嵐夜  前編

 上下左右から殴りつけるように吹いてくる風。めちゃくちゃだ。槌のような重さと鈍さで全身を叩かれる。抗うな。蹂躙されろ、と。
 耳がうるさい。風の音しか聞こえない。雨粒が痛く、飛礫のような鋭さで体中にぶちあたる。はりついた衣服はもはや肌の一部だった。風に持っていかれそうに縦横になびく己の髪。
 奇妙な明るさを帯びた、嵐独特の空。ときおり暗雲の向こう側が光る。遠くで、はるか遠くの空の階層で、荒れ狂っているだろう雷の光。
 木が、枝はおろか幹ごとたわむ。飛ぶ、枝とも石ともつかぬ何か。世界全体が唸りをあげて、ここにいる自分のことなど知らぬと叫ぶ。かまっていられぬと。
 風に翻弄されて膝をつき、飛んできた枝が頬にあたって痛みが奔る。うるさすぎて逆に静かだ。もはや何もかもどうでもいいような、置き去りにされた感覚。
 世界中に自分はひとりきりだと。
「―――――――――――――――――――――― !! 」
 リアは絶叫した。



  嵐夜。



 ことの起こりは、本当に些細なことだった。
 そう。たしか木剣のことだったと思う。
 とりあえず昼過ぎまで平和だったのは間違いなかった。
 朝、寝くたれていたら、いーかげん起きなさいッとマジ切れした母親に布団を剥がれて、寝台から叩きだされたため、リアはしぶしぶ起き出した。
 顔を洗っているとユズハがやってきた。
 何事だろうと思ったら、嵐が来るゾヨと一言のたまい、リナにフルーツケーキとミルクをふるまわれて帰っていった。どうやら忠告に来てくれたらしい。精霊の動きと総和を感じとるユズハの天気予報は外れたことがない。
 そして昼前だろうか。空をのんびりと見あげていたガウリイが一言、なるほど嵐が来るなぁと呟いて、それを受けたリナが、じゃあ食料の買い出しに行かなくちゃガウリイ荷物持ちねとあっさり言った。
 リアはティルトの面倒を見ながら留守番をすることになり、少々不機嫌だった。
 買い物も嫌いだが、少しもじっとしていない弟の面倒を見るのもイヤだった。六つになる弟はいまがいちばんやかましいうえに、くそ生意気で相手にしたくない。
 しかし買い物に無理やりついていったところで、彼女の容貌に後を付いてまわる輩が続出し、娘の受難にキレたリナが呪文一発というのが毎度のオチだったため、それを提案する気にもなれない。
 仕方がないのでティルトに手伝いを言いつけ、家中の窓と扉の補強をしてまわることにした。
「きょうはかあさん何をつくる気かなぁ」
「カボチャ」
 持たされた釘を地面に打ちこんで遊びながらの弟の言葉に、その頭をはたきながらリアは答える。
 はたかれた頭を押さえて、弟が地面から釘を引き抜いて土を落とす。
「なんでカボチャ?」
「さっきリクエストしたから、あたし」
「ずるい! オレなんもしてない!」
「あんたもすればよかったのよ。でも、あんたの好きなリンゴとタマネギの炒めたのは、リンゴの季節がまだ先だからね」
 リアの言葉にティルトはむくれてしまった。
 嵐の夜は料理に凝る日とリナは勝手に決めているらしく、リナの指揮下のもとガウリイまで借り出されて料理を作らされる。凝りすぎて下ごしらえだけで一日が終わることもあるが、味自体は一級品だし、普段は食べられないものばかりがテーブルに並ぶから、手伝わされることについては誰の文句も出たことはない。
 もともとリナは家事を率先してやるタイプではない。やればどれも完璧に近いぐらいこなすのだが、よほどのことがない限り最低限しかやろうとしない。
 料理に関しては、自身の食べ物に対するこだわりもあるから、普段から美味しいものを食べようと心がけてはいるようだが、如何せん、滅多に凝らない。
 ここらへんがリアの母親は他の女性と違う。
 セイルーンに越してきてしばらく経ってからのことだっただろうか。自分の母親が街の女性の既婚者とは、少しどころかだいぶ違うことに気づき、一度何気なく尋ねてみたことがあった。
「まちのおくさんとかーさんって、ちがうけどなんで?」
「はあ? そりゃそーでしょうよ。あたしはガウリイと一緒にいるけど奥さんになったつもりないわよ、これっぽっちも」
「ち、ちがうの?」
 八歳かそこらの子どもには、言っていることが全然わからなかった。子どもがいてその両親となる男女は普通、男の人が旦那さんで、女の人が奥さんではないのだろうか。
「要は気持ちの話なんだけど、あたしはガウリイと一緒にいようと思ったから一緒にいるだけであって、奥さんになりたかったわけでもなんでもないワケ。………まぁ、結果として、世間から見ればそうとしか思えないような暮らししてるけど。家の仕事があたしのやるべきことだとは微塵も思っちゃいないわよ。やんなきゃ気持ち悪いからやってるだけ。ガウリイもそうでしょうよ」
 わかったような、わからないような。
「じゃあ、けっこんしてないの?」
「したつもりないわねぇ、あたしは。ガウリイはどうかしら」
 あっけらかんと笑いながら母親はそう言った。父親のほうにはさすがに怖くて尋ねていない。
 どうも自分たちの両親は色々と型破りなようだった。
 肩を少し過ぎたあたりまで伸ばした髪が湿った風にまいあがり、リアは我に返った。
 吹きだした風にそろそろ近くなってきたなと顔をしかめ、窓の補強を再開する。
「ティル、釘」
 返事がない。
 板を手で押さえながら見れば、六つになる弟は釘と板を何やら不思議そうに眺めている。
「ティルっ、釘っ!」
「なあ、ねえさん。どうしてクギがささりにくいとこと、ささりやすいとこがあんだ?」
 リアのこめかみがひきつりだした。
 この弟はいつもこうだ。二つや三つの頃は、発達に問題があるんじゃなかろうかと両親が心配するぐらいぼけぇ〜っとしていたくせに、知恵付く頃にはなぜなに攻撃を連発し、六つのいまでは理屈付いてくそ生意気に反論もする。
 六つも歳が離れているんだから怒るのは大人げない、手をあげちゃいけない、自分はお姉ちゃんなんだからと言い聞かせても、こちらが大人しいのをいいことに―――というよりも、こっちが怒りに耐えていることに一向に気づかない弟は、こちらの神経を逆なですることばかりやり続け、結果として堪忍袋の緒が切れたリアが手をあげ、泣きだしたティルトが手足を振りまわしてこちらにつかみかかり、かくして姉弟ゲンカ勃発というパターンが非常に多かった。
 もともと、ティルトが生まれる前からリアの辞書に忍耐という文字は限りなく薄く書かれていたし、ティルトはティルトで辞書に学習という単語は載っていないに違いないと思われるぐらい、懲りるということを知らずに同じ失敗ばかりしている。
「それは木に木目があるからでしょッ。―――釘っ!」
 リアが怒鳴るとティルトは釘を手渡したものの、上の空で補強用の板をためつすがめつしている。
(怒らない。怒らない………ユズハと一緒。ユズハと一緒)
 ユズハもかなりテンポがずれた会話を繰り広げるのだが、どういうわけかティルトほど腹が立たないのが不思議だった。学習機能がティルトよりも優秀なせいかもしれない。
 姉の怒りにまったく気づかず、ティルトは重ねて問うてきた。
「木目って、あのわっかとはべつのものなのか?」
「………どのわっかよ」
「だから、あのわっか。ぐるぐるしてるやつ。うえにすわれるだろ」
 ぐるぐるしていて、上に座れる輪っか?
 
 な ん だ そ れ は。


 ―――ガンッ!


 リアが手にした金槌が、ひときわ大きく釘の頭を叩いた。
(父さん、早く帰ってきて………あたしじゃティルの言ってることがわかんない)
 ほとんど祈るようにして釘の頭をガンガン叩いていると、ティルトが焦れたように言った。
「にたおかしあんじゃんー」
 ようやくリアは弟が切り株の年輪のことを言っているのだと悟り、そのまま脱力して壁に寄りかかった。
「………年輪でしょ、それ」
「そうそれ。ねんりんと木目ってべつなのか?」
「一緒よ。横に切りゃ年輪で、縦に切りゃ木目よ!」
「た、たて? よこ?」
 どうも頭のなかで木の縦と横との関係がうまく想像できなかったらしく、ティルトは手にした木材をひっくり返しはじめた。
 リアはこの弟に手伝わせることをあきらめて、一人で窓の補強にかかった。
 これで大人しく考えこんでくれれば楽なのだが、何が疑問が思い浮かぶたびにこっちに質問をぶつけてくるので、イライラは募る。
 ようやく大量の荷物を抱えた両親が帰宅してきたとき、リアは金槌を放りだして父親に泣きついた。
「父さんっ、あたしもうイヤ〜ッ!」
 世間一般からするとそろそろ父親に懐くのを嫌がる年頃のはずなのだが、溺愛されてきたリアはまだ抱きつくのにためらいがない。
 カボチャを片手に抱えた父親は、危なげなく母親と同じぐらいの背丈の娘を受け止めた。
「なんだ? どうした?」
「ティル何とかしてよーっ!」
 ガウリイは、あー、またか、という顔をしてぽんぽんとその頭を叩いてやった。
「気にすんな。向こうもお前さんを困らせようとしてやってるわけじゃないんだから」
「だから手に負えないんでしょーッ! とにかく! 補強は父さんがやって! あたし中入るからっ、カボチャ貸して!」
 言うなり、父親の手にあった己の好物を奪い取ると憤然としてリアは玄関から家の中に入っていってしまった。
 少し強くなってきた風のなか、木材と道具箱とガウリイとティルトが残される。
 ティルトは少しべそをかいて父親を見あげた。
「オレまたなにかした?」
「う〜ん。何かしたわけじゃないんだが………」
 苦笑しながら、ガウリイはその栗色の頭を撫でてやった。
「だいじょうぶだ。カボチャ食べるころには機嫌を直しているよ。ほら、嵐が来る前に補強をすませちまおう」
「なあ、とうさん。ねんりんと木目っていっしょなのか? たてにきると木目で、よこにきるとねんりんってどういうことだ?」
 べそをかきながらも、しっかり疑問をぶつけてくる息子に、さすがに父親は慣れた調子で仕事をさせながら答えを示してやった。こういうものは経験と根気強さが物を言う。短気なリアでは無理だった。
 中に入ったリアは台所で母親の荷ほどきを手伝うと、そのまま一緒に料理の下ごしらえにとりかかった。
「あんたまたティル邪険にしたでしょ」
「だってティルがちっとも仕事しないんだもん。わけのわかんないことばっかり言うし」
「あの子は森が木に見えんのよ。わかったげなさい」
 タマネギの皮を剥きながらのリナの言葉に、娘は顔をしかめて首を傾げた。
「何ソレ」
「木が集まると森になるでしょ。そうなると、あたしたちは一本一本の木の存在なんか忘れて、そこにあるのは『森』というひとつの存在になってしまうけど、ティルにとってどこまでも『木』は『木』なの。森というひとつのカテゴリで認識できないのよ。まだね。大きくなりゃできるんでしょうけど」
「………よくわかんない」
 カボチャに包丁を入れながらリアは憮然として呟いた。
 昼間はあれだけやかましくて少しもじっとしていないから嫌いだが、寝顔を見ているとふんわりした気持ちになるぐらい可愛い。だから心底嫌いというわけじゃない。たったひとりの弟だ。
 しかし、やっぱり毎回腹は立つのだ。
 リアは感情の浮き沈みが激しい。激しやすくて自分でも嫌になるが、感情を溜めこむことのほうが怖かったため、なおそうと思ったことは一度もなかった。
 怒りのままにカボチャを乱切りしている娘に、淡々とリナが釘を刺す。
「あんまり細切れにしていると、カボチャみんな茹で潰すはめになるわよ」
「もう一個あるんでしょ?」
「はいはい。あんたのために一個余分に買ったるわよ。んもー、あんた変なのが好きなんだから」
「変じゃないもん」
 リアはぷーっとふくれながらも、切ったカボチャを脇へ寄せて次の野菜を手に取った。カボチャはそのまま割って、天火オーブンで焼いてバターを塗って食べるのが絶対おいしいと思うのに、誰も賛成してくれない。
「それ切り終わったらカスタード作って。早生りの林檎買ったから」
「えー?」
 リアは不服を唱えたがリナの指示に対してのものではない。リナの指示と材料からデザートが何なのか予想がついたための異議申し立てだった。焼いた未熟なリンゴのもそもそした食感がリアは苦手だった。
 えらく勝手な娘の文句にリナのこめかみがひきつった。
「あんたの好きな栗もあるッ」
「カスタード作って青林檎に詰めて焼けばいいのよね。了解ー」
「この娘は………」
 急に聞き分けよく弟の好物を作りはじめた姉に、リナはこめかみを指で揉んだが結局何も言わなかった。
 やがて補強と点検をすませたガウリイとティルトが家の中に戻ってきて、揃って野菜を洗ったり切ったりしているうちに、風が強くなってきた。
「ガウリイ、ここはいいから、ちょっと外見てきて。あとどれくらいで来そう?」
 それに応じて父親が外に出ていく。扉が開いた拍子に吹きこんできた風は湿っていた。
 ふとリアは包丁の手を止めて、家の外へと意識を広げる。
 嵐が来る前はいつも、少し胸の奥がざわめいて落ち着かない。世界中が何かの期待と予感にふるえている。
 と、母親が鍋の木蓋を取りあげた。もうもうと立ちあがる湯気にリアの注意はすぐにそちらに逸れる。茹でられているカボチャの具合が気になった。
 少し離れたテーブルでは弟がパイ生地をテーブルに叩きつけたり、拳で殴ったりしていた。ほとんど遊び感覚で粘土と同じ扱いを受けているパイ生地だが、ちゃんと手伝っているぶんには文句はない。ただ、これでちゃんと焼きあがるのかリアは少し不安になった。
 玄関のほうから父親の戻ってくる気配がした。
 食堂兼居間と台所は壁がなく、ひと続きになっている。すぐに姿を現したガウリイは、リアを見ると手に持ったものを掲げた。
「リア、剣出しっぱなしだったぞ」
「え?」
 愕然としてリアは父親が手にしている自分の木剣を見つめた。
 たしかに自分のだが、外に出しっぱなしにした覚えはない。自分の剣は大事にしろと言われているから、稽古が終わるといつも自室で手入れして壁に立てかけている。
 何でそれが外にあるのだ。
 ふと、こちらを見ている父親の表情が微妙に変化した。
 それでリアにはピンときた。
 ふり向けば案の定、弟がしまったという顔で縮こまっている。
 前々から剣に興味を示していたティルトがリアの剣を触りたがっていたのは知っていたが、その度に拒絶してきていた。
 それでもあんまり触りたがるものだから、ティルトの分も作ってやって、本格的に剣の稽古を始めようかという話になっていたのだが、子どもは感覚する時間の流れが遅い。だいぶ先の話に思え、待ちきれなかったのだろう。
 そこまで思い至ったのは、後先考えず家を飛び出してからだった。
 ただもうそのときは瞬間的に沸点に達した怒りに我を忘れて―――理性が飛ぶ前に包丁を手放せたのを誉めてもらいたいぐらいで―――駆け寄って父親の手にした木剣を取りあげると、ふり向きざま弟に向かって投げつけていた。
 自分の物を無断で触られるのが、いちばんリアは嫌いだった。許す許せない以前に、自分の領域を侵されたような気がして、感覚的にだめなのだ。
 一応ぶつけないように足元めがけて投げたのだが、床にぶつかって回転して跳ねた剣先が額に当たり、弟は火がついたように泣きだした。
「リアっ!」
 母親があげた声にしまったと思ったものの怒りが収まるわけでもなく、逆に引っ込みがつかなくなって、ますます頭に血がのぼり何も考えられなくなった。
「そんなに欲しいんならあげるわよ! ティルが触ったのなんかいらない!」
 すぐ傍にいた父親が手を伸ばしてくるのをすり抜けて、扉を開いた途端、湿った風がどっとリアに押し寄せた。
 風に巻かれるようにして、リアは外に飛びだした。



「待ちなさい、リア―――!」
 運悪く、たまたま鍋を茹でこぼしていた最中のリナは急には手を離すことができなかった。
 慌てて鍋を元の位置に戻す頃にはリアは飛びだした後で、わんわん泣くティルトの傷の具合をガウリイが確かめていた。
「こぶになってるだけだ。男の子がそう簡単に泣くんじゃない」
 傷を確かめていた手が、そのまま栗色の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
「………何でまた、姉さんがだめだって言ってるのに触るんだ?」
「っく、ぅえ、だ、だって………っこよかったん、だも……っ」
 言うと、またティルトは泣きだした。痛いのと怒られたのとで涙が止まらない。
 泣くのと、しゃくりあげるのと、ごめんなさいを繰り返しているのとで、ティルトの泣き方はめちゃくちゃだ。泣きすぎてうまく呼吸できないでいるらしく、ひっと肩を揺すりながら、さらにまた泣いている。
 玄関までリアを追っていったリナは扉を開けた途端、風に押し戻されそうになって悪態をついた。
 玄関から見える四方、金色の頭はどこにも見えない。
「あンの馬鹿娘っ! 翔封界レイ・ウイング使ったわね!」
 この風のなかどこまで行く気だ。おまけに風が強いとあの呪文はまともな飛び方をしない。これから嵐が来るというのに!
 背後ではティルトが泣いている。
 リナは思わず溜息をついた。
 ケンカは毎度のことなのだが、もう少し何とかならないものか。リアの感情の起伏はリナの目から見ても激しすぎる。年子のケンカならまだわかるが六つも離れているのだから、もう少し自制が利かないものだろうか。
 肩をぽんと叩かれふり向くと、ガウリイが立っていた。
「おれが行ってくるよ」
 子どもを宥めることにかけては、ことガウリイの右に出る者はいない。リナに否やはなかった。
「リナはそのまま飯作ってろよ。リアが帰ってきて自分のせいで夕飯がないと知ったらますます落ちこむからな」
「………あんたの気のまわしかたって時々変よね。的は射てるんだけど」
 ガウリイを送りだし、リナはティルトをなだめすかして手伝わせながら夕食の支度を再開した。