Ria and Yuzuha's story:Second pray【楽園】〔4〕

 サイラーグは綺麗な街だった。街としての歴史がまだ若いせいだろう。建物がこぎれいで、区画整理されていて、通りは大きい。
 運河や街の中央にある湖には、かつての街の遺構が苔をまとわりつかせながら水面から顔を出していたり、青い水中の影となっていたりする。
 復興を始めてから二十年ほども年を重ね、街の運営も軌道にのっているようで、街の活気の中にも落ち着きが見られた。
 サイラーグに着いたのが昨日の夕刻で、リアたちはシルフィールが起居している神殿に客分として泊めてもらっている。
 シルフィールは神官長に次ぐ副神官長の地位にあるらしいが、街の人間からの慕われようは神官長をしのいでいるのではと思えるほどで、彼女の客としてリアたちは歓待された。
 今日も、街を歩きたいと言ったリアに対して案内を申し出る神官がいたのだが、それは丁重に断って、彼女はユズハと二人で出かけた。
 そのユズハはさっきからあちこち動き回っては、リアの手を焼かせている。
「くーん。あれ、ナニ」
「知らない。いいからもーうろちょろしないでよっ。でないと運河に突き落とすわよ、って言った先からどこか行くしッ」
 リアは慌ててユズハのあとを追った。
 さっきから、散策なのだか目付役なのだか、さっぱりわからない。
 ユズハを追って路地を曲がったリアは、いきなりユズハに体当たりするようにしがみつかれて転びそうになった。
「ユズハ、あんたね………」
 悪態をつきかけて、リアは様子がおかしいことに気がついた。
 無表情だからよくわからないが、どうも少々怒っているような気がする。いや、怒っているというよりは、気にくわないといった感じか。あえて言い表すなら………、

「こんにちは。旅の方」

 ―――警戒心。

 顔をあげたリアは、軽く息を呑んだ。
 目の前の人物が、あまりにも綺麗だったのだ。
 絹糸のような黒髪の左右を少しだけ取ってそれぞれ結い留め、あとは無造作に流している。
 しかし目立つといったらそれくらいで、容貌自体はそれなりの美人という程度のものだ。
 リアに息を呑ませたのはそのだった。
(なんてきれいな瞳)
 どこまでも澄んだ双眸だった。
 無色光をたたえた泉が溢れだすような、透明さ。
 目の色自体はごくわずかに青みの入った薄墨色だった。冬の空の薄い色。
 だが、色よりもまず第一印象として焼きつくのは、その双眸に顕れている内面のきよさだ。
 聖性。
 透明な眸をした女性は、おっとりと微笑んだ。
「旅の方。この街は始めてですか」
「え、ええ………」
 うろたえながらも何とかそう答えて、リアは足にしがみついたユズハを引き剥がそうとこころみたが、これがどういうわけか離れない。
「ちょっと、ユズハ!」
「ヤ」
「ヤ、ってあんたね」
 目の前の女性がフフと声をたてて笑った。
「どうやら人見知りしているようですね」
(んなワケないしッ)
 全ての事柄に物怖じしない半精霊に人見知りもへったくれもない。
 ユズハを引き剥がすのを断念したリアは、そこでようやく彼女の背後に何人か取り巻きとおぼしき人々がいることに気がついた。
(ああ。なるほどね)
 これが例の。
 ユズハがこれほど警戒心をあらわにしているところを見ると、やはりただの迷惑人ではないということか。
(………でも)
 何かがちりりとささやいた。
(こんなに、きれいをして、いるのに)
 ユズハの帽子の頭をなだめるように軽くポンと叩いてから、リアは目の前の人物と視線を合わせた。
「妹がごめんなさい。あなたはこの街の人なの?」
「まあ。妹さんなのですか。可愛いですね」
 微妙に会話がズレてる。
 返答に困ったリアに気づいたのか、相手は軽く目をみはった。
「ああ、すいません。私はこの街の人ではありません。でも、ずいぶん良くしてもらっています。良い街です。あなたもそう思いませんか?」
 言葉のひとつひとつが、とても静かな響きを持っていた。
 彼女の背後にいる人の良さそうな男女が、彼女の言葉を聞いて誇らしげな顔をする。
「そうね」
 リアは素直にうなずいた。
 相手への印象は脇に置いておいても、そう思うことは事実だった。
「来たばかりだけど、良い街だと思うわ」
「ええ。とても良いところです」
 嬉しそうに相手はうなずき返した。
 澄んだ光をたたえた双眸が細められ、その唇が笑う。
 くらりと眩暈がした。
 その淡い笑みの形に整った唇が、網膜に焼きつけられて消えなくなる。
(これは、なに)
 不意に彼女がリアの視界から消えた。
「ご機嫌をなおしてください」
 彼女はしゃがみこんで、ユズハと目線の位置を同じくしていた。大人が小さな子どもに対してよくやるように。
 ユズハは視線をそらすのをやめて、今度は逆に相手をジッと見つめる。
「ご機嫌をなおしてください。負の感情は心を濁らせます。それでは」
 唇の動きが、やけに目についた。
「魔が、喜ぶだけです―――」
 リアはわずかに目をみはる。
 食い入るように見つめるリアに気づく様子もなく、彼女はユズハと話をしている。
「ゆずは、別にご機嫌ナナメ、違ウ」
 相手を凝視したままユズハはそう答えた。
 平坦な声音だが、機嫌を損ねているのがリアにはわかった。
「濁っテ、ナイから」
「それはいいことです。いい子ですね」
 笑って、彼女はユズハを撫でようと手をのばしたが、ユズハは素早くリアの背後にまわりこんでそこから顔だけを覗かせる。
「しかたありません」
 苦笑して立ち上がると、彼女は伸ばした手をそのままリアの頬に触れさせた。
 リアは思わず息を呑む。
 透けるような双眸が、微笑とともに告げた。
「では。あなたにも楽園の祝福がありますように………」
 指が離れる。
 くるりとひるがえった袖が風をはらんだ。
 遠ざかる相手の背を呆然と眺め、相手の姿が角を曲がって消えたところで、リアはようやく互いに名乗りあってもいないことに気がついた。
「なに、アレ」
 ようやくリアから体を離したユズハが、相手の消えた路地を睨んだまま呟いた。
「ユズハ………?」
「あれ、ヘン。ゆずはと、似てル」
「あんたと?」
 リアは眉をひそめた。
「いやたしかに、あんたと似てるんなら変なんだろうけど………」
 そういったところは思い当たらない。いったいどこが似ているのだろう。
「ヘンなの」
 ユズハはしばらくの間、それしかくり返さなかった。



 同じ頃、シルフィールの質問攻めから解放されたゼフィアはアーウィスの居室に招かれていた。
「街全体から水の匂いがしますね」
「そりゃあ運河が道の代わりのようなもんだからな。お前も早く目を治してまたここに来い。夕方とかは目をみはるぐらいキレイなもんだぞ」
 酒を注ぐような手つきで茶を淹れながら(さすがに昼日中から酒を飲むわけにもいかなかった)アーウィスはそう言うと、さらに付け足した。
「あんな美人を連れ歩いてるんだぞ。目が見えないともったいない」
「………は?」
 窓の外に顔を向けていたゼフィアは、アーウィスの方向に向き直った。
「それはクーンのことですか」
「なんだ知らなかったのか。まあたしかに普通は、自分は美人だと触れ回ったりはしないだろうからなあ」
 ときたまそういう女もいるにはいるが、と呟きながら、アーウィスはテーブルの上にわざと音をたててカップを置いた。
「ついでに言うとだな、あの小さいほうもお人形さんみたいな顔をしてる。お前、ここまで来る旅の間にえらく注目を集めたはずだぞ」
「道理で道中やけに視線を感じると思いました」
 カップに手を伸ばしながら、ゼフィアは軽く溜め息をついた。
「ものついでに護衛を依頼したお前が悪いな。ありゃものすごいぞ。二、三年もすればすれ違った男がみんなふり返るぐらいの美女になる」
「それはもったいないことをしました、とでも言えばいいんですか?」
 にべもなくそう言って茶を啜るゼフィアに、アーウィスはこめかみをかいた。
「全然変わってやがらねェし、その性格」
「いいえ。昔よりもっと悪くなっていますよ」
「自分で言うな」
 アーウィスは自分の茶に蜂蜜をたっぷり落とすと、スプーンでぐるぐるかき混ぜた。
「なんだ。あの嬢ちゃんは嫌いなのか。嫌いな人間に仕事の依頼をするなんざ、お前、相変わらず悪趣味だぞ」
「目が見えていたなら、あなたの香茶に塩をブチ込んであげるのですが」
 極端な甘党である年上の友人に、にこやかに笑ってそう答えたあとで、ゼフィアは笑顔の種類を変えた。
 少しだけ苦笑している。
「でも、もしかしたら苦手なのかもしれません」
 アーウィスは驚いて、スプーンをまわす手を止めた。勢いのついた香茶の流れは止まらず、スプーンを迷惑そうに避けて不規則な渦を巻く。
「苦手だと? また、なんで」
 アーウィスはスプーンから香茶の滴を落として、空いている別のカップに入れた。
 陶器と金属のぶつかる硬い音。
 その音に、ゼフィアが布越しにわずかに顔をしかめた。
「ゼフィ?」
「内緒です」
「あン?」
「教えません」
「なんだそりゃお前よ!」
 くってかかるアーウィスを適当にあしらいながら、内心ゼフィアは嘆息した。
(言えるわけないじゃないですか)
 苦手な理由がおそらく、
(知らないあいだに私の領域に入り込んでくるのを許してしまっているから、だなんて)
 口が裂けても、他人には言えない。
「とにかく内緒です」
 頑として打ち明ける気がないのを悟ったらしく、アーウィスは散々悪態をつきながらも引き下がった。
「お前の苦手意識はともかく、これだけは言っとくぞ」
「なんです?」
「たかだか十数年で世の中見た気になって満足してるんじゃねぇぞ。お前が見てないもんや、これから見たくなるもんは絶対これからたくさん出てくるんだ。いまのうちに必ず目ェ治しとけ。だからさっさとクーンについてセイルーン行け。いいな」
 ゼフィアはアーウィスの視線から逃れるようにうつむいた。
 香茶と蜂蜜の甘い匂いがする。
「アーウィス。もし目が治らなくて、そのときに見たいものがあることのほうが、怖いんです。私は実はフラウよりも臆病なんですよ………偉そうなことをいっておきながら………」
「泳ぐ前から溺れる心配をしてどうする」
「アーウィスの言っていることはまったくもって正しいです。けれど、見たいものは全部見たと思い込んでいる方が、楽なんですよ」
 己の両手をテーブルの上で開いてみせる。
 アーウィスには見えるだろうが、ゼフィア自身には見えない両手だ。
「物心つきかけたときに、この手が見えなくなりました。再びこの手が見えたとき、私は十三でした。小さな頃に見たものの記憶などあるはずがなくて、ただ色彩だけを覚えていた私は、そのとき初めて自分の手を見た―――」
 水面に落ちる水滴のように、ぽつりと呟かれる。
「嬉しかったですよ」
「…………」
「けれど同時に宣告も受けました。次に見えなくなったときが最後だと」
「ゼフィ―――」
 立て続けに滴が落ちて、水の上に波紋を描きだす。
「目は開きました。信じられないくらい美しいものを見ることができました。育ててくれた祖父の顔も、長い間暮らしてきた家の疵も、全部見ることができました。そうして―――また見えなくなるのが、とてつもなく恐ろしくなった」
 その恐怖から逃げるために神官になり、治癒魔法を覚え、薬草学にも手を出した。
 再発を防ぐことができるのなら、何でもする気でいた。
「あなたに出会ったのは、十五のときでしたね」
 アーウィスに言葉をもらって、自分は神殿を出て行った。治すことをあきらめずに、それでいて、見たいものを見るために。
 あちこちさまよって、フラウたちのいる街に落ち着いたのは十九のときだった。
 そのときにはすでに半島中を歩き回っていた。エルメキアの最西端の街から、滅びの砂漠を眺めたことすらあった。
「アーウィス。見たいものなんか減りはしないんですよ。見れば見るだけ、次がほしくなる。終わりなんて、ありません。世界中の全てを見たとしても恐らく何度でも、私は全てが見たくなる」
 そこらじゅうに転がっている石でも。ふとした拍子に差し出されたりする人の手や、働く人たちの些細な動き。あるいはこちらに怒りをぶつけてくる人の顔でさえ。
 何ひとつとして、見えなくていいものなどなかった。
 それなのに。
「ある日、自分が書いたはずの字がただの染みにしか見えなくなったんです。書いた内容は、全部覚えているというのに。それから目覚めるたびに、見えるものが減っていった………。
 ―――アーウィス、七年前にあなたの言う通りにして、私は少し悔やんでいるんです」
 教えてもらった世界はあまりにも広すぎた。
 与えられた時間はあまりにも短すぎた。
 見たその瞬間に目に焼きつけたと思ったはずの記憶は、闇の中でどんどん輪郭をおぼろにしていく。
「再発したときが最後だと言われた私に、見たいものは多すぎます。これ以上、増やしたくなんかないんです。どんどん、辛くなる………」
 最後の波紋が消えるように言葉が途切れた。
 部屋は限りなく明るいのに、どこまでも暗い。
「ゼフィ、けどな………」
 アーウィスが言う。
「あのまま、神殿で何も見ないまま目が見えなくなっていくよりはよかったと思えてるんだろう?」
「ええ………。だから私はあなたが嫌いなんですよ………。そういうことを平気で言うから」
 ゼフィはとうとう両手で顔をきつく押さえ込んだ。
「期待してもいいんでしょうか」
 再び、光が。
 己の両手が見えて涙が溢れでた、その瞬間が、もう一度。
「セイルーンで治るかもしれないと」
 きつく光を弾く銀髪が、肩からざらりと滑り落ちた。
「………ったく、お前はよ」
 アーウィスは苦笑混じりの溜め息を吐いた。
「もう少し楽に考えろよ。フィア」
「その名前やめてください」
「女の子みたいだっつんだろ。じゃあ、ゼフィよ」
 席を立つと、アーウィスは窓際まで行ってそこで窓枠に両手をついた。
 窓のすぐ下は運河だ。陽の光が真上から降り注ぎ、水面はぎらぎらと魚の鱗のように光っている。
 ふと思いついて天井を見上げると、案の定、そこには揺らめく反射光。
 うつくしい、ひかりだ。
「もし治らなかったとしても、お前はこれからしばらくセイルーンにいることになるんだ。白魔術都市にだぞ。そこでなら、治療法が見つかるのを待てないこともないだろう? 俺は少なくともそう考える」
 長い長い間があいた。
「だから私は、あなたが嫌いなんですよ」
 ささやくような声が、そう呟いた。