Ria and Yuzuha's story:Second pray【楽園】〔7〕
「浮遊は使える?」
神殿を出てすぐ、運河を目の前にして、リアがミレイにそう訊ねた。
ミレイは小さく首をふる。
「まだです………あたし、発音がおかしいらしくって………」
頬が熱くなっていくのが自分でもわかった。
どういうわけか、ミレイ自身は毎回同じように発音しているつもりなのだが、その時によって発動したりしなかったり、したと思っても浮いた途端に落下したりするのだ。
その返答にリアが小さく笑ったので、ミレイはますます顔を真っ赤にした。
(ひどい。笑うなんて!)
きっと彼女は何でもできるんだろう。
魔法も使えて。剣も使えて。容貌だってとびきりの美人で。
何だか、ずるい。
自分みたいにあれこれ失敗しておたついたり、包丁で指を切ったり、何かに怯えるとか。
そういうことなんか、きっとないんだろう。
だから笑う。
ふいに軽やかな声がした。
「歌よ」
「え?」
突然そう言われて、ミレイはまばたきした。
「混沌の言語を言葉だと思うからいけないのよ。歌だと思って唄っていれば何とでもなるわ」
(う、歌?)
リアの手がミレイの手をとった。
すっかり冷たくなっているミレイの手とは違って、リアの手は仄かにあたたかい。
「というのはあたしの妹分の言葉だけどね。間違っていないわ。さあ、あたしのあとに続いて」
聞き覚えのある響きがリアの唇から流れ出した。
急いで聞き取って意味を把握しようとして、ミレイはリアの言ったことを思い出す。
歌だと思えと。
つまり音階と響きだけに注意を払えということだ。
輪唱のようにミレイはリアのあとに続いて呪文を重ねた。
リアに遅れて呪文が完成したとき、ミレイの足が石畳から離れる。
「………!」
「ほらできた」
ミレイの手を取ったままリアがふわりと微笑んだ。
その顔に目を奪われて、なんだか胸がどきどきする。
「あ、ありがとうございます」
思わずその笑顔から目を逸らしたミレイは、運河にやった視線をすぐに夜空へと移動させた。
浮遊の速度は遅い。
ようやく覚悟を決めて、眼下に広がる黒い運河を、ミレイは再びこわごわと見おろした。
「あ、あの、リアさん」
相手が顔をしかめたので、ミレイは何か間違えただろうかと内心半泣きになる。
リアはふいっと横を向いて言った。
「リアでもクーンでもいいけど、呼び捨てて。あたしも呼び捨てにするから」
(あ。なんだそういうことね)
自分の落ち度ではないとわかってホッとして、ミレイは言い直した。
「ええっと、じゃ、じゃあ、クーン」
そっちの名前の響きのほうが、なんだか特別で神秘的な感じがした。
「なに?」
「あ、あのですね」
風がリアの金髪とミレイの榛色の髪を夜のなかに流している。
勇気を出して言ってみた。
「こ、怖いので、別の手でもつかまってていいですか」
リアが盛大に吹きだした。
ミレイは再び顔を真っ赤にしたが、今度は腹は立たなかった
笑いながらリアが左腕を差し出す。
「どうぞ。エスコートするわ」
ミレイが腕に捕まったあとで、くすくす笑いながらリアは続けた。
「ゼフィじゃなくてごめんねー」
「ッな………!?」
ミレイはぎょっとして運河から目を離してリアを見た。
「なななななに言ってるんですかッ」
「いやだって見ててバレバレだし」
「いやだからそうじゃなくて!」
ミレイが声をはりあげると、リアはきょとんとした顔で見返した。
「違うの?」
「いえ違いませんけどそうじゃなくて!」
(ってどさくさに紛れてあたしも何言ってるのーッ!?)
「?」
リアがさらに首を傾げた。
「そうじゃないって何が?」
「だ、だからですね………」
会話が完全に噛み合っていない。
(もっと落ち着きなさいあたし! ………ってこの話の流れからすると、あたし訊かなくてもいいこと訊くハメになるんじゃ………)
ミレイは必死に頭を働かせて言葉を絞り出した。
「なんだってクーンがそんなこと言うんですッ」
「なんでって………からかおうかと思って」
「…………!?」
思わずミレイはつかまえていた腕から両手を離して、自分の頭を抱えこんでいた。
(違う、違うわ。あたしが訊きたいのはそういうことじゃなくってああああもうっ!)
「ミレイ?」
リアの声に、ミレイは視線をそっちの方へと向けた。
大人びた、凄みのある美貌の所有者だが、こうしてきょとんとした顔はどことなく愛嬌があって子どもっぽく見える。
思わず溜め息が口から洩れる。
(もしかしなくても………この人思いっきり鈍いんじゃあ………)
絶対そうだ。
とすると、自分はいままでしなくてもいい一人芝居をしていたことになる。
ミレイはますます大きく息を吐いた。
運河を渡りきって石畳の上に着地すると、二人は並んで歩き出した。
リアがライティングであたりを照らし、書簡を収めた筒が落ちていないか確かめながらゆっくりと歩く。
「クーン」
「ん?」
「どうしてクーンはゼフィアさまをセイルーンにお連れしようと思ったんです?」
リアの足が止まった。
一、二歩遅れてミレイも歩みをとめて、リアのほうをふり返る。
リアはすぐに追いついてきて、二人は再び並んで歩き始めた。
「ここに来る旅の途中でね。氷晶光を見たの」
「?」
「ゼフィもね、その場にいたけど、あたしは氷晶光が彼の目の前にあるってどうしても教えられなかった」
今度はミレイがその歩みを止めた。
リアがゆっくりとふり返る。
「あまりにも綺麗だったから」
手の中のライティングが揺らめいて、濃い陰影を彼女につけた。
光に白く染まっている指先とは違って、襟元や前髪に隠れた額などは夜に溶けこんで黒い。
綺麗だと口にするリアの方こそ、自分がどれだけ綺麗なのかわかっているのだろうか。
「見えないのなら無いのと同じものなんて、世界にはいっぱいあるの」
そうリアは呟いて、微かに笑った。
「あたしはそういうものをゼフィと一緒に見たいと思ったの。だから、ゼフィの目が見えるようなればいいと思った。それだけよ」
「それだけって………」
そう言い切る彼女の陰影の奥底に迷いはないように見えて、わずかに揺らぐものがあることに、ミレイが気づかないはずはない。
気づかないはずはない。
「もう知りません」
ミレイはリアに追いついて隣りに並んだかと思うと、すぐさま彼女を通り越して先へと進んだ。
(ひどい)
何だか泣きたくなる。
(どうして)
(どうしてあたしが気づくのよ)
本人は気づいていないのに!
しかも自分はどうしたっておそらく隣りの少女を嫌いになれない。
「ミレイ?」
艶やかな声が背中をうった。
「もう知りません!」
「へ?」
「とにかく!」
ミレイはくるりと向き直ると、リアに向かって指先をつきつけた。
つきつけたはいいものの、ミレイの顔は泣きそうに歪んでいる。
「あたしはあの方のことが大好きですから!」
「あ、ああ、うん………」
「よろしく、お願いしますね………」
リアは困ったように笑った。
「なんかよくわかんないけど、わかったわ」
笑ったその顔に、顔を強張らせてそれでも笑い返そうとしたミレイは、リアの表情が一瞬にして固くなるのを見て、急いで背後をふり返った。
(あ………っ)
夜の街に、ひとり。
自ら淡く光を放っているかのようなたたずまいで、そこに立っていた。
うつくしいひとみで、リアとミレイを見つめながら。
―――アーク。
背後のリアが、小さくそう呟いた。
「こんばんは」
柔らかい微笑と共に、先刻の女性はゆるやかに会釈した。
手には書簡。
「それを―――捜しに来たのよ」
「知っています」
彼女は静かにうなずいた。
「さっき、落として行かれました」
その視線がリアからミレイへと移動する。
(や………ッ!)
やっぱり怖い!
後ずさりそうになったミレイの背中をリアが支えて、その場に踏みとどまらせた。
ミレイをちらりと見やったあと、リアは慎重に口を開く。
「お昼に会ったわね。アークさん」
「ええ。また、お会いましたね。旅の方」
ミレイは愕然としてリアと目の前のアークと呼ばれた女性を交互に見つめた。
お昼に会った?
もしかしなくても、リアはミレイが遇った女性が昼間に会った人物と同一だと気づいて、外に出た?
「それを拾ってくれたの? どうもありがとう」
ミレイの背中からリアの手が離れる。かたわらを金色の影が前へとよぎった。
ゆっくりと近づいてアークの前に立つと、リアは書簡をその手から受け取った。
思わずミレイは大きく息を吐く。
返さないと言われたらどうしようかと思っていたのだ。
リアはなかなか戻ってこない。
かすかに話し声が届いた。
「アークというのね」
「そう呼ばれています」
「なら本当の名前は、なんていうの?」
赤い唇の鮮やかな笑み。
―――怖い。
「本当の名前など、忘れてしまいました」
リアはミレイのところまで戻ってくると、書簡をその手にしっかり握らせた。
「はい、手紙。先に帰ってて」
「どうしてです!?」
リアはわずかに目を伏せた。
「彼女と………話がしてみたいの」
「………!」
ミレイは子どものように首を激しく横にふった。
髪が千々に乱れてばらばらと頬をうつ。夜の湿気を吸って、重くべたついて気持ちが悪い。
「ダメです!! あのひとはダメです―――!」
「どうして?」
そう言ったリアの表情に、ミレイは絶句した。
「クーンは、あのひとを見て………あのひとから、何も感じないんですか!?」
「だから、何を?」
リアは眉をひそめている。
「ミレイ、何が怖いの?」
「…………!?」
「先に帰ってて。ちゃんとあとから戻るから」
もはやミレイは何も言わずにリアに背を向けて走り出した。
(あたしじゃダメだ………!)
神殿に戻らないと。
シルフィールに、知らせないと。
ミレイの足音が遠ざかるのを待ってから、リアはアークに向き直った。
さっきと何も表情を変えることなく、彼女はそこにたたずんでいる。
リアはゆっくりと彼女に近づいた。
カツーン、と夜の街に靴音が高く硬く、響く。
「彼女はあなたを怖がっているわ」
「はい」
小さくアークはうなずいた。
口もとには、微かな笑みがある。
「シルフィールさんも、あなたのことをあまりよく思ってないみたい」
「はい。知っています」
また、うなずく。
「けれど、あたしは何も感じないわ」
相手はわずかに首を傾げた。
カツン、とブーツの踵が鳴って、それきり止んだ。
「どうしてかしら?」
互いの距離があと一歩というところで、リアとアークは相対した。
アークのほうがわずかに背が低い。
真珠のようにほのかに白い彼女の顔を見て、リアは溜め息をついた。
やはり。
この眸は綺麗だ。
わけへだてなく優しく見守る女神のような視線。
これが怖いのだろうか?
それ以外に―――アークからにじみでる聖性以外に、彼女に特に際だつものなどないのだから、やはりそうなのだろう。
内面の空洞がそのまま真白に繋がっているような、そんな重みのない白さ。
たしかにそれは尋常ではない。
しかしそれは即、怯えに繋がる要素でもないはずだ。
「どうして、そんな眸ができるの」
アークはまた、わずかに首を傾げた。
「いったいどうやったら、何があっても揺るがないで穏やかにいられるの」
何をされても、怒らず、恨まず。
心を澄ませて、穏やかに美しく。
そうすれば、全ての世界の在り様は楽園へと変化する―――
目の前の彼女はそう説く。
しかし彼女は他人にそうしろとは言わない。
ただ自分がそう在るだけ。
「あなたはいま、楽園にいるの?」
「うらやましいですか?」
不意に、アークがそう訊ね返した。
リアは虚を突かれて黙りこんだ。
波のない日常。
いまの自分と全く正反対の。
怒らなくてもいい。厭わなくてもいい。
羽根のように軽く、それはうつくしい。
そして何より―――
無数の想いが錯綜して混乱しかけたところで、それをふり切るようにリアは強くかぶりをふった。
「もし、本当にそんなことができるんなら」
そうきっぱりと答える。
うらやましいのは事実だった。
しかし、そんなこと不可能だということをリアは知っている。
経験的ではなくどこか本能的に知っている。
―――それは危険だと。
「けど、誰もそんなことできるはずない。みんな雑音だらけで生きているのよ」
雑音を殺して静寂のただなかにいると、今度は自分の体の中から音が鳴り出すのだ。
音は消えない。
感情は消えない。
心は澄まない。
「いいえ」
アークの指が自分を指し示した。
「私はここにいます」
「そうよ。だから知りたいの。どうしてあなたはそんな実現不可能なことを体現できているの」
アークがそのフリをしているだけだとはリアは思わない。
間違いなく、彼女は本物だ。
彼女の周囲には音がない。
湧き起こった負の感情をむりやり押し殺しているわけではない。
本当にただ、無い、のだ。
アークは謎めいた笑みを浮かべて、わずかに目を伏せた。
「わたくしにはできるのです」
長い睫毛が落とす影の奥から、瑕のない宝石のような澄んだ瞳がリアの姿をとらえる。
「おそらく、あなたにも」
「 !? 」
リアは動揺を隠しきれずに一歩後ずさった。
アークの笑みの質が変わる。
子どものように嬉しそうにその言葉が告げられた。
「―――必要に、迫られたのならば」
力が渦を巻いて、リアに向かって収束した。