嵐夜 後編
風はどんどん強くなった。湿気った空気に肌や髪がべたつき、時折飛んできた葉がはりつく。
気圧の低下に耳の奥が痺れるような不快感があった。
頭上で大きく枝がしなる感触が幹越しにリアの背中に伝わってくる。
梢越しに見る空はすさまじい速度で雲が流れ、層を成し、目まぐるしく色の濃淡が変わりゆく。
急激に大地は暗くなり、そのうち嵐の前独特の妙な明るさを帯びはじめた。
見下ろす風の吹き渡る大地は虫の声も生き物の気配もせず、奇妙に静かで荒涼としている。
風にあおられて落ちたら最後、命はない。
そんな高さの太い枝に腰掛けて幹に背中を預け、リアはぼんやりと空を眺めていた。
怒りのあとの虚脱感で、指一本動かす気になれない。
悲しいやら情けないやらで、涙が出そうだった。弟が悪いとはいえ、あんなに怒る必要はなかったのだ。
いつも怒ったあとで行き過ぎを反省するのだが、一度感情が激すると止められない。止めて内側にそれを留めると、それに刺激されて動きだすものがある。落ちこんだときもそうだ。一度、最奥部までいかないと浮上できない。
「ばっかみたい………」
ぽつっ、と頬に最初の一滴があたった。
みるみるうちに全身に打ちつけると、すぐに相当の降りになる。風が髪を巻きあげ、視界を隠した。
嵐がはじまる。
一際強く風が吹き、背にしている幹ごと大きくしなった。
さすがに危険を感じ浮遊で大地に降りたったとき、空で雷光が閃き、視界が白く染まる。
一切の音が消えた。
真っ白に灼けた視界の中央に誰かが立っていた。
金の髪、真紅の瞳。寸分違わぬ自分の姿。
首を傾げて微笑するその輪郭が周囲に白く溶けそうだ。
(………みんな、あたしのせいにしちゃえば? そうすると楽だよ?)
楽しげに囁いてくる声は自分のもの。
金の髪が逆巻いた。
これは幻だ―――。
(みんな『あたし』のせいにすれば、あたしは何も悪くない)
「………うるさい」
真紅の目が底光りする。同じ色なのに別の意味を持つその真紅。
(こんな醜い感情を覚えるのは全部『あたし』のせい。あたしは何も悪くない)
「………みんな、あたしのものよ」
その答えに、目の前の同じ顔が嫌そうに歪んだ。
「この怒りも、苦しみも、情けなさも、悔しいのも、楽しいのも、嬉しいのも、全部。あたしのものよ。全部、あたしのせいで、あたしが悪い。あたしのなかのあんたのせいじゃない」
少し拗ねたような顔つきでリアを睨みつけると、ふッと相手は姿を消した。
同時に、遅れて響いた雷鳴が鼓膜を切り裂いていく。
白く灼けた視界が徐々に視力を取り戻し、嵐に蹂躙される世界を映しだした。
視界のすみに焼けこげ、生白い幹をさらして二つに裂けた木が見えた。ちろちろと落雷の余韻で下草を這う火を、強くなる雨脚が消していく。
日が沈んで、急激に大地は闇を濃くした。
雷光を帯びる頭上の雲だけが紫色に発光する。
ざんッ、と大気が鳴る。急に嵐が一段階、その強さを増したようだ。
打ち倒すような勢いで風が彼女に襲いかかった。槌のような重さと鈍さで全身を叩かれる。抗うな。蹂躙されろ、と。
翻弄されるまま膝をつき、その場にうずくまった。
雨粒が痛く、飛礫のような鋭さで体中にぶちあたる。
世界中に自分はひとりきり。
「―――――――――――――――――――――― !! 」
リアは絶叫した。
ものごころつくころには、自分の内側の違和感に漠然としながらも気づいていた。
その時点で両親に報告しなかったのは、子どもの足りない語彙ではうまく説明できなかったのと、直感的に言ってはいけないと思ったからだ。
幼い頃はそれが何なのか理解できなかったが、知識を外から吸収できるようになると、何の疑いもなくその正体を悟ってしまった。
ますます言えなくなった。
一生隠していこうと、子どもなりに決心した。
種の発芽に必要なのは、水と空気と温度。どれかひとつでも欠ければ芽を出すことなく眠り続ける。
異分子でもあったが、同時に自分自身の一部でもあった。
それなりに上手く付き合い続けて、ここまできている。
濡れた大地に頬を押しつけてリアは目を閉じた。
風の唸りはうるさすぎて逆に静寂の一部と化してしまい、何も感じられなくなった。叩きつけるような雨粒が痛かったが、それもどうでもいい。風が強すぎて、服と髪がひき毟られるようだ。
不意に一方向だけ風が遮られた。
目を開けると、眼前に小さな靴の爪先があった。
具現化した魔力の一部であるローブは風にはためかせるのが面倒くさくなったのか、彫像のように微動だにしない。おかげでかなり違和感があった。
「………あんた何しに来たの」
相手がしゃがみこむ。
視界にようやく相手の白金の髪と橙紅色の瞳が入りこんだ。ローブは風になびかないのに、髪はめちゃくちゃに乱れている。つくづく理不尽の塊だと思った。
「くーん、帰ル」
風に飛ばされそうな声は、どういうわけか不思議と耳に届いた。
リアは首を横にふった。
何もかも面倒くさくなっていた。
このまま自分の内側と付き合い続けるのも、毎回激した感情の始末をつけるのも嫌になっていた。
「帰らない」
「帰ル」
「イヤ。もうこのままでいい。―――死んだっていい」
ユズハが首を傾げる。
「どうして消えル?」
ユズハの死の定義が自分たちと微妙にずれているのは以前から気づいていた。死ぬのと消えるのは同義らしい。
かといって、このすさまじい嵐のなかでそれを訂正する気も起きなかった。
「………だって、あたしのなかにはあたしじゃないのがいるから」
「いない」
あっさり一言で切って捨てられた。
「いんのよ」
「いない。くーんは、くーん。くーんのなかには、くーんがいル」
「………たしかにあたし自身でもあるんだけどさ」
あくまでも大まじめで淡々としたユズハの答えに脱力して、リアはその場に起きあがった。起きあがると風によろめいて吹き飛ばされそうになる。
それを見たユズハが思いだしたように自分も転がりかけるのを、片手でつかまえた。
おかげで厭世的な気分がどこかに消えていた。
「あんたは無敵ねぇ………」
思わずしみじみと呟くと、相手はかくりと首を傾げる。
「くーん、帰ル」
ユズハのおかげで何となく気分は沈静化したものの、帰るにはまだ多少ふんぎりがつかない。ずぶ濡れなので、いっそこのままでもいいようなやけくそ気味の爽快感があった。
ユズハが顔をしかめる。
「くーん、帰ル。濡れルのキライ」
そういえば濡れるのがキライだったなと思いだし、ふとリアは疑問に思った。
「嫌いなくせに、なんであんたここいんのよ」
「くーんが、居ルから」
当たり前のように答えられて、リアは溜息をついた。溜息はそのまま風に持って行かれて、暴風の一部と化す。
思考も、価値観も、存在の仕方すらも自分と違うこの相手は、どういうわけだか自分を好いてくれているらしい。
「不思議ね、あんたといると何だか、何でも大したことないような気分になってくる」
少なくとも濡れて頬に張りつく泥を気持ち悪いと感じる程度には、平常心が戻りつつあった。
風はどんどん強くなる。ユズハが飛んでいかないようにリアは慌てて抱き寄せた。
飛んできた小石がぴしりと額に当たり、痛みが奔る。その痛みで、自分が投げた木剣が弟の額に当たったことを思いだした。
―――痛かっただろうな。
「くーん、帰ル。くーんも、濡れル」
いつの間にかちゃっかり膝の上におさまったユズハが、ぺしぺしと頬を叩いて注意を促す。すでにもうずぶ濡れなのだが、そんなことはおかまいなしらしい。
帰れ帰れと連呼している相手に力無く笑って、リアはとりあえず立ちあがることにした。
しかしすぐによろめいて膝をつく。既に風がまともに歩ける強さではなくなっていた。
雨が痛いくらいにぶつかってくる。目の前を唸りをあげながら太い木の枝が飛んでいくにあたって、リアもさすがに帰ろうかという気になった。
「ユズハ、あんた方向わかる?」
無言で相手はひとつの方向を指さした。
「あっちから、来ル」
「は?」
暗いのと風雨の強さも相まって、ほとんど先は見通せない。
「がうりい、来ルから」
ユズハがそう言った途端、頭の上から毛布が降ってきた。
突然のことに棒立ちになっているうちに、毛布ごと抱えられて足が浮く。
「ほれ、風邪ひくぞ」
「………と、父さん?」
毛布の向こうから降ってくるのは間違いなく父親の声だった。嵐のなかとはいえ、来た気配を全然感じとれなかったことにリアは驚く。
「お腹減っただろう? さっさと夕飯食べに帰ろう」
何でもないその口調がひどく心地よく、同時にきまり悪かった。
「ユズハも、食べル」
「おー、いいぞ。今日はご馳走だからなー」
ちゃっかり肩におさまっているユズハに至って呑気に答えを返す父親にリアは呆れ、そのうちおかしくなってきた。
風と雨をものともせず父親は歩いていく。
毛布越しの風の音は遠く、別の世界で泣いているようだった。
「………ごめんなさい」
「おれはいいさ。あとでリナに謝れよ。おれとリアの分の洗濯物が増えて怒るだろうから」
「うん………」
問題はそこではないことぐらい父親も承知しているのだろうが、お互い敢えて触れずにすませた。どうせわかっている。
ガウリイの肩に座ったユズハの踵がぽんぽんとリアの体にぶつかって跳ねる。
「ねえ、父さん」
毛布に顔を埋めながら、リアは小声でささやいた。
「あたしが死んだら悲しい?」
「そりゃ当たり前だろう」
何でもないことのようにそう答え、ガウリイは続けた。
「だいたい順番が逆だしなあ」
「順番?」
「おれやリナのほうが歳が上なんだから、普通、リアより先におれたちが死ぬんだぞ。それをリアに先に死なれたら、ものすごく悲しいじゃないか」
「そっか………」
リアは目を閉じた。
「じゃあ、あたし、絶対死なないようにするから」
何があっても生きている。
この自分のなかにある闇をなだめながら、ずっと生きる。寿命が尽きるまで。
絶対に死を選んだりしない。
毛布越しの頭上の父親は何とも言えず笑ったようだった。
「ああ。そうしてくれ」
「うん。そうする」
「うむ。それがヨイ」
わかっているのかいないのか、ユズハが鷹揚に頷き、リアとガウリイは同時に笑いだした。
家に帰り着くと無言で風呂に追いやられ、出るとそのまま夕食になった。
その席でティルトにべそをかかれながら、ごめんなさい、もうしませんと謝られて、リアはおおいに自分の短気を反省した。
こぶになっている額を見て、その頭を撫でてやる。
「ごめんね、痛かったでしょ」
どうやら仲直りしたらしい姉弟を眺めていたリナは安堵の溜息をつきながら、それぞれの皿に料理を取り分けた。
「ほら、二人ともさっさと食べなさい。リア、あんたが途中で手伝いほっぽりだしていくから、作るの大変だったんだからね。後かたづけはあんたがするよーに」
「………わかった」
頷きながらリアは皿を受け取った。そこにのせられた、えらく形がいびつなカボチャのパイに思わず横に座った弟に目をやると、神妙な顔で口を開く。
「オレつくった。………ごめんなさい」
形がいびつなことを謝っているのか、それとも味か、はたまた木剣を無断で持ち出したことを謝っているのか。
判然としがたいその口調に、リアは何となく笑いだしていた。
「―――いただきます」
さっきまでいた外では風が唸りをあげている。
窓と屋根を揺さぶるその音は入れてくれと泣き叫ぶが、ここまで入りこんでくることはできずにいる。
ちゃっかりと自分も同席しているユズハが、ふとリアを見た。
自分を見つめるその炎の色をした双眸になぜか安堵して、リアはしばらく自分の内側の不安を忘れていることにした。いまは、まだ、おとなしい。
まだ、だいじょうぶ。
まだ、愛せている。
この嵐のなかでも。
まだ――――。
――End.