Ria and Yuzuha's story:Second pray【楽園】〔8〕

「―――ッ !?」
 リアはたまらず石畳に膝をついた。
 肩から滑り落ちた髪がカーテンのように左右の視界を隠す。今のリアにそれを払いのける余裕はない。
 かろうじて視界に入る石畳についた片手を黒い霧のようなものが這いまわっていた。
 それを確認するのが精一杯だった。
 四肢の自由がきかない。
 何かが浸食している。
 おそらくこの―――黒い霧。
 たとえようもなく不快な気配がした。腐臭のような、あらゆる負の感情が混じりあったような、濃密な空気。
(何これ………!?)
 不意に、白い指がリアの髪をそっとかきあげて頬に触れてきた。
「心の乱れを沈めなさい」
「アーク………!?」
 冷ややかなその指を手で打ち払って、リアは渾身の力で目の前の華奢な肩をつかんだ。
 その勢いにわずかにアークの上体が揺らぐが、彼女の視線がリアから逸れることはなかった。
「あなた………あたしに何を………!」
「心を澄ませ、受け入れなさい。怯えてはいけません。心を波立たせてはいけない」
 赤い唇が淡々とささやく。
 奇妙なことに、その透明な双眸には本気でリアのことを案じる様子がうかがえた。
「うつくしく保ち、揺るがない心を持ちなさい。でないと―――」
 宣告。
「魔族に、乗っ取られます」
「―――!?」
 リアは愕然として目の前の聖女を見あげた。
 彼女はこう言った。
 必要に迫られたのならば、と―――

Ria and Yuzuha's story:Second pray【楽園】

 どうにか呪文を制御して神殿に帰り着いたミレイがシルフィールたちに事情を説明していると、おとなしく本を読んでいたユズハが突然その本をテーブルに叩きつけて立ち上がった。
「バカくーん!」
 アーウィスがぎょっとした顔で、さっきまでおとなしかった幼女を見る。
 彼らは、即刻連れ戻しに行くべきだというミレイとアーウィス、子どもではないし帰ってくるといったのだから騒ぎ立てるのはよくないというシルフィールとゼフィアとに別れて、揉めに揉めている最中だった。
 そこに突然、静かに本を読んでいて、旅の保護者の状況にはまるで関心を見せなかったユズハが彼女の名前を呼びながらバカ一声である。
 シルフィールたちが唖然としている間に、ユズハは椅子から飛び降りて窓に駆け寄った。
 彼女の背丈では掛け金に手が届かない―――
 そうミレイやアーウィスが思うなか、なんのためらいもなくトンと床を蹴った両足が宙に浮く。
 窓が外に開いて、夜気がユズハの細い髪を巻きあげた。
「ユズハちゃん !?」
「あれは、ゆずはと似てル。混じっテいる。ゆずは、あれキライって、言っタのに!」
 シルフィールが慌ててユズハに手を伸ばした。
「待って、ひとりではダメです。わたくしも―――!」
 ユズハがその金髪を乱して癇性に首をふった。
 熾火のような双眸が窓の外から、室内へと向けられる。
 子どもにできる目ではない。
「なら、来テ」
 ミレイは息を呑んだ。
 その目で見たもの全てに火がつきそうな、灼熱の色をしている。
 揺らめく炎の色だ。
 子どもの形をとった子どもではないものがここにいる。
「先に行ク。待てナイ」
「ユズハちゃん―――!」
 制止の声は間に合わなかった。
 ユズハの姿が―――熔けた。
 ミレイの眼前で、飴のようにその姿が熔けて、朱く輝く光の珠へと変化する。
 熱い。
 思わず目を閉じたミレイの頬を熱気がうった。
 焦げた匂いがする。
 次に目を開けると、ユズハの姿は消えていた。窓枠が黒く炭化して、シルフィールがかけたお茶が蒸発して白い煙をあげている。
「燃焼を制御し忘れるなんて………!」
 シルフィールは慌ただしく椅子の背にかけてあった外套を手に取った。
「すいません。少し神殿を留守にします」
「待ってください。いったい何が―――」
「説明している時間がありません」
 ゼフィアの問いは遮られた。
「待て、シルフィール。俺も連れて行け」
「ダメです」
 きっぱり拒絶されて、アーウィスは絶句した。
「ユズハちゃんがああまで言うのなら、何かあったとき、ウィスの剣ではたとえどんなに腕が優れていてもムリです。だから連れて行けません」
 風に渦巻く黒髪の下でシルフィールは微笑んだ。
「帰ってきたら説明させますね。どうやらリアちゃんが原因みたいですから」
 止める暇もあらばこそ。
 シルフィールも窓から姿を消した。
「何だってんだ?」
 アーウィスが呟いて、テーブルに思い切り手を叩きつけた。
 バシンッ、と響いた音にミレイはビクッと肩をふるわせる。
 大きな音ではなくても、何かが叩かれて出る音というものが彼女は怖い。怒りの波動に似て、空気が振るえているのがわかるのだ。
 物音に何事かとやってきた神官たちに「何でもない!」と一喝して追い払うと、アーウィスは苦々しげに呟いた。
「俺は何のためにいるんだ? 俺はシルフィールの護衛なんだぞ」
「アーウィス。八つ当たりしないでください。見苦しいです」
「何だと?」
 アーウィスがゼフィアを睨みつけた。
 あっという間に険悪になりかけた室内の雰囲気に、ミレイは竦みあがった。
 こういうのは本当にダメだ。
 他人が発する剥き出しの生の感情というのは、いつでも怖い。
 ゼフィアは冷ややかにテーブルを軽く叩いた。
「私に言わせる気ですか。私は何かしたくとも何もできないと」
「ゼフィ―――」
 冷厳とした声音で、ゼフィアがアーウィスに言った。
「状況を説明してください。私にもわかるように」




 リアは魔族に遭ったことがない。
 レッサーデーモンが大量発生して半島全域を揺るがせたのは彼女が生まれる前のことで、それを別としても幸か不幸か、純魔族はおろか亜魔族にさえ遭遇したことがない。
 しかし母親から魔族についてだけは嫌と言うほど聞かされた。
 魔族の知識は魔道士協会の本は間違いだらけで、母親が教えてくれる知識は即実践へと繋がるような代物ばかりだったから、自分が生まれる前―――若い頃、母親はいったい何をしていたのだろうと思ったことがある。
(あんたはあたしの娘だからね。出先で魔族にケンカふっかけられるかもしんないから教えとくわ)
 それによれば下級魔族が自我の弱い小動物に憑依し、その肉体を変質させレッサーデーモンとなる。逆に言えば、自我の強い人間に魔族が憑依することはできない。
 はずだ。
「アーク………っ、魔族は人間には憑依できないはずよ………!」
「ええ」
 革手袋に包まれたリアの手を握りながら、アークはあっさりとうなずいた。
「ですが、同化はできます」
「………最ッ悪!」
 リアは悪態をついてアークの手をふり払った。
 立とうとするが、立てない。
 力が入らない。
 発作のように、リアの唇から自嘲の笑みがこぼれた。
「―――ダメよ」
 黒い霧がゆるやかに腕を這い昇ってくる。  リアは首を横にふった。
「あたしにはダメなの。できないの」
 受け入れられない。
 必要に迫られてもなお、できないからうらやむのだ。
 アークが微かに眉をひそめた。
 繊細な痛みをあらわす仕草だった。
「あなたにならできると思ったのに………」
 独り言めいたささやきが唇から洩れた。
 ―――今度こそ、得られると思ったのに。
 一瞬、リアは怒りに我を忘れた。
 教えを広めないのは、広めてもムダだから。
 彼女が実践していることは誰にでもできることではないと、彼女自身よくわかっているから。
 ただ、資質を持つと思った者にだけ魔族を同化させ、それを強要させる。
 彼女自身がそうしているように。
 心をうつくしく、穏やかに。浄く。
 同化した魔族に主導権を渡さないためには、そうするしかない。
 そうしてまで得られるものはいったい何なのか。
 そこまですることに、何の意味が。
「ダメです。心を乱しては―――」
「うるさいッ!」
 リアはアークを突き飛ばした。
「あたしは、あたしはね、あなたとは全く逆の方法でいままで何とかやってきたの。アークのようには―――なれない!」
 殺さなければならない想いが多すぎる。
 抑圧に耐えられない。
 アークが軽く息を呑んだ。
「あなた、まさか………」
 リアは最後まで言わせなかった。
「だから、さっさとあたしから退きなさい !!」
 その声に撲たれたかのように黒い霧が滑るように離れる。
 おそらく低級魔族であるそれに向かって、彼女が剣を抜き放つより早く―――
崩霊裂ラ・ティルト!」
 シルフィールの声と共に立ち昇った光の柱が、霧を跡形もなく撃ち滅ぼした。
 振り仰ぐ間もなく、紅蓮の炎がアークとリアとの間を分かつように地面へと突き立つ。
 陽炎をともなう熱波が二人を襲った。
「ユズハ………ッ」
「バカくーん!」
 瞬時に人型へと変じたユズハが、常軌を逸した速度でリアの方に駆け寄ってくる。
 生まれて初めてユズハから罵倒されたリアは、愕然と目をみはった。
「ゆずは、キライって、言っタ!」
 ユズハはアークのほうをふり返る。
 何が起きたのかわからない様子でこちらを見つめている彼女に鋭い一瞥を投げると、ユズハははっきりと口にした。
「ゆずはと、一緒。混じっテいル。ゆずは、精霊と邪妖精ブロウ・デーモン。このヒトは、ヒトと魔族―――!」
 シルフィールが険しい表情でアークの方へと目を向けた。
「ミレイさんは見たところ感覚が鋭いほうです。彼女がああも怯えるのなら、あなたは人ではありません。リアちゃんに何をしようとしました?」
 ようやくアークは放心から脱し、微笑んだ。
「魔族を同化させようと」
 こうまではっきりと言われるとは思っていなかったらしく、シルフィールが鋭く息を呑む。
「たとえ同化しても、負の感情を発さずにいれば魔族を封じこめたままでいられます。魔族に主導権をとられることはありません」
「あなたのようにね」
 抜き身の剣を手にリアが立ち上がった。
 剣の刀身には魔皇霊斬アストラル・ヴァインによる赤い光。
「アーク。あなたは何。あたしをそうしようとしたように、あなたのうちにも魔族がいるんでしょう?」
「ええ。ここに」
 ツ………と自分の胸に指を触れさせたあとで、アークはその指で服の下から首にかけていた鎖を引きだした。
 鎖の先には大粒の金剛石。
「そして、契約の石もここに」
「まさか不死の契約も !?」
「昔話をいたしましょうか」
 アークは子どもに物語を読み聞かせる母親のような表情で微笑んだ。