Ria and Yuzuha's story:Second pray【楽園】〔5〕
舟を貸し出している商人から、竿さし舟ではなく手漕ぎのものを一艘借りて、リアは街の中央にある湖へと漕ぎ出している最中だった。
もちろんユズハも一緒に乗っている。水に濡れたくなければおとなしく座っていろと言ってあるから、舟の縁から身を乗り出すことはないだろう。保証はないが。
かつてフラグーンがあった場所だという湖は、水中に街の遺構などもなく、地下水脈や運河と繋がっているだけで、凪いだように静かな湖面を見せている。
リアの他にも、舟を漕ぎ出して景観を楽しんでいる者がいるらしく、何艘かの小舟がちらほらと見えた。いまはまだその数は少ないが、春や夏になれば地元の人間の他にも観光にやってきた者たちで、この湖はにぎわうのだろう。
湖のほぼ中央あたりまで漕いでくると、リアは櫂を放り出して舟の上に寝ころんだ。
太陽が真っ白で、まぶしい。
「ねえ、ユズハ」
「ン」
「さっきの人、あんたは好き、嫌いどっち」
「ヘン」
「だから、そうじゃなくて。変は変として、好きか嫌いか聞いてるの」
ユズハが、寝ているリアの顔を覗きこんだ。
一転して視界が暗転する。太陽を目にしていたリアに、この影の中は暗すぎる。
「どうしテ、そんなコト、聞ク?」
「だって、あたしはそんなに悪い印象受けなかったんだもん」
ややムッとしながらリアはそう答えると、手を伸ばしてユズハの髪に触れてみた。
当然ながら、髪だ。
焼けるとイヤな匂いを発する『本物』の髪かどうかは別として。
「シルフィールさんは気に入らないみたいだし、アーウィスさんはめちゃくちゃ嫌いみたいだから、あんたはどうなのかと思って」
まあ、あんたに聞いてもムダかもしんないけどね、と呟いていたリアはうっかり返事を聞き逃すところだった。
「キライ」
「………え?」
「ゆずは、あれキライ。言っタ。これでイイ?」
リアは思わず起きあがると、ちゃんとユズハの方に向き直った。
「め、珍しいわね………」
「くーんが、言えっテ言っタ。だから」
「ありがと………」
戸惑いながらリアはユズハにそう言って、今度は自分自身に向かって首をひねった。
(ならやっぱり、あたしの第一印象が間違っていたのかしら)
あの双眸に、とても強い浄さを垣間見たような気がしたのだが。
もしかしたら、シルフィールたちが気にしている新興宗教の教祖とは別人なのだろうか。
しかしリアの直感は、第一印象の聖性と同じくらい彼女がその当人だと告げている。
心を常に穏やかに。
恨まず。憎まず。
心を澄ませて。
きよらかに。
楽園へと。
(あたしの母さんなら『つまんない人生』の一言で片づけちゃうんだろうけど)
当然ながら、たった今リアがいるこの場所で彼女の父親と母親に何があったのか、彼女にわかるはずもない。
リアは知らないうちに閉じていた目を開いた。
湖面のさんざめく光の乱舞が強く目を射る。遠くの岸辺で解け残った雪とガラス窓が白く光を弾いて、サイラーグの街もきらきらと光っている。
光に包まれている。
まぶしい。
きれいだ。
リアはなぜだか、少しだけ泣きたくなった。
「あんたさっきアークさまとお話していた人だろう?」
そう言って呼び止められたのは、舟を元の船着き場に戻そうと、運河の中に入りこんだときだった。
見れば、いつのまにか隣りに並んだ舟に座っている中年の女性が、好奇心に満ちた愛嬌のある目でリアとユズハを眺めている。
「アークって誰よ?」
リアが聞き返すと、彼女は目を丸くした。
「おや。じゃあ人違いかね。いや、そんなはずはないよ。あんたみたいな別嬪さん、一度見たら忘れられるもんじゃない」
舟の行く先に、以前の街の遺構が飾りの彫刻のように飛び出していて、二艘の舟はいったん左右に分かれてそれを避けた。
向こうが再び舟を隣りに寄せてくるその間に、リアは心当たりを思い出していた。
「もしかして、午前中の黒髪の女の人のこと? あの、眸が―――」
何色だっただろう。
それを思い出す前に、清浄な印象ばかりが先に出てくる。
「眸が、きれいな人」
「そう! そうだよ、その人がアークさまだよ! やっぱりあんたもあの人の目を見てそう思うんだねぇ。みんなそうだよねぇ」
彼女が嬉しそうにバンッ、と縁を叩いてくれたおかげで、舟は大きく揺れた。落ちそうになるユズハを慌ててリアはつかまえる。
「あの人はすばらしい人だよ」
商人らしい女性は、目を輝かせている。
「あたしは初めて見たときから、ずっとそう思ってる。ここのことを呪われた街だなんて言うどころか、逆にほめてくださるしね」
彼女の話すペースに巻き込まれそうになって、リアは慌ててそれを遮った。
「じゃあ、あなたも教えを守っているの?」
「教え?」
彼女はきょとんとまばたきした。
「違うの? あの人は心の在り様を説いてまわっているんじゃないの?」
「違うよ。ああ、でもそうかもねぇ」
「いや、どっち」
思わずリアは突っ込みを入れる。手元がおろそかになったせいで、運河の壁面に舟がかすりそうになった。
「いや、それはね。説いてまわっているんじゃないんだよ。あの人が実際にやっていることをあの人が話して、それをみんなが真似しているだけだよ」
(それを説くっていうんじゃあ………)
「あの人は一言もそうしろ、なんておっしゃらないよ」
水面の照り返しを受けて、彼女の櫂を持つ手や顎先が白くきらめいた。二艘の舟は幅の広い運河の隅で、おもちゃのようにゆるやかに漂っている。
半信半疑で聞いているリアに気づいたのか、彼女は顔をしかめて手をふった。
「それにね、やれったってできることじゃないんだよ」
「え?」
商人らしく色々な小間物を並べた舟の上で、その女性は苦笑してうなずいた。
「あたしも恥ずかしながらやってみようと思ったことがあるけどね、三日もすると我慢できなくなった。あの亭主に腹を立てずにいられる日なんてないね。恨まず憎まずきよらかに、なんて凡人にできることじゃあないんだよ。だからあの人の真似をした人たちってのは、たいてい三日もすればそれをやめちまう」
リアは混乱した。
教えを説いてまわっているのでないとしたら、いったいどうしてああも人だかりができるのだろう。
「できないことを言っているのに、どうしてアークって人を崇めてるの」
「そりゃあ、それができるからだよ。だからすばらしいんじゃないか」
当然とばかりに彼女は言い切った。
「あの人ときちんと話してみれば、あの人を嫌いになれる人なんかいやしないよ。なんでこんなまっさらな人がこの世にいるんだろうって、なんだか泣きたくなる。それにね、嬢ちゃん」
彼女はずいと舟から身を乗り出した。
「崇めているんじゃないよ。みんなお慕いしているんだよ。崇めたりする神様ってのはお慕いするもんじゃないだろう?」
その顔の迫力に押し切られるようにして、リアは黙って何度もうなずいた。
それを見て女性はいたって満足したらしく、それ以上アークという女性について語るのをやめた。代わりにさすが商売人というべきか舟に積んであった雑貨の説明をし始めたが、リアはそれを適当に聞き流して、ユズハが欲しがるものを適当に買ってやった。
舟を返して陸に上がった後も、リアはずっと考えこんだまま歩き続けていた。
もしユズハがあたりをうろちょろしていたら、まず間違いなくはぐれていただろうが、どういうわけか今回は比較的おとなしくリアのあとをついてきた。
アークと呼ばれる新興宗教の教祖。
新興宗教というのもおかしい。何も崇める対象がないのだから。
教祖というのも変だ。教えを説いているわけでもなく、人々に対して何か啓発的な活動をしているわけでもないのだ。
ただ、そこにいるだけ。
ただそこにいるだけで、勝手に人々が心酔しているとでもいえばいいのか。
シルフィールやアーウィスから聞いた話とは、だいぶ食い違っている。
いったいどっちが正しいのだろう。
リアとしては嫌いというわけでも好きというわけでもない。
ただ、どうしようもなくあの双眸に惹かれる。
(あんなふうに、まっしろでいられるものなの?)
透明に澄みきって。
信じられないくらい穏やかに凪いだ目が、もし本当にできるのなら。
けっこう、それも悪くないんじゃないかと、リアは思う。
それが本当ならば、だ
とにかくもう一度会って確かめてみるしかない。
そう思ってリアは街を探し歩いたのだが、結局、彼女を見つけることはできなかった。
エディラーグの神殿内の調理場で、ミレイは大量のタマネギを目の前にして泣いていた。
すぐ傍には涙防止用の水が置いてある。たしかに水を飲むと目は痛くなくなるが、効き目は一瞬だ。
もうどうせだから、いまのうちに泣いておくことにする。
「それでね、それでね」
「はいはい。ミレイ、そこ繋がってる。ちゃんと切って」
同僚の巫女が冷淡に、ミレイの手元を見て注意を促した。
「も、もう。ちゃんと聞いてよう」
「聞いてるわよ。あんたそそっかしいから、ちゃんと手元見ないと指切るわよ」
「タマネギなんか目をつぶってても切れるわよう」
「指も、目をつむってても切れるわよ」
ミレイは二の腕までまくり上げた袖で目元をぬぐった。
目が痛い。
痛いし哀しいしで、ぬぐった涙はすぐにぼろぼろこぼれた。
「それでね、すごく綺麗なコだったの〜、あたしじゃ勝ち目ないぃ〜」
「ああ、あたしも見たわよ。美人だったわよね」
「うえぇえぇぇ」
「自分で言ったくせに泣いてんじゃないわよ」
自分の担当分を切り終えた巫女は、ミレイのいっこうに減らないタマネギを見て、嘆息しながら、ひとつそれを取りあげた。
「ゼフィアさんはお目が悪いんでしょ? なら外見なんか関係ないじゃないの。あんたにもまだチャンスあるわよ」
「そ、それってやっぱりあたしブスってこと?」
「違うわよ! もーいいからタマネギ切って!」
ミレイはまた目元をぬぐって、素焼きの椀から水を飲んだ。
「でも、ゼフィア様のお目は治ってほしいの。でないとここに帰ってきてくれないし」
治らなかったらずっとセイルーンだ。
「でも、お目が見えるようになったら、やっぱりあたしじゃ勝ち目ないぃ〜」
「人間外見じゃないわよ。あんたもけっこうイイ線いってるって」
「どこが?」
ようやくみじん切りを再開したミレイは、洟を啜りあげながら聞き返した。
「ほら、あんたけっこう可愛いわよ。神殿長様もときどき色目使ってくるじゃない」
「あの人基準にしないでよ! だいたいあたし、そばかす浮いてるし、まつげ長くないし、口だって大きいと思うし………」
「あら」
巫女は不意に唇のはしをクイと吊り上げた。
「あたし好きよ。あんたのその髪」
言われてミレイは一瞬、呆然とした。
「あ、ありがと………」
思わず手元が狂う。
ザックリいった。
「きゃー!?」
「言ったそばから何やってんの!? もーあんたホメるの金輪際やめる!」
「きゃー痛いーッ!」
「当たり前でしょ! ほら抑えて傷っ。タマネギの上に血ィたらさないで!」
二人で大騒ぎしていると、調理場の入り口から巫女頭が顔を覗かせた。
「何をやっているんです」
「え、え、あの、指を………」
「またですか」
盛大に嘆息すると、巫女頭はさっさと治癒を唱えてミレイの怪我を治してしまった。
普段は、骨折とかでもしないかぎり、上の者には呪文を唱えてもらえない。
ミレイ自身も、呪文はいま習得している最中でまだ治癒は使えないから、この怪我は薬でも塗って放っておかれるはずだった。
ミレイがびっくりして巫女頭を見ると、初老の巫女はにこりともせずにこう告げた。
「いまのは特別です。神殿長さまがお呼びですから血まみれでは困ります。何でもサイラーグまでのおつかいを頼みたいそうですよ」
「サイラーグ!」
思わずミレイは叫んで、即座に神殿長の執務室へと駆けだしていた。
「あっ、バカ。今度は転ぶわよ!」
「その意見には賛成ですが、バカとはなんたる言葉遣いですか」
「すいません。でも指切ったあとですよ」
「………そうですね」
廊下の角を曲がる辺りで、ミレイの悲鳴と他の神官の悲鳴が聞こえてきた。
「………行っておあげなさい」
「はい。執務室まで送ってまいります」
巫女はまくっていた袖を降ろすと、優雅に一礼して調理場を出て行った。