正しい台風の過ごし方  前編

 風がまるで物の輪郭を撫でまわすかのように、やわやわとまつわりついてくる。空気が湿り気を帯びているせいだろう。
 ゆるやかに吹いていた風は徐々に強くなり、草や木がざわめきはじめる。
 そうこうしているうちに雲の流れが加速度的に速くなり、白灰の雲の下に灰色の雲が流れこみ、黒灰、暗雲と重なりあって幾つもの層を成す。速い風に押されて、ときおり色の薄い雲の層が空のところどころに顔を覗かせ、またすぐに隠れた。
 急激に大地は暗くなる。
 湿った風に髪や服の裾をばたばたと遊ばせながら、外に出しっぱなしだった道具や鉢植えなどを屋内に運び入れる姿が、セイルーンのそこかしこで見られた。窓の鎧戸を閉め、板を打ちつける父親に釘を手渡す息子の姿。
 やがてその人影もまばらになり、最後の鉢植えを手にした母親の姿が、子どもが開けて待つ扉の奥に消えていく。
 子どもが閉めたというよりは風に押されるようにして勢いよく扉が閉じられ、かんぬきをしっかりとかける音がするのとほぼ同時に―――
 最初の一滴が空から落ちてきた。
 王宮の露台に吹き込んでくる雨混じりの風を受けながら、双子が目をきらきらさせて叫んだ。
「あらしがきました!」




  正しい台風の過ごし方。




 時間は少し遡り、その日の朝。
 起きたばかりの双子はベッドの上でぽんぽん跳ねながら嬉しそうに笑いあっていた。
 天気予報に関してはなぜか百発百中のユズハが夕方には嵐が来ると言ったのである。
 嵐は嬉しい。
 なぜなら嵐の日の夕食より後の時間は、父親も母親も仕事を休むと自ら決めていて、ずっとアセリアとユレイアと一緒にいてくれるのだ。以前、生まれて初めて体験する嵐に双子が怯えて泣きだして以来の習慣だった。大きくなったいまでは嵐は怖くないが、それでもこの習慣だけはなぜかそのままだった。
 気圧が下りはじめたせいか、オルハをはじめとした猫たちは機嫌悪そうに専用のクッションの山の上で丸くなっている。
 その山の下では座りこんだユズハが黙々と本を読んでいた。ときおり物憂げなオルハの尻尾がユズハの頭を、てふ、とはたき、慌てて上がってはまた落ちる。
「ユズハ、あらしはキライですか」
「水気、キライ」
 アセリアの問いに端的にそう答えると、ユズハは再び本に目を落とす。
「もったいないです」
「そうだ。たのしいのに」
「ねー?」
「ねー?」
 双子は首を傾げあった。
 セイルーンでもっとも豪奢で堅固な建築物のなかで育った王女らしい、至って呑気な感想だったが、執務室では約一名、殺気立った空気をあたりにまき散らしている者がいた。
「この時期に嵐ですって!? あと一週間ぐらい、いいえ、せめて三日ぐらい来るのが遅ればいいものをっ」
「無茶を言うな」
 ゼルガディスがにべもなくそう答えて、手元の書類に目を落とした。
「だっていま来たら今年の麦の収穫がのきなみダメになるじゃないのッ!」
「あと三日遅くても収穫しきれない作物はあるだろうが」
「いいのよっ。麦さえ終われば後はタマネギやらニンジンやらジャガイモやらで吹いても吹っ飛ばないようなものばかりなんだから」
「よく知ってるなお前………」
「当たり前でしょうッ!」
 半ば呆れ顔のゼルガディスに噛みつくようにして答えたのは、いうまでもなくアメリアの侍従長を勤めているイルニーフェだった。形よく結い上げた鋼色の髪の上で、ひとつだけ付いた雫型の珊瑚の飾りが揺れている。
「セイルーンの北と南では時期をずらして作っているからすでにそれぞれ収穫は終わっているけど、セイルーン周辺は今が収穫の真っ最中なのよ !? 取り入れきれてない畑に嵐が来るとどうなると思ってるの! 麦よ、麦! 麦が高騰したら経済にどれだけ大きな影響があるか………!」
 さすがに元は平民だけあって、容赦ないリアルさが言葉の端々にこもっている。
「まあ、今年は豊作でしたからねぇ」
 アメリアが頬杖をついたまま苦笑した。
 つい先日の視察で見たのは、そこかしこで納屋に収まりきらなかった麦を刈って、つかにしている光景だった。多少の雨なら平気だろうが、嵐ではひとたまりもあるまい。
「王宮の備蓄用の倉庫は空いてましたっけ」
「二つほどは空だった気はするが………避難させるのなら全ての農家の作物でないと無意味だぞ」
 ゼルガディスが窓に視線をやった。
 いまはまだ白い雲の間から青い部分が覗いているが、雲の流れが速く、遠くの空に微かに灰色の筋が見える。
「天候操作は必ずどこかにしわ寄せがいくからやりたくないんですよねぇ………イルニーフェ」
「なにかしら」
「王宮にある倉の種類を全部あげてみてください」
「王宮南翼に宝物庫が二つ、書庫が五つ、西棟に備蓄庫、武器庫………」
 反問することなくイルニーフェは即座にすべての倉の名前を延々と述べはじめた。
「―――食料庫………あとは本宮と神殿に宝物庫と書庫かしら」
「そうですか。宝物庫と書庫はパスしましょう。各農家は納屋を持ってますし、余剰分ぐらいならうちの庫でも何とかなるでしょう。飼料用の烏麦とエンドウ豆はもうあきらめてもらうしかありません。あれは運んでいる間に弾けます」
 イルニーフェは何とも奇妙な顔で己の主君を見た。敷地を効率よく使うために飼料用の麦と豆は種を一緒に蒔く。麦に絡んで豆は育ち、取り入れたあとは風干しする。からかわに乾いた莢は少しの刺激で中の豆が弾け飛ぶため、長距離の移動は無理だった。
 しかし市井の出身である自分はともかく、何でそんなことまで王宮ぐらいの執政者が知っているのだろうと眉をひそめると、ゼルガディスがその疑問に答えた。
 昔、リナが路銀を落としたために一同滞在先の村で農作業を手伝うハメになったのだと、かなりどうでもいいオチを聞かされてしまい、イルニーフェは嘆息した。
「とりあえず、麦だけに限定したほうがいいわ」
「そうしましょう。対象はセイルーン周辺の農家だけです。セイルーン以外の街ではロードの判断に任せましょう。ユズハの見立てでは、そう大きな嵐ではないはずです―――では、筆記をお願いします」
 イルニーフェが慌てて入り口の小部屋で待機している祐筆たちを部屋のなかに呼び入れた。
「各騎士団長及び各倉庫の管理責任者に通達。各自それぞれ空けられるだけの倉を空けて、セイルーン周辺の生産者の納屋に収まりきらない農作物を今夜一晩だけ緊急避難させること。きちんと種別、生産者別に管理し、なおかつ仕事の早い倉には特別に恩賞を与えます。なお、生産者にはこれから配布する預かり証を発布すること。後日これと引き替えに返却作業を行います。これにはわたしがサインを入れます。以上、各自アメリア=ウィル=テスラ=セイルーンの名において職責を果たすこと。もちろん着服した者は発覚次第、馘首クビです。
 ―――こんなものでどうでしょう。侍従長さん」
「さすがだわ」
 侍従長さんと呼ばれ、イルニーフェが眉間にさらなる皺を寄せながらそう答えた。
 ペン先が筆記の終了を告げる音を次々にたてる。
 書き終えたそれらを乾いた順に手早く集め、イルニーフェは命令の通達のために外に出て行った。こういった管理能力と手際が要求される仕事は彼女の得意とするところだった。すぐにでも段取りを整えて報告に来るだろう。
 執務室はアメリアとゼルガディスの二人きりとなった。
「やれやれ、せわしいな」
「まあ、嵐が来る前には嫌でも終わらせなきゃいけないことですしね」
 嵐が来れば、後の対応には手引き書がある。よほどのことがない限り、また執務を溜めこんでいない限り、夜以降の仕事はない。敢えて言うなら、被害報告に備えて自室でおとなしくしてることと、アメリアかフィリオネルが交替で一晩起きていることぐらいだ。
 嵐が来そうだというのに今にも鼻歌を歌いだしそうなアメリアを、さすがにゼルガディスがたしなめた。
「下町では家屋に被害がでるかもしれないんだぞ」
「そのための対策は既にとってあるじゃないですか。街道沿いの旅の小屋は、あれはもう潰れることを前提にしている建物ですし」
 言いながら、書類を片づけていく手と目は淀みない。
 執務机の脇には、この場にはふさわしくない明るい色彩の薄い本が何冊か置かれていた。
「久しぶりに一緒にいてあげられます。何の本を読んであげようか、いまから考えてるんですよ」
 顔をほころばせて、アメリアは幸せそうに笑った。
「今夜こそ逃げちゃダメですからね」
 団欒や子どもと一緒に過ごすことなどが、苦手とは言わないまでも、いまだ慣れないゼルガディスとしては短く唸るしかなかった。