに」
「願い事や目標ってのは、満願成就させなきゃ意味がないんですよ?」
傲慢とも言えるアメリアの言葉に、イルニーフェは年相応の顔でおかしそうに笑ってみせた。
「まったくもって、その通りね」
そう聞いたのは、去年の冬の半ばだった。
そうしていまは春。
王宮に帰り着いたイルニーフェはさっさとお仕着せに着替えると、勢い良く目的の扉を開け放った。
「無礼な! ノックくらいなさい!」
部屋の中にいた女官長が目くじらをたてて叱りとばしてきた。
イルニーフェはわずらわしいのをおくびにも出さず、無言で一礼したあとでアメリアを見た。
ちょっと困ったような表情でイルニーフェを見ている。
どうやらイルニーフェがここに来た理由がとっくにわかっているらしい。
イルニーフェは軽く吐息をはくと、本来の用事とは全然別のことを、別の口調で口にした。
「お綺麗です」
女官長と仮縫い師、その他のお針子たちがそうでしょうともと、一斉にうなずいた。
花嫁衣装姿のアメリアはさらに困ったような表情でたたずんでいる。
予定されている季節は夏だから、それに合わせてドレスは肩を出したデザインになっていた。いまの季節には、少し寒そうだ。
いちばん下に着る基本となるドレスは純白の絹繻子で、裾のほうに氷色と濃紺色の絹糸で複雑な紋様の刺繍がほどこされていた。そして、その上からは青みを帯びて見える、これまた白の透ける薄い布を幾重にも重ね、余りを右の腰のあたりでまとめ、そのまま床まで優雅に垂らしてあった
この衣装に、同色同紋の刺繍をした肘までの白い手袋と、銀に青い七宝細工のネックレスとティアラを身につけ、ティアラからはもちろん床を流れて余る長さのベールを垂らしている。
文句なしに美しい花嫁だった。
霞みのようなベールと肩口で切りそろえられた黒髪の奥に、ネックレスと揃いで作られた銀と七宝のティアドロップ型のイヤリングがのぞいて、イルニーフェはわずかに顔をしかめた。
アメリアの頭からティアラを取り外した女官長が言った。
「少し脇のところがゆるうございますね。袖の形ももう少しお直しましょう―――よろしいですか?」
最後の問いは、アメリアではなく仮縫い師に向けてのものだ。
仮縫い師がうなずき、アメリアは婚礼衣装を脱ぎ始めた。もちろんイルニーフェも場にいる以上、それを手伝う。
全部脱いで、ようやく普通のドレスに着替え終わったアメリアは、私室に戻ってお茶を運ばせてからようやくイルニーフェと二人きりで向かい合った。
「はい。それで?」
じりじりとこの瞬間を待っていたイルニーフェは、思いっきりテーブルを叩いた。いつのまにか、仮縫いにはいなかったユズハがちゃっかりお茶に同席していたりするが、これはいつものことなので黙殺する。
「どういうつもりなの !?」
「どうって、何がです?」
イルニーフェは噛みつきそうな表情で、アメリアを睨んだ。
「あなた、本気で『リーデット公子』と結婚するつもりなのって聞いてるの !!」
アメリアはきょとん、とした顔で自分付きの女官の少女の顔を見返した。
「どうして、わたしがリーデと結婚するんです?」
「…………!?」
イルニーフェは頭を抱えて黙りこんだ。
香茶をひとくち飲んで、それから聞き直す。
「………あの衣装は、あなたの婚礼衣装なんでしょう?」
「婚礼衣装を結婚式以外で着る人っていませんよ」
「その相手はリーデット公子じゃないの?」
「だれがリーデと結婚するって言いました?」
「………じゃ、どうするの。あなた国の最高権力者の命令を無視する気なの?」
「当たり前じゃないですか」
「………………………」
あっさり答えられて、イルニーフェは脱力の余り椅子からずり落ちそうになった。
アメリアが困ったように笑った。
「もしかしなくても、わたしがリーデと結婚すると思ったんですね?」
「普通はそう思うわよ。問いただしにきてみれば、仮縫いなんかさせてるし」
「あれはわたしがさせてるんじゃありませんよ。勝手に向こうがやってるんです」
めちゃくちゃな言われようである。
「あなた、ドレスのデザインにも口を出したって聞いたわよ?」
それを聞いたから、すっ飛んで帰ってきたというのに。
アメリアはケーキをフォークで切り取りながらうなずいた。
「ええ。どうせ作ってもらえるなら、使えるのを作ってもらったほうが得じゃないですか。だいたい青系統の衣装を着た花嫁なんて、赤茶の髪のリーデの隣りに似合うわけありません」
「……………………そうね」
これは、リーデットの髪の色に関してではなく、その前の方の得うんぬんの意見に対しての限りなく消極的な賛同である。
「イルニーフェ」
「何かしら?」
投げやりにイルニーフェがたずねると、アメリアはごく軽い調子で答えた。
「あなた、マラードに行ってください」
イルニーフェは眉をひそめた。問うまでもなく、マラードはアセルスやリーデットたちの生国だ。
「…………それは、どういうこと?」
「そのまんまです。約束を破るようで申し訳ないんですけれど、もうここには置いておけなくなりそうですから」
イルニーフェは軽く目を見開くと、幾度目かの溜め息をついた。
「あたしに対する責任を果たしてもらいたいわね」
「無理です」
即答だった。
「わかってるわよ」
淡々とイルニーフェは答えた。
「もう、決めたのね」
「最初っから決めてはいたんです。あなたにも言ったことがあるでしょう?」
―――出ていくときが来たら自分で出ていきますから、心配には及びません。
「あの人が帰ってきてくれる場所と言ってくれたのは、ここにわたしがいて初めて成り立つことなんです。ここで待てないのなら、仕方ありません。これまでやってきたことが無駄になるのが、残念ですけれど」
「迷わないのね」
アメリアは微笑した。
「迷いましたよ、とても。わたしはどうあがいても王族で、どうがんばっても意識の根本からその認識は消えてくれません。でも、待っている間に考える時間はいっぱいあって、うんうん唸って考えてそう決めましたから」
「あたし、とーっても非難したいんだけど、非難できないわ」
どっちの選択を取ってもこの王女は傷を残すだろうことが、これまでのつきあいから容易に想像できてしまう。
アメリアは困ったように首を傾げた。
「ごめんなさい」
「謝らないでくれるかしら、何だかあたし、自分にとっても腹が立ってくるの」
「どうしてイルニーフェが自分に腹を立てるんです?」
「結局何も手伝えなかったからに決まってるでしょう!?」
アメリアはまばたきしてイルニーフェを見つめたあと、透けるような微笑を浮かべた。
「あ、じゃあやっぱり、ごめんなさいですよ」
もはやイルニーフェは何も答えず香茶を飲んだ。
「………ぎりぎりまでいるんでしょう?」
アメリアが苦笑してうなずく。
「それまでは一応まじめに仕事しておいてあげようと思ってます。婚礼衣装の持ち逃げ代ぐらいにはなるかと」
「………手伝うわ」
「ありがとうございます」
ユズハが表情のない朱橙の瞳で、アメリアを見て、そしてイルニーフェを見た。
エルドラン王がアメリア王女の結婚を『決定』したのは、ほんの一ヶ月前のことだった。
