Ria and Yuzuha's story:Second pray【楽園】〔6〕
サイラーグ行きの乗合馬車の席上で、ミレイは書簡入りの革袋を抱きしめたままにこにこしていた。
(昨日の今日でサイラーグですって。ゼフィアさまもまだいらっしゃるだろうし、あのリアってコが一緒だとはいえ、会えるのに変わりはないわ。ああっ、あたしってばツイてるっ)
嬉しくて、そのたびに手に持っている袋をぎゅうっと抱きしめるものだから、木の皮を丸めて作ってある書筒の無事が危ぶまれたが、舞いあがっているミレイはそこに気づかない。
ミレイが神殿長から言い付けられた用事は、シルフィールに薬学書と一緒に渡す予定だった書類をサイラーグまで届ける、というものだった。
他にも何か言っていたのだが、舞いあがっていたミレイは全然覚えていなかった。かろうじて覚えているのはこの書簡は神殿間の公式文書だということぐらいである。
(あの神殿長さまも一応ちゃんとお仕事なさっているということよね)
彼女はかなりひどいことを考えた。
それはともかく、先程までタマネギを切りながら泣いていたせいで、目が腫れぼったいのと、手が匂うのが気になった。一応、汁気のある香草をこすりつけたのだが、まだ微妙にタマネギ臭い。
(着く頃には暗くなっているだろうから目が腫れぼったいのはいいとして、やっぱり檸檬の皮もらっておくんだった)
慌ただしく出発したのでほとんど手ぶらに近かったが、行き先は目と鼻の先のサイラーグなので気にするほどではない。夜に乗合馬車は走らないから向こうで一泊することになるだろうが、それぐらいならなんとでもなる。
舞いあがっていたミレイがようやく地に足をつけたのは、もうそろそろサイラーグに着くという頃になってからだった。
(一度まじめに考えてみなくちゃ。たとえあのリアってコがゼフィア様のおそばにいたって、ゼフィア様があのコのことをお好きじゃなきゃいいわけだし、その逆であのコがゼフィア様のことなんか何とも思ってなければだいじょうぶってことよね)
ミレイはそこで両頬を押さえた。
(ああああ、でもセイルーンに誘ったことといい、あの顔つきといい、ぜったいあれは意識しているって感じだったわ)
もはやミレイの中ではそれはほとんど確定事項であるが、もしリア本人がこれを聞いたなら、まず怒る。内心どうあれ、怒りだすのだけは間違いない。
(ええっともしそうだとしたら、向こうのほうがセイルーンまでずっと一緒にいるわけだし、美人だし、もしお目が見えたときに傍にいたりなんかしたら………。やっぱりあたしに分が悪すぎるわよう)
さっきから一人で表情をくるくる変えているミレイに、馬車内の他の客たちが気味悪そうな顔をしているのだが、彼女はそれには気づいていない。
(あたしのほうが小さい頃からずっとずっと好きだったのにい。神様も出逢わせるにしても、何もあんな美人じゃなくてもいいじゃないのよーっ)
ミレイが内心絶叫したとき、馬車はめでたくサイラーグへと到着した。
日はもうすっかり落ちている。
馬車から降りて、濃い水の匂いのする夜の街を歩き出すと、ミレイの気持ちも自然と落ち着いてきた。
落ち着きすぎて、やや下降気味になってしまったのは仕方ない。
「ああ、もう………」
通りを歩きながら、ミレイは思わず唇を噛んだ。
(ずっと一緒だなんて、ずるいわ)
どうしたって嫉妬したくなくても、してしまう。
「いやだなあ、もう………」
ぼやきながら角を曲がったところで、ミレイの足は縫い止められたように動くのをやめてしまった。
視界のほぼ中央に、何か白い塊がぼんやりと浮かんでいる。
なんだろうと思っているうちに、それはそこに立っている人物が着ている服だということがわかった。
闇のなか鮮やかに浮きあがっている白い服を身にまとっているのは、女性だった。
広がる運河を覗きこむようにして、誰もいない通りの端に独りで立っている。
「………あら」
彼女はたったいま気がついた様子でミレイのほうをふり返った。夜に溶けこむような黒髪が、街灯の明かりを反射して表面だけ星のように輝いた。
「こんばんは。巫女の方」
ミレイは危うく悲鳴をあげそうになって、悲鳴をあげようとしたことに愕然となった。
(なに………やだ………)
膝が笑い出している。
無意識のうちに後ずさっていた。
「どうかしましたか。ご気分でも悪いのですか」
戸惑ったように彼女が一歩、前に踏み出した。
途端、ミレイは身をひるがえしてその場から逃げ出した。
悲鳴をあげそうになる口をしっかり押さえる。裾が足にもつれて何度も転びそうになった。
(なんで………!)
神殿行きの舟に転がるようにして乗りこむと、船頭が仰天した様子で慌てて舟を出してくれた。
舟の縁にしがみつきながら、ミレイは蒼白な顔で水面を凝視し続ける。顔があげられなかった。
綺麗な容貌だった。
瞳も髪と同じく星のように煌めいていたのを覚えている。
どこにもおかしなところなんてなかった。
なのに、どうして。
(どうしてあんなに怖いの !?)
書簡を落としてきたことに気づいたのは、神殿に着いてしばらくたってからだった。
「かみのみこ」
少女の背中を見送りながら、彼女はそう呟いた。
白袖に包まれた自身の腕に逆の腕でそっと触れる。
「神託を受ける資質のある者はやはりみな、どこか鋭い」
肌を刺すような冬の冷気が、まだ街のそこかしこに残っている。
春はまだだ。
「わかってしまうのですね」
声に悲痛な響きをわずかににじませていても、その瞳にゆらぎの色はない。
風に押されて足元まで転がってきた筒を、彼女は静かな動作で拾いあげた。
蓋と胴の境目には赤の竜神を意匠化した封蝋が施されている。
この世界の赤い神。
「魔は、負を糧とする」
ならば、神は?
うつくしい心で在れば神は愛でてくれるのか。
きよらかな希望を召しあげてくれるのか。
答えなど、とっくに自分は知っている。
神は正など掲げない。
彼女はうっすらと微笑した。
「神も魔も等しく等価であるのなら、わたくしのようなものはいったいどこへいけばよいのでしょう」
闇の中、楽園への光明を掲げ続ける。
(いつまでも、ひとり)
(なのに私はまだ手放せないでいる)
共に在る者が、もう、いないのなら。
そして、まだ、見つからないのなら。
「多少は、望んでも赦されるのではないか、と」
闇を怖れる子どもようにそうささやいて、彼女は視線を運河の向こうの灯りへと巡らせた。
エディラーグにいるはずのミレイが神殿に駆けこんできたのは、リアとゼフィアのチェス戦があと三手で決着がつこうとしているときだった。
リアの負けは決定していたので、彼女は都合良く勝敗をうやむやにすることにした。ゼフィアは頭の中に駒の配置図があってそれでリアとゲームをしているので、時間を置けば配置を思い出せなくなるのはまず間違いない。
「あと三手だったんですけれど仕方ありません。ゲームよりミレイの方が心配です」
「そうしてくれるとあたしも助かるわ」
途中で、なぜか廊下に座っていたユズハを拾いあげて、リアたちはミレイがいる一室を訪れた。
椅子に座っているミレイの顔色は青さを通り越して真っ白だった。
「すっごい顔色悪いわ。真っ白」
リアはかたわらのゼフィアにそうささやいた。
その背後から暖かい飲み物ののった盆を持ってアーウィスが部屋に入ってくる。シルフィールがそれを受け取ってミレイに手渡した。
それを飲んで落ち着くと、今度は駆けこんできた自分がひどく恥ずかしくなったらしくミレイは顔を真っ赤にさせたが、シルフィールに事情を話しているうちに書簡を落としたことに気づいて、再び顔色が蒼白になった。
「どうしよう………もし運河に落ちていたりしたら………」
ミレイは口元を手でおおった。
紙自体は羊皮紙とはいえ、インクで書かれている文面が全部にじんでしまうのは間違いない。そもそも見つかるかどうか。
「どのあたりで落としたのかわかる?」
そう話しかけてきたのがリアだったので、ミレイは最初ぎょっとしたが、慌てて首を横にふった。
「夢中で逃げたから、よくわかりません………」
その言葉にユズハ以外の人間が激しく反応した。
「逃げた?」
「誰かに襲われたんですか !?」
シルフィールが慌ててミレイの肩をつかんで、その顔を覗きこんだ。
さら慌ててミレイは激しく首をふった。
「いいえっ! いいえ、違うんです! ただそこにいただけなんです」
そう口にしたあとで、ただそこにいただけで怖くなって逃げ出してきたと、果たして白状していいものかどうかミレイは迷った。
いまここで、暖かい飲み物を前にしてそういうことを話していると、単なる自分の気のせいだったように思えてくる。
「その人は、そこにいただけなんです。いただけなのに、あたしものすごく怖くなって………それで書簡………どうしよう………」
「何がいたんです?」
せっかくゼフィアが話しかけてきてくれたというのに、ミレイにはそれを喜ぶ余裕がなかった。
彼の問いに、先刻の記憶がよみがえる。
信じられないくらい綺麗な人だったのに。
とうめいな眸をした人だったのに。
「いたのは………ただの女の人、なんです………」
腕を組んで壁際にもたれていたリアの眉がぴくりと動いた。
「女の人が怖かったのか? よっぽどすごい顔でも―――っで!」
ちゃかしたアーウィスの口をシルフィールが持っていた盆で塞いだ。
「どこで会ったの?」
リアが壁から背中を離してゆっくりとミレイの前まで歩いてきた。
「あたし今日、街中だいたい歩き回ったから言えばわかるわよ」
「そうです。その女の人はどうあれ、落としたものは拾えばいいんです。その人に会った場所を詳しく教えてください」
シルフィールが出逢った場所に見当をつけて、そこから神殿行きの舟がある船着き場までの道筋を割り出した。
「おそらく、そのあたりに落ちているのではないでしょうか」
「わかったわ。取りに行ってくる」
あっさりリアがそう言って壁にたてかけてあった剣を手に取ったので、ミレイは仰天した。
シルフィールやゼフィアたちも驚いた顔でリアを見た。
日もとっくに暮れている。
いくら治安は悪くないと言ってもリアのような飛び抜けた容貌の少女がひとりで出歩いていい時刻ではない。
晩冬なので冷えこんでいるし、もし間違って運河に落ちようものなら心臓麻痺を起こしかねない。
「クーン、いまから出かける気ですか」
ゼフィアの咎めるような言葉にシルフィールもうなずいた。
「そうです。明日、明るくなってから人をやらせます。なにも今日行かなくても………」
「ちょうど食後の散歩に行くつもりだったからちょうどいいです」
「舟はもうないぞ」
「魔法で翔んでいくから平気です。夜の間に酔っぱらいなんかに拾われていたら困るでしょ?」
「それはまあ、そうですけど………」
シルフィールが困ったようにそう答えたとき、ミレイは椅子から立ち上がった。
「あたしも行きます!」
「ミレイさん?」
「あたしが落としたんですし………歩けば通った道、思い出すと思いますし………。落としたあたしが悪いんですからっ」
ミレイはリアをひたと見つめた。
「お散歩、一緒に連れていってください!」
左右に結いあげたヘイゼルの髪が床につくくらい頭を下げると、リアの狼狽した声が頭の上から降ってきた。
深みのある艶やかな声に一瞬ミレイは、
(声まで綺麗だなんて)
と思ってしまった。
「べ、別に連れて行くくらい、あたしは全然かまわないんだけど………お願いだから、顔あげて」
ミレイが顔をあげると、リアは困ったようにシルフィールに視線をやっていた。
「………えーっと、シルフィールさん?」
シルフィールはあきらめたように溜め息をついてうなずいた。
「夜のお散歩が好きだなんて、いったいガウリイ様とリナさんのどちらに似たんでしょう………」
「母さんだと思います、多分」
「まあリアちゃんなら、何かあってもミレイさんを守ってこっちに帰ってこれるでしょうし。仕方ありません。ただ、早めに戻ってきてくださいね」
「わかってます」
うなずいて、リアは腰に剣を佩いた。
「ユズハ、あんたどうする?」
これにはミレイも驚いた。
「おいおい、こんな小さな子まで夜の散歩に連れ出すのはやめておけ」
慌ててアーウィスが止めに入った。ゼフィアとミレイもそれぞれうなずく。
するとシルフィールとリアが目を合わせて、わずかに苦笑した。
「それはユズハが決めることよ。あたしじゃないわ。で、ユズハ、どうするの」
リアは至って気軽にそう言って、金髪を手で軽くかきあげた。
ユズハはリアを見上げると、すぐに首を横にふった。
「ン。行かナイ」
「そう。珍しいわね」
「本、見つけタ。読ム」
「わかったわ」
リアは剣を片手に、ミレイの方をふり返った。
金髪が鮮やかに光を弾く。
「じゃあ、行こうか」